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キャラクターズ
東浩紀、桜坂洋

主人公=キャラクターとしての批評家・東浩紀。書き手=実在の批評家・東浩紀+ライトノベル作家・桜坂洋。二人に与えられた武器は「キャラクター」という古くて新しい概念。「私」とセックスと死を描く日本文学、その脱構築として。「自然主義的リアリズム」、その文学環境崩壊の中で。主人公・東浩紀は、分裂し、暴走し、そして……。

ISBN:978-4-10-426202-1 発売日:2008/05/23

立ち読み 書評 雑誌から生まれた本

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キャラクターズ



        1

 ぼく、すなわち東浩紀は、そのとき、己れの傲慢さを思い知ることになった。
 転居したばかりのトイレの中のことだ。大きなほうの用を足しに入ったぼくは、ほどよくぬくまった便座の上で、ケータイのちいさな画面を注視していた。開いているのはフラッシュニュースのサイトだ。新居に来てから新聞の契約はしていない。テレビも見ない。仕事で使うコンピュータとケータイがニュースソースのすべてである。ITによる人類動物化計画は順調に進行している。さて、クリック、クリック。次のニュース、と。縦十二行横十三文字の液晶モニタに、なじみの作家が文学賞を受賞した、と書いてあった。なるほど。もう一度読んだ。再読み込みのボタンを押した。電波と化しケータイに届いた文字たちは変化しなかった。ケータイを閉じた。開いた。見た。読んだ。それでも内容は変わらなかった。握りしめたこぶしが宙を泳いだ。いつもの場所に壁がない。新居のトイレは無駄に広く、壁に手を押しつけようにもうまく届かない。それがまたいらだちをつのらせた。
 受賞の知らせはいいのだ。むしろ喜ばしいことだ。かつては彼が書いた作品に好意的な批評を書いたこともある。知り合いの編集者に推したこともある。久しく芽が出なかったが、才気溢れる男だった。五十代の男に、なけなしの貯蓄を賭けるにはどの若手作家がいいかと聞かれたら、彼を薦めるくらいには買っていた。内なる苦悩も知っている。ついに報われたのは善なることだ。この事象をもって、世間の人間は、遥かむかしにぼくが予見した時代が到来したと言うのだろう。遅いくらいだ。遅い遅い遅い。やっとわかったかバカタレども。おまえら低能の三百年先を歩いている人間がいることに気づくがいい。なのに気分は沈んでいた。目をつぶれば心の中に光の粒ひとつも見えない。レイテ沖の海底で静かに腐りつつある戦艦だって、いまのぼくほど沈みきってはいないだろう。
 ぼくの気持ちは、戦争を願う下流の若者に近いかもしれない。いっそのこと戦争でも起こらないかと、そんな風に思う若者たちのことだ。戦争は、ぼくをこの状況から脱出させてくれる唯一の特効薬だ。いや、そんなことが絶対にないのはもちろん理解している。頭では。頭ではだ。たぶん、自分が死ぬとか誰かが死ぬとかではないのだ。袋小路の道を選んでしまったぼくや社会に道はない。茹でガエルのように、あるいは大潮が引いたあとで水たまりに取り残された小魚のように、気づいたときには死ぬしかなくなっている。ならば、とり返しのつくいまこの瞬間、戦争でも起こして突破口を残しておいたほうが後世のためになるのではないか。大勢の人間が死に、ぼくも死ぬかもしれない。友人のうち何人かは死ぬだろう。そんなことはわかっている。大切な、かけがえのない命が失われる。よくないことだと知っている。だけれど、放っておけば、どうせもっと多くの人間が無駄死にするのだ。だったらいま死んだほうがいい。
 温水便座が熱かった。五月中旬になろうかというのに便座の暖房がつけっぱなしだった。妻のせいだ。いや、やつあたりはよくない。それにしてもやけに熱い。プラスチックの板が剥きだしの皮膚を焼いている。トイレという世界と隔絶した場にいる今日このときは、いつも一緒にいるパンツすら尻を守ってくれないのだった。ぼくの尻は孤独だ。いっそこのまま、臀部から突き上げる熱波によって体中の水分が流れ落ち排水口へ消えていってしまえばいい。そうすれば、胸の中心にどっかと座る重苦しいなにかも、全身を覆ううっとうしさも、内臓に詰まった糞尿も、ぱさぱさの肉と皮だけになった体からきれいさっぱりなくなっていることだろう。


