漁師志願!




  1


 ドアの閉まる微かな音がして、車窓から見えるホームがゆっくり左に移動し始めた。
 見送りに来なくていいと菜摘に言ったにもかかわらず、智志は腰を浮かせて窓に顔をつけ、その姿を探していた。新幹線の速度が上がるにつれ、ホームにいる人々の顔の判別がつかなくなる。やがて屋根が途切れ、いきなり差し込んできた日差しで景色は真っ白になった。
 智志はため息をつき、座席に座り直した。見渡すと、乗客の大半はスーツ姿だった。智志の横に座った中年男性もそうで、足元に黒いアタッシュケースを置き、せわしなく新聞をめくっていた。
 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した智志は、画面をちらりと見てすぐに閉じた。そしてペットボトルのお茶を一口飲んだ。新幹線はスピードを増し、智志の見慣れた東京をどんどん後ろに飛ばしていった。
 このまま菜摘と別れることになるんだろうか。
 考えたくないことが頭に浮かんでしまう。どうしても。

「智志に漁師なんか、できるはずないでしょ!」
 菜摘はめずらしくヒステリックな声を上げた。
「肉体労働なのよ。朝だって早いし。どっちも苦手じゃない。なんでそんなふうに、いい加減に生きていけるのよ。信じられない」
「いい加減じゃねえよ。そんなことわかってるさ。それに、漁師がみんな漁師になる前から力仕事してたわけじゃねえだろ」
「じゃあ船は? 智志、屋形船で船酔いしたじゃない。魚だって好きじゃないし。どう考えても智志に田舎暮らしができるわけないわ。それに、なんで瀬戸内海の漁師の募集広告が、東京の新聞に載ってるの? 怪しいと思わないの?」
 智志はうんざりして菜摘から目を逸らし、煙草に火をつけた。
 じゃあ、お前が仕事見つけてくれんのかよ。そういうかわりに煙を長く吐き出し、床から立ち上がってベッドに腰掛けた。表の通りから、豆腐売りの間の抜けたラッパの音が聞こえてきた。
「俺、行くからな」
 菜摘は唇をかみ、じっとテーブルに視線を落としている。
 そこには、智志が二週間前にスポーツ新聞で見つけた募集広告の切り抜きと、昨日届いたばかりの採用通知があった。

『漁師募集! 瀬戸内海での鯛の養殖業。経験不問。十八歳から二十五歳までの頑丈で真面目な男子。期間、三ヶ月から三年(応談)。テレビ、冷蔵庫付きの寮完備(無料)。作業着支給。月十五~二十五万円。ボーナス有り。全国どこからでも旅費支給(片道)』

「心配ないって。遠洋漁業の船に乗るわけじゃないんだしさ。だって、鯛の養殖だぜ。でっかい金魚を飼うみたいなもんだろ。それよか稼いで帰ってくるから。そしたら、商売とかできるかもしんねえし」
「そういうところがいい加減だって言ってるの。漁師になりたいわけじゃないのに。どうせ泣き言並べて帰ってくるわ。そしていつもみたいに、わたしを振り回すのよね」
 菜摘はそう言いながら立ち上がった。そして、革のトートバッグにカーディガンをくしゃくしゃのまま突っ込んだ。
「でも、わたし……、もういやだから。智志の便利な女は……」

 ふと気がつくと、新幹線は新横浜駅に停車したところだった。新横浜で車輛の座席はほぼうまった。満席にもかかわらず車内は静まりかえり、リズミカルな車輪の音が響いていた。
 すぐ前のドアが開き、検札の車掌が現れた。智志は財布から切符を取り出し、車掌に渡した。車掌が行ってしまうのが合図であったかのように、隣のサラリーマン風の中年男性はおもむろに新聞をたたみ、テーブルを出して幕の内弁当を広げた。
 智志はたちまち空腹を思い出し、東京駅で買ったカツ弁当をビニール袋から取り出した。アパートにあった家財道具を横須賀の実家と広島の二箇所に送り出し、東京での最後の一夜を捨てるつもりの毛布一枚ですごした智志は、早くに目が覚めてから何も食べていなかった。

