ハンニバル・ライジング〔上〕



 ハンニバル“峻厳”公(一三六五―一四二八)は、五年の歳月をかけてレクター城を構築した。その際使役したのは、一四一〇年、ポーランド・リトアニア連合軍がドイツのチュートン騎士団に勝利したジャルギリスの戦いでとらえた捕虜の群れだった。完成した城塔に戦旗がひるがえった最初の日、公は城内の菜園に捕虜たちを集めると、絞首台に立って彼らに語りかけた。約束にたがわず、彼は捕虜たちの帰郷を許した。が、捕虜の多くは公の保証する上等な食糧に魅かれて彼の膝下に留まる道を選んだ。
 それからおよそ五百年余のある日、公から数えて八代目、当年八歳のハンニバル・レクターは、妹のミーシャと菜園に立って、濠の黒い水面に浮かぶ黒鳥たちにパン屑を投げ与えていた。ミーシャはハンニバルの手につかまって身を支えていたため、何度か見当ちがいのところに餌を投げてしまった。大きな鯉が睡蓮の葉を揺るがし、トンボが舞い上がった。
 水面からボスの黒鳥が陸に上がってきた。短い脚でぺたぺた歩き、しゅっと低く啼いて威嚇しながら兄妹に近づいてくる。その黒鳥は生まれたときからハンニバルと顔馴染みだったにもかかわらず、まだ彼に挑もうとする。大きく広げた黒い翼が空の一部を隠した。
「こわい、アンニバ!」ミーシャはハンニバルの脚の後ろに隠れた。
 ハンニバルは父から教えられたとおり、両腕を肩の高さに持ち上げた。両手に柳の小枝を持っている分、広げた“翼”の長さが増す。黒鳥は立ち止まり、ハンニバルの“翼”のほうが大きいのを確かめると、また餌をついばみに水際に引き返した。
「ぼくとおまえ、毎日のようにこれをくり返しているよな」ハンニバルは黒鳥に語りかけた。けれども、その日はいつもの日とはちがう。黒鳥たちはどこに逃げ込めるのかな、とハンニバルは思った。
 ミーシャが興奮して、しめった土にパンを落とした。それを拾ってやろうとハンニバルがかがみこむと、ミーシャははしゃぎながら、小さな星のような手で兄の鼻に泥をこすりつけてくる。ハンニバルもミーシャの鼻の頭に泥をちょっぴりなすりつけ、二人は濠の水面に映った自分たちの顔を見て笑い合った。
 そのとき、大きな地響きが三度轟き、水面が震えて、映っている二人の顔が歪んだ。遠くから爆発音が野面を揺るがして伝わってくる。ハンニバルは妹を抱え上げると、城に向かって駆けだした。
 中庭には狩猟用の荷車が一台、大きな輓馬のシーザーにつながれていた。馬丁用の前掛けをつけたベルントと下男のロターが、三つの小型トランクを荷台に積み込んでいた。コックがランチを運んできた。
「ハンニバルさま、奥方さまがお部屋でお待ちです」コックは伝えた。
 ハンニバルはミーシャを乳母の手に委ねて、すり減った石の階段を駆け上がった。
 母の部屋が、ハンニバルはことのほか好きだった。そこにはさまざまな香りが漂い、家具には男女の顔が彫りこまれていて、天井は美しく彩色されている――レクター伯夫人はミラノのスフォルツァ家とヴィスコンティ家の血を継いでおり、その部屋も彼女は丸ごとミラノから移植したのだった。
 いま、彼女は胸騒ぎがしていて、明るい栗色の瞳には赤い火花のように明かりが反映していた。ハンニバルに手箱を持たせると、夫人は家具の刳形に彫られた天使の唇を押した。すると、秘密の収納部が口をあけた。彼女は宝石類をすくいあげて手箱に移した。書簡の束もいくつか移したが、すべてを移し切るのは不可能だった。
 お母さんは、いま箱の中に落ちたカメオ細工のお祖母さんの顔に似ているな、とハンニバルは思った。

 天井に描かれた雲。赤子の頃、母の乳房を吸うさなかに、ハンニバルはよく目をひらいたものだった。すると母の乳房が雲と渾然と融け合って、ブラウスのへりが彼の顔に触れていた。乳母から授乳されたときもそうだった。彼女の金の十字架がたわわな雲のあいだで陽光のように輝いており、きつく抱きしめられるとそれが頬にくい込んだ。奥方に見つからないように、乳母はハンニバルの頬に残った十字架の痕をしきりに撫でさするのが常だった。

 しかし、いまは帳簿類を抱えた父、レクター伯が戸口に立っていた。
「急がないと、シモネッタ」
 ミーシャの銅製のバスタブに、幼児の下着類が詰め込まれていた。レクター伯夫人はその中に手箱をしまった。部屋を見まわして、サイドボードの画架からヴェネツィアの絵の小品をとりあげ、ちょっと眺めてからハンニバルに手渡す。
「これをコックに渡してちょうだい。額縁を持つのよ」にこやかに笑いかけて、「裏の部分を汚さないでね」
 ロターが中庭の荷車のところにバスタブを運んでいった。そのかたわらでは、騒然たる周囲の雰囲気に呑まれて、ミーシャが不安そうにむずかっている。
 ハンニバルは妹を抱き上げて、シーザーの鼻を撫でさせた。ミーシャは何度かシーザーの鼻をつまんで、いななくかどうか確かめていた。ハンニバルは穀物の粒をつかむと、それで中庭の地面に“M”という文字を描いた。たちまち鳩の群れが降りてきてついばみはじめ、地面に“M”の生きた鳩文字を描く。ハンニバルはミーシャの手をとって、その掌にも“M”の字を描いた。ミーシャは三歳になろうとしているのだが、いっこうに読み方を習おうとしない。まだ無理なんだろうな、とハンニバルは思っていた。「ほら、ミーシャ(Mischa)の“M”だぞ!」と、彼は言った。ミーシャは笑いながら鳩の群れのあいだを駆けまわる。鳩の群れは彼女の周囲から舞い上がり、塔の周囲を旋回してから鐘楼に舞い降りた。
 コックがまたランチを持って出てきた。彼は大柄な男で、調理用の白い服を着ていた。馬のシーザーが目を丸くして彼を見ていたと思うと、耳を振りながらそのあとを目で追いかけた。まだ子馬だった頃、シーザーはコックに何度も菜園から追い出され、悪態をつかれたり、箒で尻を叩かれたりしたことがあったのである。
「わたしもここに残って、調理場の備品の積み込みを手伝おう」ヤコフ先生がコックに申し出た。
「いえ、ハンニバルさまと一緒にいってください」コックは断った。
 レクター伯がミーシャを抱き上げて荷車にのせる。その腰にハンニバルは手をまわした。レクター伯がハンニバルの顔を手で包んだ。父の手が熱く疼いているのを感じて、ハンニバルは彼の顔をしげしげと見つめた。
「鉄道の駅が三機の飛行機に爆撃されたそうだ。ティムカ大佐は、彼らがここまで到達するにしても、まだ一週間の猶予はあるだろうと言っている。それに、戦闘がはじまったとしても、幹線道路沿いに展開されるだろうしね。だから、狩猟ロッジにこもっていれば心配いらんよ」
 一九四一年六月二十三日、東ヨーロッパを席巻したヒトラーが電撃的にソ連に侵攻したバルバロッサ作戦の開始後、二日目のことだった。

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