| 娘はがらんとした現代風な事務所に「私」をつれていき、雨合羽、長靴、ゴーグルをわたし、大きな洋服だんすの内部にある黒い穴へ案内し、最後に懐中電灯をわたす。穴からは川がごうごう流れる音が聞こえる。娘が出す無音の指示に従って、「私」は暗闇のなかで長い梯子を降り、川岸を歩きだす。川の先には滝があり、滝の裏には娘の祖父の研究室があるはずだ。これがすべて東京のど真ん中のことなのだ! 途中、娘の祖父が突然迎えに現われる。彼は互いの声が聞こえるよう特殊な方法で川音を「小さく」してから、都市の地下(しかも皇居の真下)に住む「やみくろ」の危険性について語る。やみくろは自分たちの領域にたまに迷い込んでくる人間の肉をむさぼり食うという。 「博士」と呼ばれるこの祖父がこの危険地帯に研究室を設けているのは、研究を狙う計算士と記号士を寄せつけないためだった。また、博士は付近の音を制御することでやみくろたちを遠ざけていたのだ。(博士は以前行なった実験で孫娘の声を「音抜き」したままうっかり放置していたことに気づいて、「私」が仕事をしているあいだに治しにいく。)「私」は計算士である。かつては博士も味方の一人で、計算士たちの「組織」において「私」よりもずっと有名な人物だった。規則に違反し、資格を奪われた「計算士」の多くは、敵方の記号士と「工場」に引き抜かれていくが、博士は際限なくつづく情報戦争の真只中にいながら、どちらとも提携していない。 「私」は計算士としての能力を買われて、博士に雇われていた。計算士の脳は、複雑な計算を果たすべく人為的に分けられている。少なくともいまのところは、脳はコンピュータと違って、電子的な傍受ができないため、防衛目的でそのようにされているのだ。無情な記号士たちは、かつて計算士を五人誘拐し、頭蓋骨のてっぺんをのこぎりで削ぎ、脳からじかにデータを読み取ろうとしたこともあったが、失敗に終わった。「私」のアイデンティティのサイバーパンクな一面は、ウィリアム・ギブソン(一九四八―)が一九八一年に発表した短篇小説「記憶屋ジョニー」(“Johnny Mnemonic”)のある要素と酷似しているが、それは参考にしていない、と村上は言う。 「私」の世界は「僕」の世界と好対照をなす。「私」の世界は、言葉と音の世界である。「僕」の世界は、イメージと唄からなるが、その大半は忘れられてしまい意義もほぼ失われている。(二つの世界のあいだのバリアが壊れはじめると、「私」は既視感を覚え、イメージと唄が甦る。)饒舌な「私」は絶えず冗談を飛ばし、頭のなかですら冗談を言う。作品冒頭に登場するエレベーターは大きすぎて、「ラクダを三頭と中型のやしの木を一本入れることだってできるかもしれない」。「私」はかなり「ハードボイルド」なタイプで、冷笑的ユーモアによって世界との距離を保つ。かたや「僕」は幻想にふけり、「私」のように物事を遠ざける辛辣さなど持ち合わせていない。かすかにしか思い出せない過去からの振動を感じ、詩人のような世界の見方をする(「そこから降りかかってくる黄色い電灯の光の粒子が膨んだり縮んだりしているように見えた」)。 二つの世界には異なった時間が流れている。「私」に関しては、九月二十八日から十月三日まできっかり五日間の行動が、ほぼ毎時間報告される。「僕」にとって時は、秋から真冬への季節の移ろいの中で刻まれていく。二つの時間は最後のクレッシェンドへ無情に進む。「僕」は音楽と温情を再び見出す。かたや「私」はポップ・カルチャーとハイ・カルチャーの断片が混然となって奏でるラプソディーのなかで、現実世界とのつながりを最後まで追い求め、やがてボブ・ディランの歌が流れる車のなかで深い眠りにつく。 