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蝶番
中島桃果子

東京に今年三度目の雪が降った日、四姉妹の長女・艶子は家出した。意味不明のメモを残して。姉妹の語りと日記から浮かび上がってくる、四人それぞれの息苦しさと生きにくさ。「わからないもの、としての人間がちゃんといて、瑞々しく、ときに鋭く、切り込んでくる」と江國香織さんが一人で選考し、世に送り出す長篇小説。

ISBN:978-4-10-313531-9 発売日:2009/01/22


| 1,260円(定価) |
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蝶番
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その出来事は突然にやってきた。なんの前触れもなく。
*
「夕涼み、スイカ」
ぐるぐる蚊取り線香の煙をうちわでべちべち叩いて。
「地蔵盆、綿菓子」
屋台にならぶ、ぐりぐりでピカピカするドロップみたいな指輪が好きだった。
今でも線香花火の火が落ちるとき、胸の奥がシンとする。
ばかみたいにわあわあ泣いたり。
時にはひっくりかえって、うえーん、て泣いたり。
腹がつきるまでさんさんと笑ったり。
ああ、どうかどうか、
このまま振り返らずに、裸足のまま、まっすぐ走っていけますように。
「あの車はもう、ないんだよ」
あなたが言ったその車に乗って、どこまでも終わりのない海に行きたかったのに。
両はじがなくなった、空だか海だかや、
岸から岸に架かる、大きくて、まんまるな、半円の虹を見たかったの。
なんだか泣きたくなって、
うつむいてポトリ、
涙のかわりに唾を落とした。
蜂蜜のように、甘い、どろっぷ、どろっぷ。
夏の落としもの。
*
この意味のわからない不可解なメモを残して姉は出て行ってしまった。
私に宛てたにしてはこのメモの中の「あなた」は絶対私ではないだろうという不快さを覚えるなか、一番下に「家賃は半年振り込みます。艶子(つやこ)」と、メモのなかの詩に見受けられる儚(はかな)さとはまるで真逆ともいえる種類の現実が、筆圧の高い姉の字でふちどられていた。
外は雪だった。東京では珍しい今年三度目の雪。姉の好きなボタン雪が、姉のいない窓の外にちらちらと舞っている。その光景はイラッとするほどに頓狂で、ちぐはぐに思えた。
*
お姉ちゃんがいなくなった、と次女の菓子(かこ)ちゃんが深刻な面持ちで(とは言っても電話なので声しかわからなかったが)わたしに電話をよこして来たのは、三女の虹(にじ)ちゃんと四女のわたしが、長女の艶子ちゃんと菓子ちゃんが一緒に暮らす麻布十番のお家で一週間を過ごした、そのちょうど一週間後のことだった。
わたし達は四人姉妹で、虹ちゃんと末っ子のわたしが実家に残っている。
わたしが電話に出た瞬間、開口一番に菓子ちゃんはこう言った。
「何がどうなってんのかさっぱりわからへんねん」
そしてその後、周りに誰かいんのか、と尋ねたあと、このことはとりあえずパパとママにはまだ言わんといて、と念を押して、菓子ちゃんは言った。
「お姉ちゃん、出て行ってしまってん」
その言葉は圧倒的に何の前触れもなく突然すぎるといった意味での驚きを含みつつも、わたしの耳にはどこか、遅かれ早かれ、どこかのタイミングでそれを聞かねばならなかったようにも響いた。
菓子ちゃんはクールで現実的、それでいて一番の、ママっ子でありパパっ子である。つまり艶子ちゃんと喧嘩をした際や、ごく稀(まれ)に感情的になった際も必ず、まずママに電話がいくのだ。そうしてママを通してわたしはその内容を知る。なのに今日は、わたしにいきなりの電話。
