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非常ベルの音が路上に広がっている。窓が破られたために、警備会社に繋がっている保安機能が作動したのだ。
「安藤警部補、犯人から入電です」
通信機材の前に座っていた若い男が抑えた声で言った。安藤が振り向く。スピーカーに繋ぐように、と麻衣子が指で指示した。
『うるせーんだよ、てめえらよ!』
いきなり天井のスピーカーから怒鳴り声が降ってきた。
『いいかげんにしろよ、ぶっ殺すぞ!』
麻衣子と安藤、そして戸井田が顔を見合わせた。どうする。どう対応すればいい。
『さっきからガンガンガンガン電話ばっかり鳴らしやがって!』声が続いた。『頭がおかしくなっちまうじゃねえか!』
麻衣子が電話に手を伸ばしたが、一瞬早く戸井田刑事が子機を掴んでいた。
「どうするつもりだ」
安藤が小声で言った。
「戸井田刑事、電話を渡しなさい」さらに低い声で麻衣子が命じた。「あなたには犯人と交渉する資格はありません」
「経理課の警部さんに言われたくはありませんね」
胸の前で子機を抱えたまま、戸井田が歯を剥き出しにした。
「そう、わたしは警部です。巡査部長のあなたより二階級も上です。それで十分でしょう」
警察では階級は絶対だった。戸井田が周囲に目をやる。言われた通りにしろ、と安藤が囁いた。
『おい、聞いてんのかよ!』
怒鳴り声がした。麻衣子が手を伸ばしたが、戸井田は反射的に送話口に向かって叫んでいた。
「聞いてるぞ!」
目をつぶった麻衣子が天井を仰いだ。
『お前、誰だ』
不思議そうに声が尋ねた。
「品川署の刑事課巡査部長、戸井田だ。そっちも名乗ったらどうだ」
『所轄か。所轄の刑事なんかに用はねえよ』
覚めた口調で男が言った。
「待て、切るな。お前は自分が何をしているのかわかっているのか。病院は我々が完全に包囲している。そこから逃げることは絶対に不可能だ」
『お巡りがいっぱいいるのは、こっちからも見えるぜ。大騒ぎだな』
「誰のせいだと思ってる。お前たちがそんなところに立て籠もっているからだぞ。人質を解放してすぐに出てくるんだ。いつまでもそこにいても仕方がないことはわかっているだろう」
返事はなかった。強ばった表情で戸井田が呼びかける。
「そこにいるのは医者や看護婦だけじゃない。病人が大勢いるんだ。もし彼らに万一のことが起きたらいったいどうやって責任を取るつもりだ。たとえお前たちが直接危害を加えなくても、彼らの身に何かあったら、それはお前たちの責任になるんだ。わかるだろ、わかったらさっさとそこから出るんだ」
『うるせえよ』
からかうような口調で、バカ、と声が付け足した。
「ふざけるな。そんなことを言ってる場合じゃないぞ。もし患者が死にでもしたら、お前たちは殺人犯だ。いいか、今なら罪は軽い。おとなしく出てくるんだ。悪いようにはしない。どっちが得かよく考えてみろ」
また相手が黙り込んだ。不安そうに戸井田が辺りを見回す。目を伏せた安藤が指でテーブルに円を描いている。麻衣子は窓の外に目をやっているだけだった。子機を強く握り直して、戸井田がもう一度口を開いた。
「聞いているのか。いいか、もう一度言うぞ。病院は完全に包囲されている。完全にだ。お前たちに逃げ場はない。無駄な抵抗は止めて、そこから出てくるんだ。いつまでもこんなことを続けていてもどうにもなりはしない。わかるか、そこから素直に出てきて」
『今度電話してきてみろ』いきなり声が割り込んだ。『こいつらを殺す』
通話が切れた。子機を耳に当てたまま、もしもし、と戸井田が繰り返した。スピーカーからは断続的な信号音だけが流れている。
「切れました」
悔しそうに戸井田が子機を架台に叩きつける。スピーカーの音が途切れて、聞こえてくるのは病院の非常ベルの音だけになった。麻衣子が安藤に目配せして、図書館の隅に歩み寄った。
「いったいこれは」
言いかけた安藤に、麻衣子が蒼白になった顔を向けた。
「彼を二度と電話に出させないで下さい。いいですね」
「わかっています。わかっていますが、今のは突発的なことでして」
「わたしは理由を尋ねてはいません。要請しているだけです」
髪の毛が逆立っていないか、麻衣子はそっと手で確かめた。どうにもならないほどに腹が立っている。
「無駄な抵抗は止めておとなしく出てきなさいなんて、あさま山荘はもう三十年前の事件なんですよ。彼はわたしと同じ年だと思いましたけど、あんなアナクロなことを言うなんて」