「僕」が語る「世界の終り」の舞台は、壁で囲まれた中世風の街のように見えるが、そこにはもう使われていない工場、電灯、時代遅れの軍人たちと人気のない兵舎などがあり、むしろ核使用後(あるいは戦後)の世界が示唆されているようだ。過去を思い出させるものはすべて荒廃し、過去を思い出すことはかなわぬ世界である。塔の時計は、十時三十五分を指したままだ(街のほかの時計はちゃんと作動している)。街を囲む壁は長大で、高さは「七メートルか八メートル」、「そこを越すことのできるのは鳥だけだった」。この街全体が事実上、精妙にできた無意識の井戸なのだ。『1973年のピンボール』ではこう語られていた。「僕たちの心には幾つもの井戸が掘られている。そしてその井戸の上を鳥がよぎる」。意識の世界と無意識の世界とのあいだを自由に往来できるのは鳥だけだ。鳥たちは、村上が関心を寄せるあらゆる心理現象(既視感、うろ覚えのイメージ、一瞬よみがえる記憶、そして逆に突然記憶を失うこと)の象徴として機能する。村上が用意した街の地図は、形が脳に似ている。(架空の街のレイアウトを覚えておくために、執筆中に描いたと村上は言う。) 「世界の終り」では一角獣の群れが、昼は街を囲む壁の内側で過ごし、夜になると門番が街の外へ連れ出していく。門番は住人たちに圧倒的な力を持っているらしい。(一角獣たちの出所については、前述「貧乏な叔母さんの話」論を参照。)よそ者の「僕」が街に着いたとき、門番(たいてい刃物を研いでいる)は足もとから影を切り落とすと言って譲らなかった。だが影の面倒は見てやる、ときどき会わせてもやろうと「僕」に約束する。影を失うことは、個人として考えたり感じたりすることを可能にするすべてを失う前兆だ。自分と離れていては、来る冬を影が生き延びることができないことを「僕」が知るのはそのあとのことだった。 影のこと、そして忘却ということに関して、「僕」に教えてくれるのは、主に退役軍人の「大佐」である。このことは意味深長だ。スティーブン・スナイダーはこう論じている。「壁に囲まれ、記憶喪失に襲われたこの街は、過去と折り合いをつけることをためらい、みずからの将来に向けてグローバルな役割を積極的に定義しようとしない日本の隠喩である(ふだん考えられている以上に村上の政治意識が高いとする読み方だが)」。少なくとも過去に関しては、大佐の役割はこれを裏づけているようだし、日本を囲む「壁」に苛立つ人はまだ多い。「影と別れる、影を死なせるというのは辛いものだ」と大佐は「僕」に言う。「辛さというのはみんな同じさ。私の場合だってそうだった。それも何も知らない子供のうちにひきはがされて、つきあいのないままに影を死なせてしまうならともかく、年をとってからだとこたえるもんだよ。私が影を死なせたのは六十五の年だものな。その年になればいろいろと思い出もある」。 大佐は「僕」に、森には近づかないよう警告する。ここには戦前の保守的な日本人が外来の「危険思想」に抱いていた恐怖心の残響を読みとることができるかもしれない。森には心と記憶をまだ完全には手放していない少数の人々が住んでいるからだ。「我々と彼らとはまったくべつの種類の存在なのだ」と大佐は言う。「彼らは危険だ。おそらく彼らは君に何らかの悪い影響を及ぼすだろう」。壁そのものも「僕」にとって危険をはらむ存在だ、と大佐は警告する。壁は、獰猛な執拗さで全員を囲むだけでなく、「ここで起っていることを何ひとつとして見過さない」。独立行動をとるおそれがある者はいないかと、日本社会のごとく警戒しているのだ。 「僕」を記憶から永久に引き離したい一念の門番は徐々に悪意ある人物となっていく。「僕」は住人が影を持つことを禁じるこの街に住むことを決めてしまったあとで、自分もほかの誰も街から出ることは永遠に許されないことを知る。「僕」が自分の影とこっそり話した折に、影は街を偵察して詳細な地図を描けといい、壁と、川の入口などをとくに詳しく調べるようにと言う。