一 暗 夜
1
厚い雲が月を隠すと、江戸の夜の闇は、ずしりとのしかかるように重かった。
前も後ろもない、うっかりその闇の中に踏み込んだら、そのまま落ちていきそうな、ひやりとする暗さ。その黒一面の中を、提灯の明かりがぽつりと、わずかに夜をわけて進んでゆく。
先刻まで雲はときおり切れては、月の光の中、町屋の姿とわずかな風にゆれる木の影を、浮かび上がらせていた。
だが、その青い光も隠れてしまえば、いっそう闇を濃く思わせるだけだ。北へ行けば中山道に続く道を、急ぎ足でお堀の方角に下る。小さな手元の光は、持ち主の足もとを照らすばかりで心もとなかった。右手にあるはずの、湯島聖堂の塀の白壁にさえ、それは届きはしない。神社の外壁が続く坂道には、夜商う振り売りがともす明かりもなく、すれ違う人の影すらない。犬一匹、追い越してはいかなかった。かすかな甘い香だけが、遠くないところに咲く花があることを教えている。
「遅くなってしまった。これでは仁吉たちに、出かけたのが分かってしまう……」
ため息と共に出されたその声も、濃い夜の中、行方しれずになりそうだ。提灯と連れ立っている足音が、暗闇にせかされるように、せわしない音をきざんでいる。
そこに突然、声がかかった。
「若だんな、お一人なんですか?」
柔らかな若い響きの、女の言葉。呼ばれた若だんなの歩みが、からめとられたかのごとくに、ぴたりと止まった。
「だれ?」
五つをとうに過ぎた刻限の、闇の中からの問いかけ。
相手も分からず、常ならば身構えるだろうそれに向かって返された声は、大してこわばったようすでもない。手にしていた提灯が顔のそばに掲げられ、声が来た方を照らす。明かりは若だんなと呼ばれた者の、白い細面、縞の着物をかすめたが、他の姿をみせはしなかった。
提灯が、闇を見据えるように、ゆっくりと上下する。
「私はその先の道の傍にある、お稲荷さまにお仕えしているもので……」
再び漆黒から言葉がわく。その艶のある話し声に、かすかに鈴の音が重なっていた。はかない音色を聞いた若だんなの口元に笑みが浮かび、体の固さがとれていく。
「付喪神(つくもがみ)! 鈴彦姫か」
誰ぞに稲荷に納められたのだろうか、鈴が化して妖(あやかし)と成ったものは、眷属の中では鈴彦姫との名で呼びならわされていた。器物が百年の時を経て成る妖怪、付喪神という。この世の尋常のものから、一つ離れた存在だ。
だが、そんなものに声をかけられたというのに、いぶかしむでも怖がるでもない。若だんなは人の身で付喪神の名をあっさり言い当てると、それ以上は気にする様子もなく、また提灯をめぐらせて夜道を急ぎ始めた。
その足元の闇の中、先ほどのうら若い声が付いてくる。
「何故今日は、犬神さんも白沢(はくたく)さんもお供していないのですか? こんな月のない夜に、危ないことで……」
「おや、お前、二人を知っているのかい?」
わずかに驚いたような声が返る。おもしろがっている風でもあった。
「ここいらの妖ならば、たいていの者は存じ上げております。私のような小妖怪とは比べものにならないくらい、力の強い方々ですから」
「今日は二人についてきてもらう訳にはいかなかったのさ……そう、少し散歩に出ただけだからね」
「この闇の中をですか? こんな刻限にですか?」
付喪神の声が低くなる。あきらかに信用の二文字が欠けた返事だった。
「本当は、乳母やの具合が悪くて、見舞いに行っていたのさ。いや、この言い訳はまずいか。乳母やはぴんぴんしているのに、怒られてしまう」
自分の言葉を言った先から否定して笑うと、また別のことを言いはじめる。
「実は遠くにいる兄さんに会いに行ったのだよ。それで帰るのが遅くなった」
「からかっちゃぁいけません。若だんなは一人っ子じゃありませんか」
「知っていたのかい? 物知りだね」
のんびりとした返事に、鈴彦姫の声が少しばかりとがった。
「そうやってごまかすところをみると、お二人には内緒で他出なさったんですね? はめを外して、本当に危うい目に遭っても知りませんからね」
「窮奇(かまいたち)と鉢合わせして、切りつけられるか? それとも邪魅に見つかって、夜の中を引き回されるか?」
今度は、はっきりと笑いをふくんだ声に、鈴彦姫は語気を少し強めた。
「若だんな、笑い事じゃあ、ありません。妖の中には、たちの悪いのもいるんですから。今日は私がお店までお送りしましょう」
「この坂を過ぎれば、いくらも行かないで昌平橋に出るよ。渡って筋違橋(すじかいばし)御門からは繁華な通町(とおりちょう)だ。夜鳴きそばも麦湯の店も出ているだろう。心配ないよ」
「そんな風におっしゃったって、離れませんよ。ここで若だんなをひとりで行かせたら、犬神さんや白沢さんに後で何て言えばいいんです? 大体、一番危ないのは……」
言いかけた鈴彦姫の声の端が、すうっと夜にとけて消えた。
その沈黙が、若だんなの足を止める。
「どうした?」
「……急に、血の臭いがしてきたんです」
「どこから? 分かるかい?」
「たぶん、その先の……右手の路地あたりから」
聖堂の塀はすぐ先で暗闇に包まれていて、小道のありかも分からない。提灯を向けてみるが、光が届かないのは相変わらずで、黒く夜の壁が立ちはだかるだけだ。
「若だんな、行きましょう。血の臭いなんて気味悪いですよ」
「ああ……」
気にはかかったが、木戸が閉まる四つまでには店に帰っておきたかった。提灯の火を足元に向けると、振り切るようにまた道を急ぎはじめる。
そのとき。ほんの二、三間後ろから、という気がした。首筋のうぶ毛がそそけだつほど、思いもかけない近さで、人の声がしたのだ。
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