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ローマ亡き後の地中海世界 上
塩野七生

476年、西ローマ帝国が滅び、地中海は群雄割拠の時代に入る。「右手に剣、左手にコーラン」と、拉致、略奪を繰り返すサラセン人の海賊たち。その蛮行にキリスト教国は震え上がる。拉致された人々を救出するための修道会や騎士団も生まれ、熾烈な攻防が展開される。『ローマ人の物語』の続編というべき歴史巨編の傑作。

ISBN:978-4-10-309630-6 発売日:2008/12/24


| 3,150円(定価) |
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ローマ亡き後の地中海世界 上
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「中世」とは後代の学者たちがつけた名称で、一応は、西ローマ帝国が滅亡した紀元四七六年から、ジェノヴァ出身のイタリア人であるコロンブスがアメリカ大陸を発見した、一四九二年までの時代としている。
だが、古代からルネサンス時代までの「中間期」とは言っても、実際は一千年にわたる長い歳月なので、通常はこの一千年間を、紀元一〇〇〇年が境という感じで、「中世前期」と「中世後期」に二分する。この説に従えば、「中世前期」の地中海世界で主導権をにぎっていたのは、キリスト教徒ではなくてイスラム教徒であった。
文化文明の面で、どちらが優れどちらが劣っていたかの議論はしたくない。だが、自らの持つ力を最大限に活用することによる向上への意欲ということならば、「中世前期」は、絶対にイスラム側が優れていたのである。ただしそれが、海賊業に向けられてしまったのが、的にされたキリスト教世界の住人にとっては不幸であったのだが。
この状態で、地中海世界は八世紀後半に入った。あい変わらず、快速の小型ガレー船を操っての小規模海賊船団による、シチリアと南イタリアの沿岸一帯への来襲が夏の恒例行事でありつづけたが、この時期ともなると、サルデーニャやコルシカを足場にするのが通常になり、これによって中部イタリアまでが、海賊とは無縁でいられなくなったのである。
「カンパーニア」地方の中心はナポリであり、「ラツィオ」地方の中心はローマである。イスラム勢力は、中伊にまで深く潜入し始めたばかりでなく、キリスト教世界にとって本山である、「神の代理人」のローマ法王のおひざ元にまで、手を伸ばしてきたということであった。この時期、海賊たちの根拠地は、チュニジアから東にはリビアへ、西にはアルジェリアへと、地中海沿岸の良港という良港すべてに及んでくる。
ビザンチン帝国は、このイスラム勢の攻勢に対して、いっこうに本格的な迎撃戦を挑もうとしなかった。時折、申しわけのように軍船団を送ってきたが、そのどれもがサラセンの海賊に痛手を与えることさえもできないで退散している。絶望したシチリアの総督は、チュニスの「アミール」をカネで買収して平和を買おうとしたが、チュニスにかぎらずどこの「アミール」も、カネだけはもらっても実行には動かなかった。たとえダマスカスから赴任してきている「地方長官(アミール)」に約束を守る意志があったとしても、実際に海賊行に出る者たちからの反対を押しきれなかったのだ。この頃はまだ「地方長官」はアラブ人でつづいていたらしいのだが、このイスラム教の本家の出に、征服されてイスラムに改宗したムーア人やベルベル人たちが、海賊業まで統制されるのを嫌ったからである。海賊業も、原イスラム教徒にとっては聖戦だったが、新イスラム教徒にとっては、聖戦という大義名分を旗印にした産業、つまりビジネス、になっていたからであった。
ときに二、三年、海賊船の姿を見ない期間があった。キリスト教徒たちにとってはほっと安堵する期間だったが、地中海の向う側では、しばしば勃発する、外来のアラブ人と現地人のムーア人やベルベル人の衝突が、そのときも起っていたのである。キリスト教徒たちは彼らを一緒にして「サラセン人」と呼んでいたが、そのサラセン人の内部は、完全にまとまっていたのではなかったのだった。
だがこの“休戦”も、長くはつづかなかった。海賊業は、聖戦と名づけられていても、内実はビジネスになっていたからだ。それで、しばらく休業した後の海賊の来襲は、休業していた間の収入減を取りもどそうと考えているのかと思うほどに、略奪も焼き打ちも拉致も徹底して行われた。
拉致してきた人を、その人物の占める社会的な地位や経済力によって、分類することも始まる。奴隷市場で売り出したり奴隷として死ぬまで酷使することの他に、拉致にも、身代金目当てという新分野が開拓されたからであった。
そして、身代金目当てという新分野の対象にされたのは、個人としての人間だけではなかった。都市全体も対象になる。もはや堅固な城壁で守られた海港都市を、わざわざ長期にわたる苦労までして攻めることもなかった。周辺一帯を荒らしまわることで都市が悲鳴をあげる頃を見計らって、引き揚げることを条件に代償金を要求するのである。小さな町ならばわからないでもないが、守りの固いことでは地中海世界でも有数と言われていたシラクサまでが、“身代金”を払って海賊に退散願ったというのだから世も末である。この時代に生きていた人々も、「世も末」と思ったにちがいない。キリスト教には、終末思想があった。