(これが作品に付された脳の形をした地図となる。)「僕」が街に来たとき、門番は「僕」に「夢読み」という職を与え、「僕」の眼球に痛みは与えることなく切りこみを入れて、「夢読み」の印をつける。このため「僕」は光に敏感となる。晴れた日は室内にこもり、夢読みは街の「図書館」で夜間に行なわなければならない。 この街の「古い夢」は、街が保管している膨大な数の一角獣の頭骨に内包されていて、「僕」が頭骨に触れるとあざやかな断片の映像が浮かび上がる。それが何を意味するのか「僕」にはわからない。「僕」も、やがて情欲抜きで「僕」が恋愛関係となる女性司書も、「僕」がなぜこの任務を遂行しなければならないかは知らない。だが、「僕」はやがて自分が大気に放っているものの正体を悟る。それは情熱的な思いを可能にする、つまり他者および世界そのものに対する思いを可能にする、個性と記憶という特質にほかならないのだ、と。 永久の生命を得る代償として、街の住人たちは心を犠牲にしなければならない。これが救済に到る唯一の道なのだ。番人は「僕」に向かって、壁の「完全」さを誇り、次のように語る。
門番の統治下に生きる街の人々は、互いに対しても世界に対してもごく淡い思いしか持っていない。「僕」が愛する若い司書は、何年も前に、彼女が十七歳のときに影が死んだため、「僕」の愛情に応えられないし、「僕」に対して深い思いを抱く心も、もはやない(ピンクの服を着た太った娘も十七歳である。彼女は外の世界における司書の「影」かもしれない)。そのことで司書は「救われた」者たちの一員となるのだ。『1973年のピンボール』において「僕」は、「もう何も欲しがるまい」とすることが平穏へ到る唯一の道だと結論づけたが、それと似ているともいえよう。 ここでは「僕」は司書に次のように訊ねる。
これはいわば、「イパネマ娘」の物語で言及されていた「すきま」の徹底的な探究だ。そこにはこう書かれていた。「〔意識の〕どこかにきっと僕と僕自身をつなぐ結び目だってあるはずなのだ。きっといつか、僕は遠い世界にある奇妙な場所で僕自身に出会うだろう、という気がする。〔中略〕そこでは僕は僕自身であり、僕自身は僕である。主体は客体であり、客体は主体である。そのふたつのあいだにはどのような種類のすきまもない。ぴたっと見事にくっついている。そういう奇妙な場所がきっと世界のどこかにあるはずなのだ」。 街の人々が深い思いを欠いている一番のしるしは、音楽を楽しむことができなくなっている点だ。実際、街のなかの隔絶された一帯に、弾き方もわからない古楽器がおかしな器具として保管されている一室があるほどだ。司書は母親がよく奇妙な「話し方」をしていたことをおぼろげに思い出して語る。
冬の雪が深まるにつれて(またしても『1973年のピンボール』における鶏倉庫の冷ややかさだ)、「僕」はある唄を思い出そうとがんばり、ついに「指で押さえるボタン」がついた「革の蛇腹のついた箱」から音楽をなんとか引き出す。
街が自分自身だと気づいたとき「僕」ははじめて、街に対する自分の「責任」を悟る。こうなると、影とともに「現実」世界に逃亡するという計画は混乱せざるを得なくなる。二つの世界(一方は現実にある世界だが死の淵にあり、もう一方には時は流れず魂も失われている)の引っ張り合いは最後まで読者をはらはらさせる。「僕」が採る選択肢は、この二つの世界のはざまに生きる芸術家だけが選ぶことのできるものなのかもしれない。 (『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を未読の読者のために、この要旨では要所をわざとぼかして紹介した。これはとにかく稀有な楽しみを与えてくれる作品なのだ。) |