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サーカスの息子〔上〕
ジョン・アーヴィング、岸本佐知子/訳

カナダ在住の医師ファルークは、サーカスの小人の遺伝子を研究するために、時々故郷のボンベイに戻る。そんな彼には、息子同然の俳優ジョン・Dが主演する人気インド映画、「ダー警部」シリーズの覆面脚本家という顔もあった。昨今続発する映画を真似た娼婦殺人事件と、20年前遭遇した殺人との類似に気づいた彼は――。インドを舞台に奇想天外な物語が絡み合う、巨匠異色の大長編。

ISBN:978-4-10-227313-5 発売日:2008/12/01


| 900円(定価) |
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サーカスの息子〔上〕
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1 扇風機の羽根の上のカラス
小人の血
いつも小人に引き戻されてきたのだった――サーカスへ、そしてインドへ。医師は“これが最後だ”と思いながらボンベイを後にするあの気分を、これまで何度も味わっていた。インドを後にするたびに彼は、もう二度と戻ってくるまいと心に誓った。しかし何年か経つと――四年か五年、それ以上ということはなかった――ふたたびトロントから空路はるばる舞い戻ってきた。彼はボンベイ生まれだったが、それが理由ではない。すくなくとも自分では、そう言い張った。父と母はすでにこの世にいなかった。姉はロンドン、兄はチューリヒ。妻はオーストリア人で、子供や孫たちは、みなイギリスかカナダに住んでいた。インドに住みたいという家族は一人もいなかったし、インドに行くことさえめったになかった――もともと、家族の中にインドで生まれた者は一人もいなかった。それなのに、まるでそれが運命であるかのように、彼はインドに舞い戻った。これからも、繰り返し戻っていくにちがいなかった――永遠にではないにせよ、すくなくともサーカスに小人がいるかぎりは。
インドのサーカスで道化をやっている小人は、大半が軟骨発育不全による小人症である。サーカス・ミジェットと呼びならわされているが、彼らは正確には矮人(ミジェット)ではなく小人(ドワーフ)である。四肢の未発達な小人にもっとも多いのが、この軟骨発育不全性のタイプだ。軟骨発育不全の小人は正常な親からも生まれるが、そのまた子供は五十パーセントの確率で小人になる。このタイプの小人症の原因は、ほとんどが非常に低い確率で遺伝子に起こる自然発生的な突然変異なのだが、それが子の代では優性形質となる。この要因となる遺伝マーカーは、まだ誰にも発見されていない――そもそも、優秀な遺伝学者はそんなものを研究したりはしない。
このタイプの小人症の遺伝マーカーを見つけようという馬鹿げた夢に取りつかれたのは、おそらくこの世で、ファルーク・ダルワラ博士ただ一人だった。万に一つ、という夢に突き動かされ、彼はせっせと小人の血液を採取した。突飛な思いつきなのは、誰の目にも明らかだった。小人の血液を集める仕事は、彼の本来の専門である整形外科とは何の関係もなく、つまり遺伝子の研究は彼の趣味にすぎなかった。しかし何年かに一度、それもほんの短期間ボンベイに滞在するあいだに、ダルワラ博士はインドで誰よりもたくさんの血液を、小人たちから絞りとった。ボンベイにやってくるサーカスや、グジャラート州やマハーラーシュトラ州の小さな町々を回るサーカスで、彼は親しみをこめて“吸血鬼”と呼ばれていた。
そうでなくともインドで整形外科医をしていると、小人と接する機会は多かった。小人の多くは慢性の整形外科的故障を抱えている――膝痛や足首痛、そして腰痛など。こういった症状は、年齢と体重に比例して重くなる傾向がある。歳をとり体重が増えるにつれて、痛みは尻や太腿の裏側、脛にまでじわじわと広がっていく。
トロントの〈病気の子供のための病院〉で小人と出会うことはめったになかった。しかしボンベイの〈不具の子供のための病院〉では――たまの帰郷のおり、彼はそこの名誉顧問医をつとめていた――かなりの数の小人を診ることになった。ところが彼らは、親きょうだいの病歴については素直に話すくせに、自分の血となると、とたんに出し渋った。本人の承諾を得ずに血液を採るのは、医者としての道義に反する。軟骨発育不全の小人たちが整形外科に来るような病気で、血液検査が必要になることはめったにない。それでファルークは、まず自分の研究がいかに真面目な科学的な目的のものであるかを小人たちに説明し、しかるのちに、血液を少し分けてはいただけないだろうかと丁重にお願いした。小人たちの答えは、十中八九、ノーだった。

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