 大森海岸にあった六畳一間のアパートには、大学を卒業して以来二年間住んでいた。就職はせず、アルバイトを転々とした智志にとって、住む場所で重要なのは、菜摘の家に近いことと競艇場が近いことだった。菜摘のマンションは品川だったので、どちらかといえば後者を優先させたことになる。
 印刷所、ビルの夜警、古紙回収、デパートの配送センター、屋形船の雑用、カラオケ店のウエイター、どれも長くは続かなかった。辞めた理由はそれぞれにあったが、実際はほとんど、智志のやる気がもたなかったのだ。少しお金が入ると競艇場通いのためにバイトを休んだ。たまに勝つことはあっても、たいていは負ける。ところが智志は、生活費を賭けてしまったことを反省するでもなく、お金が無くなれば菜摘を頼る。そして気がつくと、バイト先に戻るのが億劫になっている。
 これではいけない、と、何度も現実を見つめなおそうとしたが、自分を追い込むほどに自己嫌悪に陥り、たちまち思考を止めてしまうのだった。
「まっ、なんとかなってるし」
 それが智志の口癖だった。
 だから、漁師になると決めたとき、菜摘が反対するとは思ってもみなかった。
 会えなくなるのが辛いから行かないでほしい、と言われたらどうしようか、と内心思っていたし、そう言われて引きとめられるのを少しは期待してもいた。智志の決断とは、所詮その程度のものだったのだ。しかし、智志に漁師なんか務まるはずはない、すぐに音をあげて帰ってくるのは目に見えている、などと決めつけられては引っ込みがつかなかった。

(略)

  2


(略)

 大将は上座に胡坐をかいて腕を組んでいた。真二が寿司源に勤めるようになって四年経つ。が、ここで大将と二人きりになるのは面接のとき以来だった。


(略)

「大将、すみません……」
 真二がそろそろと顔を上げると、大将は目を閉じていた。少しほっとして先を続けた。
「店を辞めさせてもらいたいんです。いろいろ考えたんですけど……、できれば今月いっぱいで……」
 大将は大きくゆっくり息を吐いた。
「辞めてどうする」
「漁師に……、漁師になります」
 また沈黙。
 襖の外で人の気配がした。先輩の康介にちがいなかった。
「瀬戸内海で漁師を募集してるんです。経験がなくてもいいそうで……。だから、行こうと思うんです」
 ようやく大将が目を開けた。

(略)

「真二、お前は確実に仕事を覚えてる。でも、寿司を握るようになるにゃまだまだ百年早え。勉強するこたあ山ほどあるんだ。それに比べりゃ康介の理不尽なんか屁みてえなもんだ。おれはみんな知ってるつもりだ。康介なんかにかまってる暇はねえだろ。まして、逃げ出してどうする」
 真二は口に広がった涙の味を飲み込んで小さな深呼吸をした。
「大将、おれ、ずっと考えたんです。このままでいいんだろうかって。うまく言えないけど、前に進んでるんだろうかって。下働きが嫌だって言うんじゃないです。でもときどき、いまのままで満足しそうになるのが怖いんです。で、漁師募集の広告を見たとき、いっぺん漁師やって、魚のことを知るのは今のおれにはいいんじゃないかって思ったんです。親父が店に来てたのは知らなかったけど、親父の言葉は忘れてません。寿司職人を諦めたんじゃないんです。ただ、いま漁師をやるのは、もしかして無駄にはならないんじゃないかって……。それに、康介さんの事は何とも思ってません。ほんとうです。康介さんは、このこととは関係ないですから……。逃げるつもりじゃないです」
 涙を流したらすっきりして、自分でも驚くほど言葉が出てきた。うまく伝わったかどうかは自信がなかったけど、少なくとも練習よりはちゃんと言えたと思った。
 大将は腕組みしたまま、また目を閉じた。

(略)

「真二」
「はい」
「お前が決めることだ」
 真二は深々と頭を下げた。ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちと、寂しい気持ちと嬉しい気持ちがいっぺんにやってきた。そしてわずかな後悔を振り切り、決意を新たにした。
 大将は立ち上がり、大股で部屋を出ていった。

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