警官の血 上




  第一部 清二


       

 安城清二が自宅に帰ったとき、女房の多津は洋裁の内職中だった。
 膝の上に、軍服が広げられている。誰か復員軍人から頼まれて、仕立て直ししているところなのだろう。
「お帰りなさい」多津が顔を上げ、少し照れたような微笑を見せた。
「何かあったか?」と清二は訊いた。
 多津が言った。
「赤ちゃんができたみたい」
 清二はまばたきして多津の顔を見つめた。
 赤ん坊? そいつは素晴らしい話だ。これで自分にまともな家があり、仕事があったならば、最高だ。
「どうしたの?」と、多津は無邪気に訊いてくる。
「うん」清二は、部屋の中を見渡してから言った。「おれも、話があったんだ」
 清二は靴を脱いで、部屋に敷いた茣蓙の上に腰をおろした。
 自宅とは言うが、ここは母の実家である。自分自身の生家は浅草だったが、三年前の下町大空襲の際に焼けた。両親もそのとき死んだという。除隊となった清二は、やむなく祖父母と伯父家族の住むこの台東区三ノ輪に移ってきたのだった。
 台東区の大半はあの日の空襲で焼けたが、三ノ輪のこの狭い範囲だけは奇跡的に延焼を免れた。清二は焼け残った母屋に三畳の部屋を建て増しして、住まわせてもらっているのだった。板の上に茣蓙を敷いただけの、貧相な部屋だった。
 清二は多津の顔を見つめた。
 多津は小首をかしげて、清二に先をうながしてくる。
 多津の顔は、新婚当初はもっとふっくらとしていたはずだ。なのに、このところいくらかとがって見える。いや、自分に正直に言うなら、多津はまちがいなくやつれている。終戦から二年半たったとはいえ、世の中はまだまだ復興と呼べるほどには落ち着いていない。食糧はもちろん、住居も衣服も、すべてが終戦直後のあの夏の状態からさほど向上してはいなかった。セルロイド工場の工員の次男坊には、終戦後はろくな仕事もない。工事現場の小さな日雇い仕事を続けてきたけれど、それでは新婚の妻がやつれてもしかたがなかった。
 多津は、生家の近所に住む畳職人の娘だった。焼け出されて、やはり親族の住む下根岸に移ったのだ。幼なじみと言えるほど親しくはなかったが、清二の除隊後、三ノ輪車庫の近くでばったり会って以来、お互いに意識するようになった。これに気づいた周囲が早く結婚しろと勧めて、ほとんど心の準備もないままに清二は、多津の夫となったのだった。それが半年前のことだ。
 清二は、多津を見つめて言った。
「きちんとした仕事に就こうと思う」
 多津は訊いた。
「勤め人になるの?」
「商売人は無理だ。元手もない。手には何の職もないし」
「少しずつ仕事の口も出てきたって言うし、あまり焦んなくてもいい。いい仕事を探して」
「選んでる余裕はないだろ」
「じゃあ、何かあてがあるの?」
「ああ」清二は、今朝拾った新聞を広げた。社会面には大きく、豊島区椎名町の帝国銀行で起こった銀行員十二人毒殺・大金強奪の続報が載っている。事件から四日目だが、犯人の手がかりはまだまったくつかめていないようだ。
 多津が言った。
「あ、その事件、聞いたわ。むごい話ね」
「そっちじゃないんだ」
 その社会面の下に、警視庁の警察官募集の広告が載っている。
「知ってるだろ」と、清二はその広告を示して言った。「去年の暮れから、警視庁が巡査の大募集を始めた。警察の機構が変わるんだそうだ。巡査が一万人も不足するらしい」
 多津の顔はいっそう不安げになった。
「清二さんが巡査だなんて、考えたこともなかった」
「お前は、制服着た男が苦手だからな」
「威張るひとが嫌いなの」
「憲法も変わって、警察も民主警察になったんだ。戦前の警察とはちがうさ。おれが巡査になるの、いやか?」
「ううん。清二さんなら、警察に入っても、威張りくさるようなお巡りさんにはならないと思うけど」
「何が心配だ?」
「危ない仕事でしょ」
「どんな仕事だって、多少は危ないさ。学校の先生でもやるんじゃないかぎり」
「清二さんに向いてる?」
「おれはこういう男だ」と清二は言った。
 物心がついたときに意識した。兵隊に取られた後は確信に変わった。
 自分は融通のきかない頑固者だ。秩序だったことが好きだ。他人が悪さをしているとき、黙って見過ごすことができない。
 こんな質ならば、巡査という職には向いているだろう。少なくとも、呉服屋の店員や時計職人などよりは。
「おれには、巡査は合ってると思う。向こうがそう思ってくれるかどうかはわからないけど」
「なるにはどうすればいいの? 警察練習所に行くんだっけ?」
「いまは、手近の警察署に行くんだそうだ。そこでまず試験があるらしい」
「難しい試験じゃないの?」
「自分の名前が書けるなら、採用されるって聞いたぞ。いくらなんでも、そいつは警察を馬鹿にしすぎた話だと思うけど」
「清二さんなら大丈夫だね」
「ただし、巡査って言ったら、安月給が相場だ。インフレに追いつけないかもしれない」
「そのうち、世の中も落ち着く。あたしは、清二さんが巡査になりたいなら、かまわないよ」
「とりあえず決まった給料がもらえる。子供ができる身なら、それが何よりだろ?」
 多津はうなずいた。

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