        2

 尻が孤独という表現はいきなり意味深じゃないか、とぼくは便器から腰を上げ、水を流しながら桜坂洋に思いを馳せた。なぜ尻が問題なのか。話を続けるまえに状況を確認しておこう。
 小説のなかでの時間は二〇〇七年の五月十五日午後五時半。しかし、このテクストの性格を説明するためには、時間をちょっとだけ先に進め、論理的にひとつうえの世界にのぼらなければならない。その世界では、五月の第三週に、桜庭一樹と佐藤友哉、すなわち「私小説化したライトノベル作家」が相次いで文学賞を受賞した。桜坂とぼくはその受賞劇になぜか深い衝撃を受け、桜坂はあやうく断筆しかけ、ぼくもぼくで剃髪――をする勇気はなかったのでぐっと髪を短くしてみたのだが、ぼくたちがなぜ彼らの文学賞受賞にそれほどの衝撃を受けたのか、その理由はいささか込み入っており、むしろそれこそがこの共作で主題になっていくはずなのでここでは説明しない。
 いずれにせよ、そんなぼくたちは、日曜日早朝の長電話で、たがいのみじめさを確認しながら突発的に共作の企画を立てた。発表媒体はぼくたちがともに縁のない、というかじつはぼくのほうはむかし深い縁があったのだが、そのあとは半ば絶縁気味の文芸誌。形式は、実在のライトノベル作家・桜坂洋が実在の批評家・東浩紀をキャラクターにした小説を書き、後者がその合間合間に、キャラクターの東が記したという設定で虚構的な文芸批評を挟んでいくというもの。目的は批評のキャラクター小説化。それがこのテクストだ。
 なぜ批評のキャラクター小説化なのか。その理由は三つの段階に分かれている。
 第一に、純文学はいまの日本のあらゆるコンテンツのなかで、おそらくはもっとも批評に依存する度合いが高い。第二に、その批評、つまり純文学について純文学のなかで提供されるメタ言説は、批評家の私的な価値観の露呈という点で、いまや小説よりもはるかに私小説的である。その条件と限界は、たとえば、戦後の有力な文芸評論家でもっとも私小説的な語りを軽蔑していたと思われる柄谷行人の文章でさえ、実際には人格に還元して読まれていることに端的に表れている。したがって第三に、ぼくたちは、そのような批評をキャラクター小説化すれば、というよりも、そもそも批評などキャラクター小説と同じくらいに虚構的なものなのだということを実践的に証明すれば、佐藤や桜庭の受賞劇が象徴する状況、つまり出身がラノベだろうがミステリだろうがSFだろうが要は「文学」になるためには「私」の話を書かなければならない、というこの退屈な光景にカウンターをあてることができるのではないか、と考えた。
 むろん、そんなカウンターはだれも必要としていないかもしれない。というか、編集者や書店員は迷惑がるだけかもしれない。しかし、ぼくたちとしては、彼らの受賞が、このまま「ライトノベル的想像力の文学への侵入」の記念碑として文学史に刻まれることは、なんとかして阻止しなければならない、それができなくても横槍を入れておかねばならないような気がしたのだ。
 かつて大塚英志は、キャラクター表現は、手塚治虫のおかげでセックスや死を描けるから新たな文学を産み出すと主張した。裏返せば、彼は、セックスや死を描かなければ文学にならないと考えた。この感覚は大塚独自のものではなく、この国で文学が語られるときは広く共有されている。だからこそ、SFは文学ではないとか、ミステリは文学ではないとか(「ミステリの死は記号的死であり実存的死ではない」)、物語と文学は違うとかいう話が、十年一日のごとく繰り返されている。
