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神器―軍艦「橿原」殺人事件―(上)
奥泉光

探偵小説好きの青年が一兵卒として乗船した軍艦「橿原」には、「神器」がひそかに持ち込まれていた――。相次いで起こる変死事件、そして極秘の任務をめぐって錯乱する兵士たちの思いを運んで大海原を進む「橿原」の真の使命とは? 時空を超え、民族を超えたスケールの日本人論、戦争論が展開される、記念碑的純文学長編。

ISBN:978-4-10-391202-6 発売日:2009/01/23

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神器―軍艦「橿原」殺人事件―(上)



   8 艦底の幽霊

 軍艦の水兵というのは多忙きわまりなく、飢えた鼠同様絶えず動き回る必要があって、気楽に雑談なぞしている暇はない。だから俺が幽霊話について詳しく聞くことができたのは、巡検が終わった後の時間であった。それより前、夕食の席で、外出者が帰艦して勢揃いした分隊員一同に俺は改めて紹介された。巡検から消灯までの時間は兵員にとって唯一の自由時間である。ただし、下級兵にとっては甲板整列の号令がかかる恐怖の時間でもあるのだが、この日はそういうこともなく、甲板通路の一画に出された煙草盆の回りに人々が集合して雑談の花が咲いた。油谷一水がそういったのか、居住区(デッキ)で本を読んでいた俺は煙草盆へ呼ばれて、「艦底の幽霊」につき複数の口から教えられることになったのである。
 最初妙だと言い出したのは耳のいい水測員たちだった。水中聴音の機材を調整して訓練を始めたところ、艦底から妙な音が聴こえる。人が低く囁くような、すすり泣くような声である。艦底を覗いてみても、誰かが居るわけじゃない。なのに音はなお聴こえる。そんなことが何回か続いた後、今度は内務科や機関科の方でも妙だと騒ぎ出した。たしかに誰か人の居る気配があるのである。そのうち、艦底に白いふわふわする影を見たという者が出てきて、噂が一遍に広がった。最初は問題にしなかった幹部連中も座視できなくなり、午前中に、衛兵司令の指揮下で艦底の一斉探索が行われたというのだった。
 結局、猫の子一匹発見されず、一件は落着となった。まあ、幽霊話とは大概そうしたものである。古い艦には語り伝えられた幽霊話が一つや二つ必ずあるもので、苛め抜かれた兵の怨念が旧艦にはどっぷり染み付いているからだろう。失くした靴やオスタップを求め、夜な夜な甲板を徘徊する幽霊兵の話はまず定番であるし、螺子回(ねじまわ)しやスパナなどの道具類を一本、二本、三本と数えた挙句、一本足りないと泣く、皿屋敷のお菊みたいなのもときどき出るようだ。飛行機のプロペラで刎(は)ねられた首を探し歩く首無しお化けなんてモダンなのもある。しごきの苦しさに耐えかねて、あるいは陛下から押し頂いた官給品を無くしたことを苦にして首を吊った兵隊は現実にいたのであり、だから怨念には堅固な現実性(リアリティー)があるわけで、これが殺された兵だったりすると、化けて出るのはもはや必然とさえいえる。実際「無左志」では甲板整列でバッターの打ち所が悪くて死んだ初年兵があった。「事故」で処理されたけれど、間違いなく殺されたわけである。こういう場合は、都合がつくならなるべく化けて出て、是が非でも恨みを晴らすべきだろう。
「橿原」はわりに新しい艦なので、怨念はさほど溜まってはいないはずで、それでも出るときは出るものらしいなと思っていたら、やはり出るだけの理由があることがすぐに判明した。というのは、一〇日ほど前に、横須賀工廠の船渠から出た直後、艦底で死体が発見される事件があったと教えられたからである。それも後ろ頭を鉄棒か何かで殴られた死体だというから、成仏していない確率は高い。
