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辺境・近境〈新装版〉
村上春樹

村上さん、なぜメキシコに行こうと思ったのですか? なぜ瀬戸内海の無人島でキャンプすることになったのでしょう? モンゴル平原の戦場跡に立ち、北米大陸を横断し、香川で讃岐うどんを食べ比べ、震災後の神戸を歩く、「辺境」なき時代の辺境旅行記。新たに口絵写真を収録!

ISBN:978-4-10-353421-1 発売日:2008/02/29

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辺境・近境〈新装版〉



  讃岐・超ディープうどん紀行

 あるいは、香川県という土地には他にもいろいろと驚くべきことがあるのかもしれない。しかし僕が香川県に行ってみて何よりも驚いたのは、うどん屋さんの数が圧倒的に多いことであった。うどん屋さん以外に何もないんじゃないかという気がしてくるくらい見事にうどん屋さんが多いのだ。寿司屋とかラーメン屋とか蕎麦屋とか、そういうものはほとんど見当たらない。どこを向いても、まるでメーデーの日の明治公園に翻る旗みたいにぎっしりと、うどん屋またうどん屋である。旅行中朝から晩までずっとうどん屋の看板を見ていたような気さえする。
 うどん屋以外の看板でかろうじて記憶しているのは、「他人(ひと)に親切にしましょう」というライオンズ・クラブの立てた看板と、「あそこ」という名前のスナックの看板くらいである。僕はあまり細かいことをあれやこれやと言いたてるのは好きではないが、それでも店の名前に「あそこ」なんてつける神経がよくわからない。だって「あそこ」と言えば「あそこ」のことじゃないか。これはやばいぜ、と思う。それから「他人に親切にしましょう」だってかなりのものである。この看板は金刀比羅宮の近くの街角で見掛けたのだが、そんなこと出し抜けに言われても、僕だってものすごく困ってしまう。標語というのはもう少し限定されたメッセージに限ってほしいと思う。まったく四国のひとは何を考えているのか?
 それはまあそれとして、なにしろ香川県にはうどん屋の数が多い。統計をとって人口一人あたりのうどん屋の数というのを出したら、香川県はまずまちがいなくぶっちぎりの全国一位になることだろう。

 僕は正直に言って、「ハイファッション」という雑誌でこういう「四国うどんの旅」なんていうあまりファッショナブルとはいえない取材をしたことに対して、いささか申しわけなく思っている。どうしてかというと、讃岐うどんとファッションのあいだには、ほとんど何も関連性がないからである。本来からいえば、こういう企画は「太陽」だとか、「四季の味」だとか、あるいは十五歩くらい譲って「ミセス」だとかでやるべきものである。なのにどうして「ハイファッション」でやるかというと、担当のマツオ(マツオさん、女のヒト、敬称略)が香川県出身で、僕と顔をあわせるといつも(あるいは香川県出身者の話題は一般的にかなり限られているのかもしれない)うどんの話をしていたからである。僕ももともとうどんが好きなうえに、マツオがうどんの話をすると、とても美味しそうに聞こえる。話しているうちになんだかひどくうどんが食べたくなってくる。マツオなんてほとんどよだれと鼻水を一緒にずるずる垂らしながらうどんの話をする。じゃあどうせなら四国までうどん食べに行って、それを取材記事にしちゃおうじゃないかということになってしまったのである。実を言うと最初はコム・デ・ギャルソンのショーの記事を書いてくれないかという依頼だったのだが、そういうの俺よくわかんないからなあ、うどんのことだったら書いてもいいけどさ、なんて軽い冗談で言っているうちに、本当にうどんの取材になってしまったのだ。こういうのはもはや成り行き以外の何ものでもない。
 それで安西水丸さんに「一緒に四国までうどんを食べに行きませんか」と声をかけたら、「ああ、いいですよ、行きましょう」ということになって、三人でぶらぶらと四国まで二泊三日の旅行に出かけた。時は秋、気候もいいし、のんびりと四国見物をしながら讃岐うどんを心ゆくまでたっぷり食べようという趣向である。十月も末だというのに、四国はTシャツ一枚でも汗ばむくらい暖かだった。

 あるいは中には、うどん屋なんて全国どこに行ってもだいたい同じだろうと思われる読者もいらっしゃるかもしれない。しかしはっきり言って、その見方は間違っている。香川県のうどん屋のありかたは他の地方のうどん屋のありかたとは根本的に異なっている。ひとことで言えばかなりディープなのである。ちょうどアメリカの深南部に行って、小さな町でなまずのフライを食べているようなそんな趣さえある。

 小懸家
 四国に着いて最初に入ったうどん屋では、店に入るとまずおろし金と長さ二十センチくらいの大根がテーブルに運ばれてきた。なんだなんだこれは、と思ってまわりを見ると、客がみんな真面目な顔をしてこしこしこしこしと大根をおろしているのである。しょうがないので、僕も大根を右手に持ち、おろし金を左手に持って、こしこしこしこしと大根をおろした。うどんを注文してからゆであがるまでに十五分くらいかかるので、手もちぶさたを解消するのにはいいけれど、でも店の中の客がみんなで大根をおろしているというのは情景的にかなり奇妙なものであった。大根をおろすというのは本質的に個人的な作業なんじゃないかなとふと思った。孤高な作業というほどのものでもないけれど、かといってあまり団体で揃ってやるものではない。まあどうでもいいことだとは思うけれど。
 おまけに大根が硬いので、おろすのにかなりの腕力と握力が必要とされる。僕はどちらかといえば腕力のあるほうだと思うけれど(「こういうときだけは役に立つんだから」とよく女房に言われる)、それでも息が切れた。去年ふたりそろって心臓発作を起こしたというような老人夫婦がここにうどん食べに来たら、いったいどうするのかしらんと、他人事ながらついつい心配になってしまう。
 大根と一緒にすだちが運ばれてくる。テーブルの上には七味と葱と生姜が置いてある。葱は関東風の白葱ではなく、柔らかく青い葱である。その他に胡麻がある。蓋をまわしてごりごりと碾くようになっているやつ。それから醤油とチューブ入りの練りわさびと味の素。僕はこの取材中に十軒近くのうどん屋に入ったけれど、ほとんどの店に味の素が置いてあった。必須アイテムと言ってもいいだろう。香川県の多くの人はうどんに味の素をかけて食べるのである。こういうのもかなりディープである。
 それからどうしてうどん屋に醤油が置いてあるのか疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。これは、うどんにかけて食べるのである。つまり冷たいうどんが運ばれてくると、客はそこにじゃばじゃばと醤油をかけてそのまま食べてしまうのである。これは「醤油うどん」と呼ばれる。
 せっかく四国まで来たのだからと思って、僕もこのディープな醤油うどんを試しに食べてみたのだが、これはけっこういけた。シンプルにして大胆、蕎麦でいうとちょうど「もり」の感覚である。古くなってのびてしまったようなうどんでは無理だが、打ちたての勢いのあるうどんに醤油をかけて、葱だけを薬味にしてつるつるつると食べる美味さには、思わず膝を打ってしまいそうな説得力がある。

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