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兵隊たちの陸軍史
伊藤桂一

我々は、あの戦争を闘った生身の兵隊たちのことを知らない。そして、空虚な戦争論が展開されている──。兵士たちはいかに生活し、いかに戦闘したのか。教練、食事、給与、上下の人間関係、戦闘での名誉心や功績の在りかたまで、日中戦争に一兵士として従軍した著者の実体験と豊富な資料で、露悪も虚飾も避けて、兵隊たちの姿を余すことなく伝える。後世に贈る渾身のノンフィクション。

ISBN:978-4-10-148612-3 発売日:2008/08/01


| 660円(定価) |
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兵隊たちの陸軍史
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昭和二十年八月十五日の印象
──序に代えて──
帝国陸軍は、昭和二十年八月十五日に、徴兵令公布以来、七十三年目の歴史を閉じたが、この日、私は一個の兵隊として、中華民国上海郊外の草原の一角にいた。
そのとき中国本土だけでも、約七十万の兵員が戦務に就いていたはずである。私もまたその中の微小な一単位だったが、それでも軍務実役六年六カ月に及ぶ、古参の兵長であった。
その日私は、兵隊としても、人間としても、終生忘れがたい、敗戦当日の光景をみることになった。もちろんそこは実戦場ではなく、私たちはアメリカ軍の杭州湾上陸に備えて陣地構築中だったのだから、戦闘場裡にあった部隊所属の兵隊ほど、劇的な感銘を覚えたわけではない。むしろ平穏な戦場の日常の一端で、敗戦──という歴史的現実をうけとめたわけである。
上海-南京-杭州を結ぶ江南三角地帯は、アメリカ軍の上陸必至とみて、中国各地の余剰部隊(むろん余剰の兵員のいるわけはなかったが、ともかく)を続々とその地区に集結させ、連日陣地構築に専念していた──といっても、地面に戦車壕や蛸壺を掘っていただけで、本格的な爆撃を食えば、みるまに崩されてしまうはかない施設でしかなかったことは、だれよりも兵隊自身がよく知っていた。しかしかれらは、懸命に、炎熱を冒して、その作業に挺身していたのである。
私は連隊本部の糧秣班にいて、主として副菜等(雑穀や魚菜類)の調達に当っていた。このころは日本軍の使用する中国儲備(ちょび)銀行券は、日本の敗戦を見越して、すさまじいインフレ状態を呈し、たとえばタマネギを仕入れるにも、午前と午後とでは価格が違っていた。因みに、八月十五日直前の相場で、タマネギ一キロ五万元であった。日本流にいえば、五万円出しても一キロのタマネギしか入手できなかったのである。しかもそのタマネギさえ一日中自転車で駈け廻り、直接農園主と交渉し懇願し、即金で買い込まねばならなかったのである。一個連隊の兵員は五千数百に膨張していた。次々に新規の部隊が配属されてくるからである(通常一連隊の兵数は約三千五百である)。
部隊は、草原のあちこちに、バラックの兵舎を建てたり、民家を接収したりして分宿していた。八月十五日の真昼、私が、兵舎を出て草むらの間の道にさしかかると、部隊本部へ命令受領に行った軍曹が、深刻な表情でやってくるのに会った。軍曹は私とすれ違うとき、
「おい戦争に敗けたぞ。いま、天皇の詔勅が下った。もう戦争は終りだ。敗けて終ったんだ」
といい残して、急ぎ足で去った。
真夏の草原──は、いちめんキリギリスが鳴きしきっていた。果てもない草原を埋めるキリギリスの声──の中で、私は自身の耳を疑った。はっきりいって敗けるとは思っていなかったのである。
中国に限っていえば、七十万の兵員は、それぞれ七十万の感慨を、その日に身に受けたはずである。私も微小な一単位ながら敗戦の印象を強烈に身に受けたが、正直にいって、敗けた──ときいたとき、電撃的に身に覚えた感慨は、決して悲壮なものでも立派なものでもなく、きわめて私事的で滑稽な「ザマみろ」といった想いだったのである。そうしてそれにつづく「これで軍隊はなくなったのだ」という、天にものぼる心地の、解放感であった。南北戦争が終り奴隷が解放されたときに、奴隷たちがおそらく感じたに違いないような、思わずも発する歓呼が、私のうちにもあった、といわなければならない。
私が、自分を、七十万の中の微小な単位、といったのは、私を除いた六十九万九千九百九十九の兵員は、もっと別な感銘をこの日に受けたかしれない、と思うからである。しかし私は私で、自分の経験を率直に語るよりほかはない。日本の敗戦を嘆き、草原の一角で、滂沱と涙を流し、ために天日は曇った──と記せばよいのかもしれないが、敗戦の悲愁感が私の身に棲みつくのは、ずっとあとのことであって、敗戦当日は、身も軽く草の中の道を歩きたいほど、爽快な解放感に酔っていたのである。
私のこのときの感情は、いかに綿々とそれを記しても短い紙数では書き切れず、かつ語弊を招くことも多いだろう。それにこの本は私の述懐を記すためのものではない。ただ私は、私もまた、帝国陸軍最後の兵隊の一人であった、というその証明書のつもりで、この記念すべき日の記憶を、少々、この一冊の前書きとして認めておきたいと思ったからである。
兵隊の世界は、複雑で混沌としていて、一部の左翼公式主義者のみるような、単純なものではない。むろん兵隊が被害者であることに間違いはないが、といって被害意識だけで存在しているのでもない。六年六カ月たっぷりと兵隊をやって、上海郊外の一角で敗戦の刻を迎えた私にも、実をいえば「兵隊とはなにか」ということはよくわかっていなかった。ただ、自身が兵隊であった、という認識と、そしてその日の、自身だけの感懐があったにすぎない。それを簡略に記して、一個の(多分に弱兵かもしれない)兵長の真実を伝えたいと思うのである。
軍隊からの解放感に歓喜しつつ酔った──という私の事情は、直接的なものと間接的なものと両方ある。その一つは軍隊という、不合理な組織全体への反感である。もっともこれは、軍隊からいえば逆に私は歓迎されざる兵隊であり、従って甚だ進級が遅れていた。軍隊に嫌われたのは初年兵時代における私の抵抗のせいであり、その祟りが、終戦時まで尾を引いたのである。同年兵はたいがい伍長か軍曹になっていた。どっちにしろ大差はないようだが、下級兵士の階級の問題には微妙なニュアンスがあって、各自の置かれた立場で軍隊観が違ってくるのである。私の場合は、六年六カ月にわたる下積みの意識があり、それを不当な待遇とする怒りがあり、敗戦によって軍隊の瓦解したことは、軍隊に怨みを果たしたような想いもあったのである。といって私は自ら省みて、軍隊に非協力的であったわけではなく、戦務についてからは実に献身的に自身の使命感には忠実だった。なぜなら戦場においては、古参の兵隊によって、兵員の連帯感の、きわめて重要な部分が支えられていたからである。かりに十名の一個分隊中に私自身が存在していたとすれば、兵員の大半は私より若く年期の浅い兵隊である。としたら、日常生活から戦闘行動にいたるまで、私はつねに責任ある生き方をせねばならぬことが要請されたのである。それのみが、自分より目下の兵隊の損傷を少なくする、唯一つの方法だったからである。従って私もまた、軍隊への見解はともかく、兵隊の単位としては、多くの古参兵がそうであったように、自身の可能性を尽くして、事に当って来たわけであった。

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