新潮文庫


しゃぼん玉
乃南アサ

女性や老人だけを狙った通り魔や強盗傷害を繰り返し、自暴自棄な逃避行を続けていた伊豆見翔人は、宮崎県の山深い村で、老婆と出会った。翔人を彼女の孫と勘違いした村人たちは、あれこれと世話を焼き、山仕事や祭りの準備にもかり出すようになった。卑劣な狂犬、翔人の自堕落で猛り狂った心を村人たちは優しく包み込むのだが……。涙なくしては読めない心理サスペンス感動の傑作。

ISBN:978-4-10-142546-7 発売日:2008/02/01

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しゃぼん玉


   プロローグ


 信号を無視して交差点を突っ切った途端、鋭いクラクションの音が空気を震わした。反射的に怯みそうになって、原チャリのハンドルがぐらついた。
「馬鹿野郎っ、死にてえのかっ!」
 どこからか男の怒号が聞こえた。慌てて体勢を立て直すと、伊豆見翔人は顎を突き出すような姿勢で、そのまま交差点の向こうの暗がりを目指した。この辺りの地理がどうなっているのかなど、まるで分からないのだから、とにかく闇雲に走るしかない。耳元で風が鳴り、自分の乗っている原チャリのエンジン音が、翔人自身を追いかけているような気がしてくる。
 走り込んだ界隈は、住宅と田畑らしきものが混在しているようなところだった。だが、家の明かりといっても、時折、ぽつん、ぽつんと門灯が見えるくらいのものだ。夜道を照らす街灯さえ立っていない。そんな夜の町を、気が向けば角で曲がり、またスロットルを一杯に開いては直進するということを続けた。途中で小高い丘らしい場所の裾野をくるりと回った。しばらくは田んぼだか畑だかが続き、また住宅地に入る。
 ある角を曲がったら突然、原チャリのライトが真正面にコンクリートの壁を照らし出した。咄嗟に左折して、その壁沿いを進んだところで、周囲よりもさらに深い闇が近づいてきた。大きな木が繁っている。公園か、または神社か何かのようだ。ここまで来てようやく、翔人はほんの数時間前に盗んだばかりの原チャリのアクセルを戻しながら、ちらちらとバックミラーを覗き込み、さらに身体を捻って後ろを振り返った。大丈夫。誰かが追ってくる気配はない。
 木の下に原チャリを止めてエンジンを切り、バイクのスタンドを立てている間も、さらに辺りの様子をうかがう。大分、離れたところに、街灯らしきものが幾つか列を作っているのが見えた。あとは遠くの家々の明かりと、ごく弱い月明かり程度だ。もしも誰かいたとしたって、これでは分かるはずもない。それは同時に、翔人自身の姿もこの闇が隠してくれているということだった。誰の物かも分からないお椀形のヘルメットを脱ぎ捨てて、ハンドルに引っかけていた女物のショルダーバッグを手に取り、その闇の中を歩き始める。
 ――ここまで来りゃあ、もういいだろう。
 最初のうちは極めて冷静に、ゆっくりと歩くつもりだった。それなのに、どうしても急ぎ足になってくる。足が勝手に動くのだ。自分の呼吸する音と衣擦れの音ばかりが、やたらと大きく聞こえる気がする。その音に急かされるように、翔人は闇の中を進んだ。
 ――それにしても、やばかったな。今日のは。
 ついに小走りになりながら、軍手をはめたままの左手を何度かグーパーして、さらに顔の前に持ってきた。この闇の中でも、特に人差し指とその周辺が黒っぽく汚れているのが分かる。今度はジャンパーのポケットからバタフライナイフを取り出してみた。刃を引き出すと、こちらにもやはり黒っぽい何かがべったりついていた。
 ――やっぱり。
 手元が狂ったのだろうか。今まで通り、軽く斬りつける程度で良いと思っていたのに。何しろ、こちらの目的は相手のバッグだ。金だ。だから相手が怯み、ついでにいえば、ちょっとした悲鳴でも上げてくれれば、それで十分のつもりだった。背中越しに聞く女の悲鳴は良いものだ。ほんのわずかでも、キャッとか、イヤッとか、そういう声を聞いただけで、頭の中がすうっとする。
 それが、今夜に限っては調子が違っていた。原チャリのスピードが完全に落ちていなかったか、それとも距離の取り方を間違えたのだろうか。とにかく予想外に強く、一瞬、何かにぶつかったような、どん、という感触があったかと思ったら、次には、このナイフが相手の服を破り、同時に肉の中に深く食い込んだらしい手応えが、翔人の手のひらに伝わってきた。あれっ、やべえ、と思って急いでナイフを引き抜くときには、多少の抵抗感があったくらいだ。女は「うっ」というような声を上げたと思う。その時には、翔人はナイフを握ったままの手を、相手が肩からかけていたバッグのベルト部分にくぐらせて、原チャリを目一杯、加速させていた。振り返る余裕も、ありはしなかった。
 ――悲鳴は聞こえなかったよな。と、すると、あのまま倒れたか? 死んだかな。