つまりそれは、淡々と話す菓子ちゃんの中にも、三ツ星並みの動揺があったのではとわたしは考えて、驚くことに、あれだけパパママとツーカーの菓子ちゃんが、絶対に、まだパパとママには内緒にしておいてくれと繰り返すので、わたしは、それはわかったよと答え、虹ちゃんにはどうする、と言ってはみたものの、それを聞いたら感受性の強い虹ちゃんが、自分と艶子ちゃんの間に起きた、とるにたらない小さな揉め事やらを全部蒸し返してはとり乱して、しまいにまた過呼吸の発作が出たりして、ゆえにパパとママにもばれて……、おそらく一番艶子ちゃんの嫌がる結果になるであろうと予想しつつ、でも艶子ちゃんはもう出ていってしまって、いないのであるからそこは気にしなくてもよいけど、でも実際わたしは虹ちゃんが発作を起こして苦しむのは胸の奥の方がキュンキュン痛んで辛(つら)いので、かといって「秘密にされる」ということは最も虹ちゃんが心を痛めることでもあるので、おいおい時間をとって話そう、しかし今はこのクールにふるまっている菓子ちゃんの内々の動揺の三ツ星を取り除くことが一番のわたしの使命ではないかと考え、冷静を装いながらもぐるぐるぐるぐる、わたしの頭の中はいろんなことが渦巻いて今にも破裂しそう。ゆえにわたしは大人ぶったとしても所詮は十八の小娘なのだなと内心でしょげた。
菓子ちゃんは、
「今、虹に言ったら間違いなく家庭が崩壊する。そんなことあたしよりナメのがよくわかってるやろ」
と神妙な早口で答えた後、加えて、
「置手紙っていうか、わけわからん詩みたいなんだけ書いてってあるんやけど、その手紙の意味すらわからん」
とつぶやき、
「なあ、あたしあの人に何かしたんか」
と切々と尋ねてきた。
時計は深夜二時を回っていた。小さなタイル敷きの中庭に面するリビングの、ガラスの屋根には、菓子ちゃんが、数年前、雪のスプレーででたらめに描いた、猫やら、蛇やら、月やらゾウやらが歩き回っており、強くなりはじめた雨が、ボツボツッと音を立てている。雨が降っているのは幸いだった。
「菓子ちゃんがどうこうでないと思うよ。艶子ちゃんの問題やと思うよ」
艶子ちゃんの問題である、ということをはっきり強調しつつも、小声でわたしは答えた。
「艶子ちゃん、わたし達が東京へ行くまえ少しこっちに帰ってきてはったやん。そのときに艶子ちゃんの中でなんかあったんじゃないのかな」
二月の頭に、艶子ちゃんと菓子ちゃんという上コンビが二人揃って帰省したので家族みんなで温泉へ行った。そして温泉から戻った次の日から一週間、今度は、わたしと虹ちゃんのチビ妹二人で(もうそろそろ大人だが、ずっとそう呼ばれている)東京旅行に出かけたのだ。もちろん宿泊先は、艶子ちゃんと菓子ちゃんが一緒に住む家で、久しぶりに四人で過ごした。ただ、帰省したときから艶子ちゃんはどことなく元気がないように思えたのだ。
「なんかって、何」
菓子ちゃんがこれまた切々と尋ねてくるので、
「わたし艶子ちゃんじゃないし、よくわからんけど、艶子ちゃんウェブに日記とかいろいろと載せてはるやん。そこになんかヒントあるんとちゃうの」
と答えると、菓子ちゃんは一瞬ムッとしたような間(ま)を挟んで、全部消したったわ、二年分もご丁寧に、と誰にともなく言葉を吐き出し、その後、間髪を容れず、
「なあ、そっちのパソコンになんやしら残ってない?」
と勢いこんだ。わたしの足は、冷たいフローリングで冷えはじめていた。
「ご丁寧に全部削除した人が実家のパソコンに痕跡(こんせき)残すかな?」
わたしが訊き返すと、
「いや、あの人はわからん女やから、自分の歩いてきた道の後ろ、適当に掃除したとしても、はじっこに落とした石とか拾われて、どうされても別に気にしんと放っておくんやから何かあるはずや」
と強く言う。
わたしはものすごくパソコンが苦手なのだけれど、その事実すら菓子ちゃんの脳みそからすっかり吹っ飛んでいってしまっているというこの現状、やはり菓子ちゃんの動揺は、三ツ星、いやそれ以上の星が頭の中でチカチカと瞬(またた)いているのであろうとわたしは予測して、ここはわたしが頑張るより他はないと思った。
「じゃあパソコン整理して、なんかあったらすぐ送るよ」
まるでそんなこと朝飯前風に言って、電話を切ろうとしたら、菓子ちゃんが、
「あ、待って」
と言った。
何? 訊き返すと、質問という質問でもないけどもという感じで、そっちは雪降ってんのか、と尋ねた。
「ううん。雨」
わたしが答えると、菓子ちゃんは「そうか」と言ってしばし黙ったあと、
「こっちは雪。駅から家に着くまでの七分でビニ傘に積もったわ」
と言い放ち、そして最後に、
「なんとなしにむかつくわ、こういうのって」
と、くぐもった声でつぶやいた。

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