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五輪ボイコット―幻のモスクワ、28年目の証言―
松瀬学

ソビエト連邦によるアフガニスタン軍事侵攻に抗議する目的から決定されたモスクワ五輪不参加。この日本スポーツ史上最悪の「敗北」に至る過程でいったい何が起こっていたのか。二十八年前の騒動の渦中にあった選手や関係者たちを訪ね歩き、その記憶と証言からスポーツと政治の関係をいまこそあらためて問い直すドキュメント。

ISBN:978-4-10-460003-8 発売日:2008/06/18


| 1,575円(定価) |
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五輪ボイコット―幻のモスクワ、28年目の証言―
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【無】高田裕司――「涙の抗議」の意味
高田裕司は泣いた。
左目の上の白く大きな絆創膏が痛々しい。モスクワ・オリンピックに参加できなかったら、今までの努力はなんだったのか。だれが責任をとってくれるのか……。そう漏らすと、レスリングの一九七六(昭和五十一)年モントリオール五輪金メダリストは左手で目頭を抑えた。
この有名なシーンはテレビのニュースで全国に流れ、少なくない人々の記憶に刻み付けられた。モスクワ五輪ボイコットによる選手の悲痛さを物語る映像として、このシーンは今でもオリンピックごとに放送されることになる。
二十八年前の涙の理由はなんだったのか。一九五四(昭和二十九)年生まれ。日本レスリング協会の専務理事となった高田は気恥ずかしそうに口を開いた。
「体力のぎりぎりのところで一生懸命にやっているやつがいるのに、なんで決起集会という“くだらないこと”をやらなくちゃいけないのか、と思った。僕らは死ぬほど苦しい思いをしているのに……。あのとき、じつはよれよれになっていた練習相手の後輩の姿がパッと浮かんだのです。それで泣いてしまって……。悔しさ、怒りというか、むなしさですか」
決起集会と映ったくだらないこととは、東京・岸記念体育会館で開かれた「緊急強化コーチ選手会議」のボイコット抗議のことだった。一九八〇(昭和五十五)年四月二十一日、月曜日のことである。
日本の政府や日本体育協会の意向により、日本オリンピック委員会(JOC)がモスクワ五輪ボイコットに傾きつつあるときだった。現場の監督、コーチの意見交換と情報交換の場ともなっていた競技力向上委員会の福山信義委員長らがこの動きに反発し、ボイコット抗議の場を演出したのだった。主役である選手自身が初めて公に参加を訴える会議となった。
当時、日本レスリングのエース、フリースタイル五十二キロ級の高田は日本体育大学を卒業し、研究員という立場で五輪連覇を目指していた。メンタル、体力、技術とも充実の二十六歳の時だった。一九七九(昭和五十四)年の世界選手権ではライバルたちを圧倒し、四度目の世界王者に就いてもいた。文句なく、モスクワ五輪で金メダルにもっとも近い選手の一人である。
その日、高田は一週間後の全日本選手権を控え、日体大の選手たちと東京・世田谷区の駒沢体育館で合宿中だった。スパーリングの相手が、自分と同じ階級から、四十八キロ級にひとつクラスを下げた後輩だった。絆創膏の傷は午前の練習で後輩の頭とぶつかってできたものだったのだ。
もう苦しい減量が始まっている。高田もだが、その後輩のほうがより体重を落とさないといけなかった。午前の練習。後輩はなんどもマットにもんどりうっていた。
減量中の選手はどうしても気分が苛立ってしまう。不安定となる。午前の練習が終わろうかというとき、高田はコーチに声をかけられた。「ちょっと午後、出かけるから、ついてこい」と。急いでシャワーを浴びると、ネクタイを締め、ブレザーを羽織った。
「僕は何も知らされていなかった。突然、“こい”と言われて、連れて行かれただけです。決起集会の内容はもちろん、打ち合わせや事前の話は何もなかった。体協について、びっくりしたんです」
コーチの車の助手席に乗り、岸記念体育会館に到着した。エレベーターで三階につくと、新聞記者が会議室の前にたむろしていた。たしか部屋は人いきれで息苦しかった。長机には他の競技のコーチや選手がついていた。空席を見つけ、自分も椅子に座る。
集まったのは、レスリングなど当該二十三競技団体のモスクワ五輪監督・コーチ予定者と選手の計九十一人だった。よく見れば、周辺には新聞記者やテレビカメラが並んでいた。
「いろんな選手が緊張して座っていました。異様な雰囲気でした」
午後一時、緊急強化コーチ選手会議がはじまる。議長役の柔道の佐藤宣践コーチが招集した理由を説明し、「モスクワに参加すべし」と提唱した。表向きは「静観」の構えを取りながらボイコットへ傾いてきたJOCに対する不満、いらだちが爆発する。
佐藤コーチの教え子である柔道の金メダル候補、山下泰裕(東海大学大学院)ら選手、コーチが次々と発言を促された。
「大平(正芳)首相がひとりごとのように言っている言葉で、JOCが不参加を考えるのはおかしい」
「モスクワに参加して青春をかけて戦うことこそ最も大事な国益ではないか」
「アメリカがボイコットしたからといって、日本が同調する理由がわからない」
「すべてをオリンピックにかけてきた選手の気持ちをくむべきだ」
「心が揺れ、練習に気合が入りません」
発言のたび、拍手が渦巻いた。自分には回ってこないと高をくくっていた高田も名前を呼ばれることになる。立って心情を吐露し、冒頭の涙の抗議となったのだ。
「オリンピックに出たいかと聞かれたら、出たいに決まっているじゃないですか。ただオリンピック参加を信じ、僕らは一生懸命やっていた。だから、ぱっと発言をふられたとき、なんでこんなことをしなくちゃいけないのだ、と思ったんです」
とくに印象的だった高田のシーンが夜の全国ネットのテレビニュースでも流された。反響は凄まじく、レスリングの日体大合宿所の電話は鳴りっぱなしとなる。のちに妻となる和歌山の彼女からも電話が入った。「あなた、何泣いてんの」と。
時代だろうか。当時は男性選手が泣くのは、男らしくないと批判の対象ともなった。見ず知らずの人から掛かってきた合宿所の電話に高田は生真面目に対応する。
「電話は励ましと批判が半々でした。ものすごい批判もきました。その時は、わかってください、もしあなたがずっと一生懸命やっていて、オリンピックにいけなくなったら、どうするんですか、と言い訳をしました」
男らしくないという批判の電話は日本レスリング協会の事務局にも殺到した。中傷の手紙も届く。渋谷の街を歩けば、冷笑をぶつけられもした。
「泣いたということだけで、つらい目にあいました。街を歩くのも嫌だし、練習にいくのも嫌になりました」
当時のフリースタイル代表コーチだった福田富昭は高田をかばった。あれはオリンピックに勝ちにいった者だけが流すことができる「本物の涙」なのだ、と。
「二大会連続の金メダルを目指し、血ヘドを吐くような練習を俺は知っていた。突然、目標を奪われようとしていた。高田の涙は本当にやったヤツだけが流し、本物の人間だけが理解できるものなのだった」

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