八世紀と言うと、紀元七〇〇年から八〇〇年までの百年間になる。地中海世界は東も南も西も、イスラム勢におおわれた世紀になった。わずかに残された北のキリスト教世界も、絶え間ない海賊の来襲にさらされ、漁船さえも遠出はできなくなる。それに海賊とは、海の上でのみ暴力行為を働く無法者、ではなかったからである。
海賊の立場に立てば、それも充分に理解可能だ。海上を行く商船を襲うならば、一度の襲撃で手にできる収獲は大きかったろう。だがそれは、動いている的を狙うようなものだ。地中海は広い。レーダーもない時代、航行中の商船をつかまえるのは容易ではなかった。一方、海岸に上陸し陸上から襲撃するならば、停止している的を狙い撃ちすることになる。北アフリカ産の馬は小型で、「フスタ」でも、十頭ぐらいならば乗せることができた。
こうしてサラセンの海賊たちは、海上では軽くて小型のガレー船によって、陸上では小ぶりでも粗食と酷使に耐える北アフリカ産の馬によって、海賊行には最も適した急襲戦法を駆使していくことになる。
では、この災害を防ぐ責任は誰にあり、その人々は何をしていたのか。
イタリア半島もシチリアもサルデーニャも公式にはビザンチン帝国下にある以上、安全保障の責任はビザンチン帝国皇帝にある。ユスティニアヌス大帝以後のイタリア半島は、ビザンチン領と北方から侵略して来て居坐ったロンゴバルド族の支配する地方がまだら模様のようになっていたが、北方蛮族のロンゴバルド族も改宗してカトリック教徒になっている。そして、信仰上のリーダーはローマ法王だが、俗界のリーダーは皇帝だった。それゆえあくまでも、ロンゴバルドの支配下にある地方であろうと、防衛の責任はビザンチンの皇帝にあったのである。
だが、新興の気概に燃えるイスラム勢力に次々と領土を奪われ、今では首都のコンスタンティノープルをはさんでギリシアと小アジアの西半分にまで追いこまれていたビザンチン帝国には、残された地方を守るのに精いっぱいで、イタリアにまで助けの手を伸ばす余力はない。それゆえ地中海の西半分は、制海権をにぎる者がいないという意味で、権力の空白地帯になっていたのである。ギリシアの西側を洗うアドリア海の安全航行さえ、いまだ成長過程にあって一人立ちしたとはとても言えなかった、ヴェネツィア共和国に託したほどであった。
と言ってロンゴバルド族にも、イタリア半島の安全保障を請負う力はなかった。ロンゴバルド人とは言っても統一したことはなく、ベネヴェント公とかサレルノ公とか名だけは立派だが、実際は複数の部族の頭目がそれぞれの支配地域に君臨していただけなのだ。彼らの間でも、兵を出しての争いはしばしば起った。
このロンゴバルド族に侵略されることもなくビザンチン帝国下に残っていたのが南イタリアとシチリアである。だがこの地域でのビザンチン統治も、シチリアの箇所で述べたように、安全は保障しないのに税金だけは取る、であった。これでは、サラセンの海賊の脅威にさらされつづける沿海の住民たちにとって、希望はどこにもない。彼らができた自衛のための手段は、広く海を見渡せる地を選んで塔を立て、海賊船の襲来を一刻でも早く見つけ、住民たちに逃げる時間を少しでも多く与えることだけであった。
これらの塔は、イタリア語では「トッレ・サラチェーノ」(サラセンの塔)と呼ばれる。今でもイタリア半島には数多く遺っているが、そのほとんどは、大砲が普及するようになる十六世紀以降に建てられたとはっきりわかる造りだが、それらも十六世紀になって初めて建てられたのではなく、以前からあった塔を補強したのである。
だが、中には、それ以前の中世のままで遺っているものもある。岸近くに建てたのが長い歳月を経るうちに海岸線が迫ってきたために海中に取り残され、そのまま放棄されたのだろう。ローマの南、アッピア街道に沿うフォルミアに遺る塔もその一つだが、キケロの別邸の上に建てられたと言われている。古代ローマの趣味人は海の近くに別邸をもつのを好んだので、今では崩れ果てたかつての豪邸も、中世の庶民たちに、見張り用の塔を建てるための石材の提供ぐらいには役立ったのだろう。石材も新しく切り出したものを海岸まで運ぶには、人手も費用もかかるのだった。
しかし、この「サラセンの塔(トッレ・サラチェーノ)」をいくら建てても、海賊の難は完全には避けることはできなかった。サラセンの海賊は、黒地に白く髑髏を染めた旗を帆柱高くかかげながら襲撃してくるわけではなく、また、イスラム教徒の船であることを示して、緑色の地に白く半月を染めた旗をかかげてくるわけでもなかった。彼らはしばしば、別のキリスト教国の旗をかかげたり、襲うと決めた地とは同盟関係にある国の旗をかかげて近づいてくるのだ。望遠鏡もない時代、接近してくる船の実体を一刻も早く判明しようと必死に眼をこらす、塔の上の見張りの心境には同情せざるをえない。しかし、中世前期、つまり紀元一〇〇〇年以前に生きた地中海の西方の庶民にとって、拉致されたあげくに一生をイスラム教徒の奴隷として生きたくなければ、頼れるのはこの程度の自衛策だけだったのである。
「暗黒の中世」と後世の歴史家たちは言う。その一方では、中世は暗黒ではなかった、と主張する学者たちもいる。だが、少なくともイタリア半島とシチリアに住む人々にとっては暗黒以外の何ものでもなかったのが、彼らが生きた「中世」なのであった。

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