香乱記〔二〕



 深夜、自室にもどった李斯(りし)は、すぐさま岸当(がんとう)と展成を呼んだ。
「ふたりは、早朝、皇太子の使者に随行して、上郡まで行ってもらう」
 そういった李斯は、ふたりを身近に招き寄せてから、
「皇太子の使者は、皇太子の客のひとりで、皇帝の側近ではない。皇帝はすでに崩御している。扶蘇さまと蒙恬(もうてん)が、その使者をみて、その璽書(じしょ)を読めば、怪しいとおもうにちがいない。なんじらは、扶蘇さまと蒙恬に、かってに皇太子になった公子胡亥(こがい)と趙高の陰謀をひそかにお報せして、使者を捕らえ、ただちに咸陽(かんよう)へむかわれるように説くのだ」
 と、ささやくようにいった。
 岸当と展成は全身が驚愕に染められた。始皇帝がすでに亡くなっていることをはじめて知った。
 岸当のおもてむきの役目は皇太子の使者の護衛であり、展成の役目は、兵権が蒙恬から王離に移ってからの軍を監察するのである。
「途中で使者を誅(ころ)し、璽書を奪い、真相を上郡にお報せしてはならぬのですか」
 と、岸当が問うた。
「使者が陰謀の証人となる。誅してしまうと、その璽書がかえって本物になってしまう。璽書を奪って棄てると、わたしがそうさせたことになり、扶蘇さまからも公子胡亥からも陰謀の首謀者として、わたしが指される」
「なるほど、わかりました」
「岸当は存じておろうが、扶蘇さまには蘭という御子がおられる。使者は蘭さまについては知らぬので、蘭さまに連絡する手がある」
「ああ、そうでした。蘭さまには田横という切れ者が付いています。その者をつかって、陰謀をくじいてみせます」
「頼んだぞ」
 李斯はようやく人心地がついた。
 早朝、皇太子の使者は数人の従者とともに、沙丘の平台宮を出発した。
 使者を見送った三人はまた密談をおこなった。
 始皇帝は九月には咸陽にもどる予定になっている。沙丘からまっすぐに咸陽にもどるのであれば、何も問題はないのであるが、
「直道を通って還りたい」
 と、始皇帝がいったことを多くの従者が知っている。道順を変えると、従者のなかから疑問の声があがる。
「いまから九原(きゅうげん)へゆくのか」
 と、胡亥はおどろいたように趙高に問うた。直道は九原から雲陽へまっすぐに南下する道である。だが沙丘から九原へは直道はなく、太行山脈と呂梁山脈を越えるという、たやすくない道があるだけである。
「ゆかねばなりますまい」
「ご遺体が腐るぞ」
 と、李斯は眉をひそめながらいった。
「わかっております」
「死者が食事をとるわけにはいくまい。奏事のご裁可をどうするのか」
「わかっております。どうか、わたしにおまかせください」
 趙高は知恵を働かせた。
 夜中に、車(おんりょうしゃ)に棺を運びこませ、始皇帝に特別に愛された宦官に、
「なんじが皇帝にかわって食事をとり、奏事の裁可をおこなえ」
 と、いいふくめて乗車させた。車は開閉式の窓をもった車で、暑ければ窓をあければよいのだが、用心のために窓を閉じたままにしておかねばならない。
「皇帝がご回復になったので、出発する」
 と、告げられた従者は、沙丘をあとにした。通過する県では、県民が歓迎の意を表して、食事を皇帝にさしあげるときがある。その食事に皇帝が口をつけたようにみせねばならない。またこの巡幸は朝廷が移動しているようなもので、百官が諸事を奏上する。車中の宦官は大汗をかきながら、つぎつぎに裁可をおこなった。
 八月は仲秋であるのに、気温がさがらない。
 車は井(せいけい)を経て九原に達した。死骸が腐敗しはじめ、車は臭気を放つようになった。車中の宦官は気絶しそうになった。
「すべての車に鮑魚(ほうぎょ)を載せよという皇帝のご命令である」
 と、趙高は従官を走らせて、魚の干物を大量に入手させて、くばらせた。
 これほど臭い行列はなかったであろう。
 随従の者はなぜ魚の干物を大量に馬車に載せなければならぬのか、わからぬままに、九原をあとにして南下をはじめた。
 ――趙高め、浮かれているのもいまのうちだ。
 まもなく蒙恬の軍があらわれ、胡亥と趙高が捕らえられ、真相があきらかにされるであろう、と李斯は熱風がながれる直道の果てをながめ、そこに軍の旗と兵馬が浮上する時を待った。が、上郡に近づいても、直道には何の影もあらわれなかった。
 ――岸当と展成は、どうしたのか。
 李斯に焦りの色が浮かんだ。
 馬車のむきがかわった。上郡へゆくのである。
 このときすでに扶蘇は自殺し、蒙恬は囚人になっていた。
 使者となった皇太子胡亥の客は、出発まえに趙高から知恵をさずけられていた。
「李丞相の息のかかったふたりには用心したほうがよい。こうなされよ」
 と、いわれた使者は、上郡に到着すると、まっすぐに扶蘇のもとへはゆかず、郡守のいる府へ直行した。
「皇帝のご命令をおとどけにきたが、不穏な動きがあると、あなたの罪になるので、人数をだしてもらいたい。ほかには――」
 使者にそういわれた郡守はすぐに郡尉を呼び、扶蘇邸と蒙恬邸を兵で包囲させた。ほかに、吏人(りじん)をつかって岸当と展成を官舎に幽閉した。ふたりは宿舎に案内されたのだとおもっていたが、またたくまに数人の役人に見張られて、外へでることができなくなった。
 ――しまった。
 岸当は壁をたたいた。展成は微苦笑して、
「策謀はむこうのほうが上だ。じたばたしてもはじまらぬ」
 と、いい、部屋のなかで横になった。
 ほくそ笑んだ使者は、尊大な態度で扶蘇邸に乗りこみ、
「皇帝のご詔命である。つつしんでお受けせよ」
 と、扶蘇と蒙恬にいい、璽書をあたえた。
 書をひらいた扶蘇は涙をながしはじめた。璽書の内容を知った蒙恬は顔色を変えた。
「賜死(しし)」
 と、あるではないか。なぜ自分が死なねばならないのか。
 使者は無表情に、
「皇帝の剣である。受けよ」
 と、扶蘇に宝剣をさずけて、自害をうながした。

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