 死体は黒い背広を着た男で、死んで数日が経つと見られた。艦の衛兵隊で調べたところ、「橿原」の乗組員ではなく、船が船渠(ドック)に入っていた間に紛れ込んだ人物と考えられた。しかし、なんでそんな所で死んでいたのか、わけが分からず、連絡を受けて捜査した憲兵も首を傾げたらしい。誰が殺したかはもちろん、そもそも死んでいたのが何者なのか、身元すら分かっていないというから妙だ。幽霊話くらいで衛兵隊が調査に乗り出すのは、いくらなんでも大袈裟だと思ったが、なるほどこれなら納得がいかぬでもない。
 それにしても奇怪な話ではある。妙なことがあるもんですねと、俺が遠慮がちに感想を述べると、煙草盆の前に置かれた長椅子に腰を下ろした一曹が、「ほまれ」をぷかり吹かして、この船にはまだ色々とあるんだぜ、と黄色い歯を見せて笑った。この人は下扇仁史一曹といって、前部羅針儀担当の、藤縄上曹に次ぐベテランで、昭和一七年に進水竣工して以来ずっと「橿原」に乗り続けている、艦の生き字引のような人物である(と後に知った)。
「知らんと思うが、この船じゃ、先の艦底のおかしなやつ以前にも、三人ほど死んどるのだね。戦闘や事故で死んだのは別だぜ。そういう普通のじゃないやつだ。普通一般の死に方じゃない死に方で死んだのが三人あるという、つまり、これはそういう話だ」
 そう宣(のたま)った下扇一曹は、炭団(たどん)と見紛う真っ黒な馬面でもって煙草盆の回りをぐるり見回した。戦闘や事故での死が普通一般といえるかどうかは議論の余地があるとは思うが、いいたいことは分かる。何度も聞いた話なのか、人々はまたかと苦笑する気配だったが、一方ではどこか期待する風もある。どちらにしても、居住区の「偉い人」が調子良く話し出したのを一般兵員が無視することはありえない。それにしても、藤縄上曹といい、この人といい、班の下士官には顔の大きな人が揃っているなと俺は感心した。藤縄氏の顔が縦横満遍なく茫々として広いのに対し、下扇氏のそれは縦方向にのみ長い違いはあるけれど、二人とも上背がないため、顔と躯のバランスを欠いて、ほとんど三頭身くらいに見える共通点もある。二人で歌舞伎役者になったらいいんじゃないかと思う。
「一番最初は水雷の上水だった」と馬面一曹ははじめた。船艙中央に内務科の倉庫がある。これは5番倉庫と呼ばれる大型倉庫で、木工の道具やら排水ポンプやらが収納してあるのだけれど、その前の通路に一水が倒れて死んでいた。死因は劇薬による中毒死で、状況から自殺と見られた。
「遺書もなかったし、同年兵の話じゃ、殺しても死なないような奴だったというんだが、人の考えていることなんぞ、外見からじゃ分からんもんだ。まあ、自殺で間違いなかろう」と語り手は簡単に片付けたけれど、俺からしたら冗談じゃないという感じだ。全く素人はこれだから困る。服毒自殺に見せかけた殺人の方法などはいくらもある。死因になった毒は何? 第一発見者は? と矢継ぎ早に質問したいのを堪(こら)え、俺が立ったまま謹聴の姿勢を継続するうちにも、馬面一曹は先へ進んでいる。
「次が水雷長だ」
 その二週間後、水雷長の大尉が首を吊って自殺した。これもまた動機は判然としなかったけれど、自殺には違いなかった。ところが一つだけ明らかに妙な点があった。
「妙な点といいますと?」と俺は機を逃さず間の手を入れる。こういう細かい気配りが軍隊では大切なのである。頷いた馬面一曹が答える。
「水雷長が自殺した場所が5番倉庫だったんだな。あの当時、5番倉庫は水雷の方で使っていたんだが、従兵に倉庫の鍵を借りに行かせて、わざわざそこで死んだっていうんだから、こりゃ妙だろう?」
 たしかに妙である。だが本当に奇妙なのはここからなのだと、どこか嬉しそうに語を継ぐ下扇一曹はなかなかの美声である。低音でよく透るのが気持ちよい。やはり役者か講談師がいいだろう。