 おそらくすべての問題の根源はここにある。セックスや死を描こうとすれば、作家は私小説を書くのがもっとも効率がいい。より正確に言えば、本来的にすべてが嘘であるはずの小説というメディアを用いて、それでもセックスや死が「現実的」に描かれているという幻想を市場に提供しようとするのであれば、もはや作品内の工夫を凝らすのではなく、作品外の仕掛けにおいて、読者の側が作家と主人公を勝手に等号で結んでくれるような錯覚のシステムを強化するのがもっとも効率がいい。かくして、ほとんど必然的に、日本文学では私小説が主流になり、作家と主人公を同一視する評論が華開き、作家のスターシステムが整備され、定期的に文壇暴露ネタの小説が書かれることになる。そして、それ以外の想像力は傍流に押しやられる。この観点からすれば、ケータイ小説は実はきわめて正統的な日本文学だ。文学者なんて、要は難病で死ぬ話でも書いていればいいのである。
 ぼくと桜坂はその全体に異議を申し立てる。むろん、そんな異議申し立てはむかしから繰り返されている。そしてそのたびに、セックスと死と「私」の小説が勝利を収めている。しかし、同じ抵抗も、時代と環境が異なれば、異なった表現を取り、異なった効果をもつはずだ。というより、ここではそう信じる。より正確にはそう信じているふりをする。今回、ぼくたちに新たな武器として与えられたのは、作家と批評家の共作という装置と、「キャラクター」という古くて新しい概念である。
 というわけで、ぼく、すなわち東浩紀、二十一歳で批評家としてデビューし、かつて浅田彰の後継者や阿部和重の盟友と呼ばれ栄華を誇り、しかしただちに文芸誌から忘れ去られ、ネットぐらいにしか活路がなく、そこでもいまや時代遅れと見なされて新著も大して話題になっていない、この中途半端な学者くずれは、自分のイッコ上の、谷川流に経済資本のすべてを、桜庭一樹に象徴資本のすべてをかっさらわれて、生き残るためにもはや毒でもなんでも食らう気になっているやぶれかぶれのライトノベル作家をだまくらかし、筒井康隆の二番煎じのような共作を、編集長との十年来のコネを活用して『新潮』に押し込むことを決意したのだった。決意するぼくと決意されたぼくはこのテクストの内部では区別できず、そもそも現実には両方ともぼくが書いているのだからその区別には意味がないのだが、とりあえずその後者のほう、つまりキャラクターである東浩紀のほうは、桜坂の小説のなかで、桜坂が展開する物語の規則に従って、ある凡庸な批評家を演じることになる。ぼくはそこでは、北田暁大との共著、『東京から考える』のあとに引っ越した、そしてついこのあいだ現実の桜坂も遊びに来たばかりの東京都大田区池上の新居のトイレに閉じ込められて、ケータイで三島賞発表のニュースを読んでいる。そして便器の熱で尻を焼いている。
「尻の孤独」という表現、そしてそれが象徴する同性愛的な分身関係は、今後この作品のなかで幾度も幾度も反復され、現実でも虚構でも、ともに女性の存在を執拗に排除し続けるだろう。その排除はぼくと桜坂がともに置かれた想像力の場の(ライトノベルの、キャラクター小説の、セカイ系の)性格を反映しており、したがって本作にもし批判が向けられるとすればまずはそこからということになるだろうが、この小説を書くことでぼくたちがその限界を乗り越えられるのかどうか、それはさっぱりわからない。そもそも、この小説にヒロインは登場するのだろうか。
 いずれにせよ、桜坂には、まずぼくをトイレから出してもらいたいと思う。これ以上の話はそのあとだ。

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