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火と水と木の詩―私はなぜ建築家になったか―
吉村順三

数多くの優れた住宅を手がけ、日本の風土と文化に根ざした建築にこだわり続けた吉村順三。日本を代表する建築家が、子ども時代や修行時代のこと、建築家の役割、設計の具体的なテーマなど、自身と自らの建築哲学を語り尽した、1978年の貴重な記録。住宅の名作として知られる自邸「南台の家」の撮り下ろし写真も収録。

ISBN:978-4-10-313071-0 発売日:2008/11/25

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火と水と木の詩―私はなぜ建築家になったか―



1 私はなぜ建築家になったか




  陣地あそび

 今日は、どういうお話しをしようかと考えていたんですが、私が建築家になってやってきた今までのいろんな経験をお話しすれば面白いのではないかと思います。
 皆さんもそうだと思いますが、子供の頃いろんな机の下に潜ったり、唐紙を外してきて囲いを造って中に入ってみたり、何か自分のスペースを造る楽しさがあったんじゃないかと思います。僕の家は、だだっ広い商人の家で、ちっともコーズィーなコーナーが無いので、自分でいろいろ工夫してそういう自分の陣地を作っていたことを思い出すのですが、そのまま、今でもやっぱり同じなのです。自分の好きなコーズィーなスペースを造ろうというのが、それが、僕の建築デザインの基本です。
 今でも同じテーマです。

  家に対する関心の芽生え

 中学に入るまでは、それほど明確なものはないのですが、もう一つ小学生の頃に、紙で家を作るのが好きで、自分で造った箱庭に、家があったほうがいいと思って、小さな家を造ったのが始まりで、だんだんそれに熱中しまして、箱庭の家は、日本の農家から始まって、西洋館らしきもの、ドンキホーテの風車みたいなものを造ったりしました。
 そして中学に入りまして、ある日のこと、本屋で、住宅という建築雑誌を見たんです。見ている時に、昔自分が陣地を造って遊んでいた時の感じから、だんだんプランが面白くなって、そのプラン作りの虜になっていました。たまたま、中学の絵の時間に、住宅のプランを書いて持って行くと、昔は、お手本のとおりに書くような時代ですから、先生に怒られたことがあります。

  帝国ホテルとの出会い

 中学三年の頃、帝国ホテルが出来たので、ある日、おばあさんに食事に連れていかれたことがありますが、それが、本当に建築というものに感動した最初でした。
 それはやはり空間の威力ですね!!
 そしてその時はまだホテルが完成したばかりでして、照明全体が、間接照明でした。が後にあまり電気代がかかり過ぎるので、だいぶ直されました。
 それから、ところどころに噴水が出ていて色彩がすごくきれいだったんです。まだジュータンも新しくて、建築ってすばらしいなあと思いまして、それがきっと建築家になった第一原因だと思います。
 以前から自分で何か囲いみたいなものを造って遊んでいたという感じが、飛躍したというような訳です。

  建築を学ぶ決心

 それから、本を通して、今和次郎さんの、「民家の話し」とか、山本拙郎さんの「住宅の話し」とか、スケッチ、そういうものを見て、見よう見まねで、……
 私も割合い旅行が好きなものですし、少し生意気だったものですから、中学の時から、一人でほうぼう泊り歩いて貧乏旅行をやったんですが、そういう時に、宿屋の部屋をスケッチしたり、部屋の寸法をとったりして、次第に病膏肓に入って行った頃が、たぶん中三、四年頃でした。
 中学卒業の頃には、建築という言葉をやっと覚えましたし、その建築の方へ進む決心をしました。当時まだ、建築家という地位は皆無に等しく、建築なんていうことを語る人はほとんどなく、大学の先生ぐらいじゃないかと思います。

  岡田信一郎先生との出会い

 僕は母に、「建築の学校へ行きたい。」と言ったら、建築・土木などは、やくざや暴力団と一緒にしているものだから、大反対された訳です。そんな世の中だったのです。
 とにかく説得して、そしてどこの学校へ行こうかと考えていたら、ちょうどその頃、中央公論に、美術学校の岡田信一郎先生の論文がのっていたんです。「美術学校に、建築科というものがあるのかな。」と思って、ひとつ行って聞いてみようと、学校へ尋ねて行きました。小さな学校ですから、最初戸を開いて入って行った所が教官室で、岡田先生が、そこに居たんです。まだ先生を知りませんから、その人に、「この学校は何を教えるところですか。」と尋ねると、「建築を教える所だ。」と言う訳です。だけど、美術学校の建築というから、皆さんも、(特に日本では)変な感じを持たれると思いますが、「何か、特殊な美術建築を教えるのですか。」と聞きますと「いや、そうじゃない。本当の建築を教えるのだ。」と言われたのです。それから、「試験は難しいですか?」と尋ねますと、「この学校では、中学で勉強したもの以外の特殊な勉強はしないで入れる試験しかやらないよ。」と言われましたから、試験を受けて美術学校へ入りました。

  美術学校時代

 美術学校に入って、だんだん建築というものが、こう、身体で感じられるようになってきました。始めはコピーばかりでした。皆さんも同じだと思いますが、ただそのコピーがゴシックのコンパスを使うコピーだとか、ギリシャのキャピタルだとか……。何だか、納得がいかなかったけれど仕方ないからやっていました。小さな学校でしたから、その時に、先輩と一緒の教室なんです。一クラス七人しかいないんですから、学校中集っても三十人くらいしかならない訳です。
 だから皆の製図板が並んでまして一緒にいる上級生の間では、例えばコルビュジエとか、その頃のヨーロッパの新建築だとか、いろいろな話しが盛んで、今の学生の先取りみたいなところはあったのですが、肝心であるべきファカルティーの方は、相変らず、折衷主義の教育を受けた先生ですから、岡田信一郎先生といえども、ルネッサンスの大家ではあるけれど、近代建築は、全然無関心でした。けれど、やっぱり、時代の力というものはあると思います。
 僕らの課題はヨーロッパの折衷主義です。学校建築を、ゴシックでやれとか、ルネッサンスの銀行をやれとか……。ですが一方では学生が、寄集まって、自分達でモダンらしきものをやってました。ある日銀行の設計課題を、ルネッサンス調でというのがでた時に、真四角な銀行を造って、一本だけドリックな柱をつけといたら先生に怒られました。こんな雰囲気だった訳です。
 もう一つ、僕が、建築家になった訳について前に言い忘れましたが、中学の時に、大地震にあったことです。大正でした。
 それで、家というものは地震に強くなければいけないと、身体で感じたものがあります。そして、東京が、だんだん焦土から復興してきた訳です。だから戦後の建築が生々しかったように、非常に強く印象に残っています。それも、建築の方向に進めた原因だと思います。

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