 だんだん息切れがしてきた。もともと、自分の足で走るのは好きではない。幼稚園の頃から足は遅かった。運動会でも、いつもビリから数えた方が早かったくらいだ。さっきから見えていた街灯の列は、川にかかる橋の欄干に設置されたものだということが分かってきた。ずっと左手に伸びていたコンクリートの壁は、その川の土手代わりのものだったのだ。
 街灯の光が届くところまで近づき、かといって通り過ぎる車などからは目につかないような場所を探して、翔人は息を弾ませながら立ち止まった。周囲に気を配りつつ、もどかしい気分で手にしていたバッグの中を覗いてみる。定期入れ。化粧ポーチ。携帯電話。手帳。封筒。細々とした紙切れ。キャンディー。ハンカチ。そして財布。迷うことなく財布だけを抜き取って、他の物は川に向かって放り投げた。遠くで、ぴしゃん、というような、実に頼りない音が聞こえた。そうした上でようやく軍手を外し、それもボールのように丸めて川に投げ捨てた。何度か繰り返すうちに、こういう手順も、すっかり身についていた。
 ごく平凡な、チェック柄の二つ折り財布だった。札入れの部分に一万三千円と、小銭入れに千円前後というところだろうか。それらを抜き取り、ジャンパーのポケットにねじこんでから、カード類は残したまま、再び川に投げ捨てる。今度は、何の音も聞こえなかった。
 ――どいつもこいつも、大して持ってねえもんだな。
 腕時計は、既に一時過ぎを指していた。見知らぬ町は、もう大半が深い眠りについているらしく、犬の鳴き声ひとつ聞こえてこない。無論、さっきの現場付近では今ごろパトカーや救急車が駆けつけて、大変な騒動になっていることだろう。何しろ悪質なひったくりどころか、こうなったら通り魔だ。いや、それともまだ発見されていないのだろうか。だとすると、冗談ではなく本当に、あの女は死んでしまっているに違いない。と、いうことは、翔人は、通り魔殺人を犯したことになる。あの一瞬の間に。大したものだ。
 とにかく、いつまでもこんな場所に一人で立っていたら目立つに違いなかった。翔人はジャンパーのポケットに両手を突っ込んで、出来るだけ呑気そうに、ぶらぶらと橋を渡り始めた。すると、半ばまで来たところに隣県の標識が出ていることに気がついた。つまり、そこを過ぎれば隣の県に移れるということだ。
 ――ラッキー。
 こういう部分が、翔人はついていると思う。昔からそうだ。どさくさに紛れて、いつも何とか切り抜ける。
 橋の上には冷たい風が吹き抜けていた。首筋が、すうすうと寒い。翔人はわずかに首をすくめるようにしながら、注意深く県境を越えたところで、自分が逃げてきたと思われる方向を振り返った。そんなに遠くまで逃げてきたつもりはなかったが、やはりパトカーなどのサイレンは聞こえてこず、また、それらの明かりが夜空を染めている様子もうかがえなかった。
 ――やっぱ、駄目だな。早く見つけてやりゃあなあ。
 携帯電話は、翔人がさっき捨てたバッグに入っていたから、本人が通報することは不可能だ。まるで人通りのない田舎の夜道では、誰かに見つけてもらうこと自体が難しいのかも知れない。
 何歳くらいだったろう。後ろ姿しか見ていないから、はっきりとは分からない。だが、いっていて三十歳、せいぜい、二十代の後半といった程度だと思う。本当についていない女だ。「うっ」と洩らした、あの声が最期になったかも知れないなんて。大体、こんな地方都市にいて、真夜中に一人で歩いて帰ろうという、その考えが間違っている。都会とは違って、街灯だってほとんど立っていないような道を、若い女がよくも一人で歩けたものだ。だから、こんな目に遭わなければならない。せめてタクシーを使うなり、自転車に乗るなり、方法を考えれば良かったのに。
 黒々と流れる川と、影にしか見えない町並みを眺めながら、翔人は煙草を一本吸った。吐き出した煙が、冷たい風に流されていく。
 ――一万円ちょっとじゃあ、なあ。
 割に合わない話だ。せっかく新しい軍手も買ったし、苦労してバイクを盗んで、ある程度、時間をかけて相手を物色して、その上、もしかすると殺人まで犯したかも知れないというのに、その見返りが、たったこれだけとは。
 こんなことなら、先に財布の中身を確かめてからバイクを乗り捨てるべきだった。あと二人でも三人でも狙ったら、そこそこ稼げたかも知れない。いや、そこから足がついたら元も子もないのだから、ああいう物は早めに捨てるに限る。決断は間違ってはいないはずだ。要するに最初から、もう少し金のありそうな相手を狙う方が良いのだ。個人ではなく。
 ――コンビニか。やっぱり。
 走るのが嫌いな翔人にとって、コンビニ強盗は、何といっても逃げるときが厄介だ。既に一度やってみて懲りている。実入りはそう悪くなかったが、かといって、期待していたほどでもなかった。

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