新潮文庫


ドストエフスキーの人間力
齋藤孝

ドストエフスキー作品の登場人物はなぜ、こんなにも魅力的なのか! 『罪と罰』のラスコーリニコフなど作品の登場人物の細部に踏み込んで「過剰な」面白さを発見。その「個性=癖」が「技」と化して生きるエネルギーになっていることを見抜き、彼らが放つ独自の「人間力」を躍動する文章で解き明かす。若き日よりその作品群を愛読、耽溺してきた著者ならではの洞察に満ちた人間論。『過剰な人』を改題。

ISBN:978-4-10-148923-0 発売日:2008/06/01

立ち読み

460円(定価)


ドストエフスキーの人間力


 まえがき

 ドストエフスキーの人間力――過剰のすすめ

 現代日本を二つのエネルギー問題が襲っている。一つは、言わずと知れた電力問題。もう一つは、人間のパワーの問題だ。全身からみなぎるエネルギーが年々減ってきている。そう感じるのは私だけではないだろう。
 私は勢い余った人が好きだ。つい一言余計なことを言い過ぎてしまう人。「ほどほど」という加減がわからずに、仕事をしすぎてしまう人。芥川龍之介の『地獄変』には、地獄の絵を描くために実際に車の中で娘が燃えているのを見たくなってしまう絵師が出てくる。これなどは典型的に「過剰な人」だ。誰もそこまでやれとは言っていないのに、デーモンにとりつかれたように突っ走ってしまう。自分でも止めようのない勢いに身を任せてしまった人は、周囲に悲劇や喜劇を巻き起こす。周囲にとっては甚だ迷惑な存在になることが多い。
 しかしそうした「過剰な人」は、人生を生きるためのスパイスでもある。辛い物は癖になる。もっと強烈でコクのある辛みがほしくなる。人間も似たところがある。癖の強い人のよさがわかりだすと、もっと見たくなってしまう。チーズでも、好きになってくると、ブルーチーズのような臭みのあるものがおいしく感じられてくる。臭みさえも味わうことができる、これが文化というものだ。
 現代日本のエネルギー問題とは、実はまさにこの「味わう文化」の問題だ。人間のエネルギーは、一人で勝手に出てくるものではない。うまく受け止めてくれる相手がいることで次々に噴出してくる、そういう性質のものだ。「出る杭は打たれる」とか「過ぎたるはなほ及ばざるがごとし」といった思想が日本的であるとは限らない。ホンダやソニーをはじめ、「プロジェクトX」的な人たちは皆、過剰な人たちだ。昭和の二十年代、三十年代には、街にも癖のある人があふれていた。それは、そうしたエネルギーのある人を受け止める土壌があったからだ。「何事もほどほどがいい」というのはたしかにその通りだが、それではおもしろくはない。人間の奥底から噴出してくるエネルギーをお互いに全身に浴びながら生きる生き方にも憧れる。
『平家物語』などは、実に過剰な人たちの物語だ。冒頭こそ「祇園精舎の鐘の声、諸行無常のひびきあり」とおとなしく始まるが、中に入ってみれば、実にやりすぎてしまう人たちが満載だ。現実の生活であまりにも過剰な人たちばかりが周りにいては、たしかに疲れてしまうだろう。せめて物語の世界では、癖の強い人々に慣れておきたい。
 熱帯雨林に咲く花は色鮮やかで、種類も多彩だ。美しい花もあれば、おどろおどろしい食虫花もある。昆虫の種類も、信じがたいほど多い。そのあまりの多彩さに、ある種の「自由」を感じる。しかし、森林の伐採で熱帯雨林が急速に減少しているように、日本でも、癖の強い人間が多種多様に生きる環境が失われ始めている。
 多種多様な人間を生育させる熱帯雨林的環境とは、「人間理解力」である。人間に対する深い理解が、他の人の行動を大胆にさせる。少々の行動の行き過ぎがあったとしても、その意味を理解してくれる人が周りにいるならば、安心して境界線をまたぎ越してしまうこともできる。プラスの業績を100積み上げても、一つのちょっとしたミスでゼロに戻される。そんなせこい評価基準では、皆がほどほどに行動する習性が付いてしまうのも無理はない。
 現代日本に何より今必要なのは、人間理解力だ。人間としてのおもしろさをお互いに味わいあい、引き出し合う関係が、個性的な人間を生みだしていく原動力になる。そのためにも、まずは「過剰な人」の味わい方の練習から始めたい。自分の趣味には合わない過剰なタイプを味わうことができるようになることから、人間理解の幅は広がっていく。
 というわけで、「過剰な人」の博覧会として今回ご用意したのが、ドストエフスキー人間劇場だ。ドストエフスキーは、私が最も愛している作家だ。偏愛していると言っていい。高校時代に出会って以来、やみつきになった。今では、『罪と罰』のクライマックスを、自分の小学生対象の塾でテキストとして用いるまでになった。ラスコーリニコフが殺人の告白をソーニャにする場面を朗読していると、気分が最高潮になってくる。子どもたちも、私の気迫に感応するのか、静まりかえって作品世界に没入していく。ちゃんと理解もしてくれる。ラスコーリニコフの「だめんず」ぶりに時折笑いも起こる。ドストエフスキーほどの作家になると、人物理解の深さが子どもたちにも伝わるのである。ロシアは過剰な人の本場だ。しかも、ドストエフスキーの描く人物たちはとりわけエネルギーをもてあましている。ほどほどというものを知らない人たちばかりだ。
 ドストエフスキーの作品世界は、まさに過剰な人の博覧会だ。私は大学のゼミで毎年ドストエフスキーを学生たちと読んでいる。すると、ゼミの中にも「ドストエフスキー的人物」とでも呼びたい人間が浮かび上がってくる。つまりは、癖のある、過剰な人ということだ。そんな「ドストな人」は、存在感を放っている。場の空気の密度が濃くなり、祭りでもないのに、祝祭空間が生まれてくる。
 エネルギーの壺がからだの中にあるとすれば、それが開く瞬間は、人生の醍醐味だ。壺のふたが開くような濃密で過剰な空気を生みだすための呪文を、私はいくつか持っている。

「癖の強い人を愛したい」
「出会いの時を祝祭に」


 では、呪文を胸に、「過剰な人」の森へ分け入っていただきたい。

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