信じられない、とつぶやいた麻衣子の前で、安藤が素手で額の汗を拭った。
「彼は、優秀な刑事なのですが」
部下を庇う安藤に、麻衣子はハンカチを渡した。
「だと思います。戸井田刑事のことはわたしも知っています。ただわかっていただきたいのは、立て籠もり事件は通常の事件捜査とは違うということです。逮捕に当たって自分の官職を名乗ることは脅しとしては有効かもしれませんが、こういう場合にはまったく逆効果なんです。そんな権力を振りかざすような発言は、犯人の反発を招くだけです」
追従笑いを浮かべる安藤の手からハンカチを取り返して麻衣子は続けた。
「犯人に対してお前呼ばわりというのもひどいですね。高圧的に出ても、犯人は決して納得しませんよ」
「いや、それは」
言い訳をしようとした安藤が一歩退いた。同じ距離だけ麻衣子が近づく。
「犯人説得に当たって、自尊心を傷つけてはならないというのは絶対の鉄則です。誰にでもプライドはあるんですよ、それを、お前だなんて」
「何しろ突然の電話だったもので」
薄くなっている安藤の頭が、雨にでも打たれたかのように濡れている。
「お互いに好意を抱くようにし向けなければならないのに、あれでは宣戦布告も同じです。いったい戸井田刑事は何がしたかったのでしょう。今すぐ撃ち合いでもしたかったのでしょうか」
最悪です、と麻衣子が腕を組んだ。声が高くなっていくのを押さえ切れない。
「彼がしたことは、交渉人マニュアルにある禁止事項の見本のような行為です。相手の状況が何もわかっていない今の段階では、少しでも犯人に喋らせて相手の情報を引き出さなければならないのに、彼がしたことはこちらの手の内を明かしただけです。しかも怒らせてしまった」
「それは、その」安藤が弁解する。「彼も説得をしようと」
「頭ごなしに怒鳴りつけることを、わたしたちは説得とは言いません。説得というのは、お互いが理解し合って、その上で成立するものです。それなのに」
麻衣子は口をつぐんだ。背中に捜査官たちの視線が感じられる。ここでどれだけ安藤警部補に怒りをぶつけても、得られる物は何もない。むしろ現場の反感を買うだけだ。
わたしも戸井田刑事と同じことをしている。落ち着いて、と麻衣子は自分自身に言い聞かせた。
わたしが怒っているのは、女だからという理由で戸井田刑事が命令を無視したこと、そしてその結果として、石田警視正に状況を悪化させたまま事件を引き継がせてしまう可能性が高くなったからだ。だが、それはまだ取り返すことが出来る。
「でも、もう済んでしまったことです」意志の力だけで麻衣子はぎこちない笑顔を作った。「それに不幸中の幸いですが、犯人は戸井田刑事に腹を立てたあまり、本来の要求を伝えられませんでした。必ずもう一度連絡してくるはずです。万全の準備をした上で、それを待ちましょう」
そうしましょう、と勢いよく安藤が返事をした。
「しかし、それにしても戸井田はそんなに間違ったことを言っていたのでしょうか。自分も、あんなふうに答えたと思うのですが」
「とにかく、彼は喋り過ぎです」テーブルに向かって歩きながら麻衣子が言った。「安藤警部補、優れた交渉人に欠かせない資質は何だと思いますか」
さあ、と安藤が首を捻った。
「わかりませんな。普通に考えれば説得する能力ということになるんでしょうか」
いつの間にか、教師に質問をする生徒のような口調になっている。
「ネゴシエーターにとって一番重要なことは、喋らないということなんです」
「そんな」安藤の足が止まった。「だって、話さなければ、説得もなにもあったものではないでしょう」
「自分は話さずに、相手の話を聞く。それがすべてだ、とわたしは教わりました」
石田は講義のたびにそれを繰り返していた。
「犯人には必ず訴えたいことがあるんです。金か、人の命か、恨みか、政治的、あるいは宗教的信念か、それとももっと実際的な逃走手段か、あるいはそれ以外の何か。とにかく犯人には伝えたい要求があるんです。まずそれを確認する。それが最も重要なポイントになります。そのためには犯人の話を徹底的に聞かなければならない。交渉上手というのは聞き上手のことなんだそうです」
なるほど、と安藤が相槌を打った。この人も意外と交渉上手だ、と麻衣子は微笑んだ。
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