「それから一月くらいして、呉に入港していたときだ。またもや5番倉庫で死人が出た。今度も首吊りだ。こうなると何かあるとしか思えん。しかもだ、死んだのは船の乗組員じゃない人間だった。全然関係ない奴が倉庫で死んどった」
 死んだのは艦隊司令部付きの一曹で、連絡用務で「橿原」へ来た将校にお供でついて来た人間だった。その人が、将校が用事を済ませている間に、倉庫へ勝手に入って首を吊った。
「死ぬなら他にいくらでも場所はありそうなもんだ。わざわざよその船まで来て死ぬこたあない。こりゃ、どう考えてもおかしい」
 呪いだ。呪い以外に考えられない! 俺はたちまち考えた。つまりは呪われた5番倉庫である。うん、まずはミステリの発端としては上々だ。胸をときめかせた俺に下扇一曹が真っ直ぐ眼を向けてくる。
「な、おかしいだろう? 石目はどう思う?」
 出し抜けの指名に俺は狼狽してしまい、そいつはまことに謎めいていますな、要はあれですか、呪いの軍艦てなわけですか、いやあ、面白い、実に面白い。正真正銘のミステリでげすな、乱歩先生もびっくり仰天だ、と、軽薄きわまりない文句が口から飛び出しそうになるのを慌てて押さえ、不思議なこともあるもんですね、とごく控えめな返答をした。二度三度と頷いた下扇一曹は、またぷかりと煙の塊を吐き出した。
「そうなんだ。不思議なんだよ。しかもだ、今度は5番倉庫にはちゃんと鍵がかかっていたっていうんだから、ますますおかしいわけだ。鍵は掌内務長がちゃんと保管していた。つまり死んだ奴がどうやって中へ入ったかが分からないんだな」
 出た、密室だ! こりゃいよいよ本物だ。『軍艦の殺人』A Battleship Murder Caseだ。こりゃ凄げエ。忘れたはずの探偵小説好きの蟲がまたぞろ騒ぎ出したとき、下扇一曹が再度俺を名指した。
「石目は、こういう探偵小説みたいな話、好きなんじゃないのか?」
 長い顔に似合わず勘の鋭い男だ。こいつは油断できない。迂闊なことはいえないぞと、返答に迷っている俺に向かってまたも響きのよい声が飛んで来る。
「いくら好きでも、調べようなんて考えちゃいかんぞ。内務科5番倉庫へは近づかん方が身のためだ。急に死にたくなるといけねえからな」
 歯を見せて笑いながらも、満更冗談でもない調子で助言した下扇一曹は、もっとも船渠を出て以来、5番倉庫は使用中止になり、封鎖されているので、誰も中へは入れないと教えた。それからいよいよ上機嫌になって加えた。
「だから、この艦にゃ、幽霊なんてのはぞろぞろいると思うぞ。5番倉庫や艦底あたりが幽霊の巣になっているんだろうな」
 しかし今日の探索では何も見つからなかったではないかと、別の一人が言葉を挟むと、下扇一曹は、ふふんと、鼻から勢いよく煙を吐き出した。そういう風にすると全く馬である。
「幽霊なんてもんは、見える者にしか見えんのだね。だいたい相手が岡島先任伍長じゃ、幽霊の方で逃げ出すぜ」
 煙草盆の人々が一斉に声をあげて笑ったのは、岡島先任伍長なる人物の個性(キャラクター)故なのだろう。先任伍長、正式には先任衛兵伍長は、艦の下士官兵全体のボス的存在である。きっと見るからに強面の人物なんだろうと、俺が想像していると、下扇一曹からまた声がかかった。
「石目なんかはあれじゃないか、幽霊だとか、そういうのをよく見るんじゃないか?」
「何故でしょうか?」と問い返した俺は、朝、乗艦して以来の、得体の知れぬ不安感、恐怖感が、まだ見ぬ「艦底」や「5番倉庫」のイメージを中心に再び激しく渦巻くのを覚えた。ところへ馬面一曹のよく透る声が流れ込んできた。
「石目はいかにも幽霊を見そうな顔をしてるぜ」

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