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コンゴ・ジャーニー 上
レドモンド・オハンロン、土屋政雄/訳

コンゴ川上流の湖に恐竜が棲息しているというピグミーの言い伝えに誘われて、英国人旅行記作家が全財産をなげうつ旅に出た。アメリカ人動物行動学者とコンゴ人生物学者を道連れに、賄賂を毟られても、下痢や呪術で死ぬ目にあっても、奥地へ、奥地へ――。カズオ・イシグロをして「とんでもない傑作」と言わしめた大旅行記!

ISBN:978-4-10-505851-7 発売日:2008/04/30

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コンゴ・ジャーニー 上



  1 ブラザビルの女占い師


 ここはブラザビルの貧民区ポトポト。小屋の中で、女占い師は私たちに笑いかけると、床に両膝を突き、腰の布袋からタカラガイをひとつかみ取り出して、ラフィアヤシで編まれたマットの上に撒いた。
 ラリー・シャファーと私は木の腰掛けにすわったまま、思わず身を乗り出し、無意味に散らばる貝殻に目をこらした。石油ランプの光に照らされ、貝殻には古い象牙の光沢がある。ずいぶん手に取られてきたものとわかる。
 占い師の顔から笑みが消えた。「あんたらのどっちか……」とゆっくりしたフランス語で言った。「いま病気だね。とても重い」
 屋根の波状トタン板に打ちつける雨の音が、急に激しくなったような気がした。部屋はシンダーブロック造り。石炭殻を混ぜた軽量コンクリートブロックでできている。中にあるものは、洗濯物を入れた赤いプラスチックのバケツと、粗末なダブルベッドと、その上に梁から吊るされた蚊帳。どれも私たちをじっとにらんでいるように思えた。ばかな、気のせいだ。コンゴ入りしてほんの二日。まだこの土地に慣れていないから……。そう自分に言い聞かせたとたん、暑さと湿気の堪えがたさが二倍になった。
 ラリーはじっと床を見つめたまま、額と鼻から汗の粒をぬぐった。手が震えていた。「おれの……ほうだ」と、つっかえながら言った。「病気なのはおれだ。多発性硬化症。九年前は車椅子の生活だった。だが、自分に鞭打って歩いたよ。今日は一メートル、明日は二メートル。視力も戻った。去年は自転車でアメリカを西から東へ横断した。西海岸から東海岸まで三十三日間。だから、もう大丈夫」
「車椅子って、おい……」私はうろたえて言った。
「日に四十五分泳ぐ。距離にして二キロ。動ける体だよ、大丈夫。見てわかるだろ? それにだ、コーニーリア通りのわが家で一夏中ペンキを剥がしながら過ごすより、アフリカで死んだほうがどれだけましか。心配ない。問題ない。心配はまったくいらない」
「ちょっと静かに」と占い師が割って入った。髪を真後ろに放るように一瞬ぐいと仰向き、掌を目に押し当てた。「ぺちゃくちゃしゃべられたら、見えるものも見えやしない。見えなかったら、助けてやりようがないよ」そして目を開け、手を伸ばして貝殻を掻き集めると、私たちに三個ずつ渡した。「これを取りなさい。お札に包んで、願い事を吹き込みなさい」
 私は、あいているほうの手で、ズボンのポケットから一千CFAフラン(約二ポンド)紙幣を二枚抜き出した。ラリーに一枚渡し、もう一枚を自分のすぼめた掌にかぶせて、貝殻を包み込んだ。
「さて、責任者は誰」と占い師が言った。
「私です」胸を張って答えた。
「じゃ、ほんとうの望みを話して。心が静まったとき、あんたが一番ほしいものは何。それ以外はいらないよ。奥さん用にでっち上げた嘘はいらない」
「遠い北の森を抜け、大いなる旅に出ることです」われながら耳に快い響きだった。「丸木舟でモタバ川をさかのぼり、水源に着いたら舟を捨て、湿地ジャングルを東に歩いて、分水嶺を越えます。イベンガ川に出て、そこでまたカヌーが見つかるかどうかは賭けですが、運よく見つかったら、リクーアラ・オゼルブ川まで漕ぎ下り、隠された湖、コンゴの恐竜モケレ・ムベンベが棲むというテレ湖まで歩きます」
「だめ、だめ、だめ」占い師は歌うように言った。
「なぜ。軍の許可が得られませんか。ブラザビルから出られないんでしょうか」
「無学な男だね」占い師はそう言って、いらいらと手を動かした。握られた貝殻が、箱の中を転がるサイコロのようにかちかち鳴った。「心の望みを話してないね。頭で考えたことじゃないか。わたしにわからないと思うのかい」
 そして貝殻と札をひったくり、マットに強く投げつけた。札がプラタナスの実のように転がった。
 占い師は軽蔑の表情を浮かべたままその散りぐあいを見て、「子供たちには好かれているね」と言った。「奥さんにも好かれてはいる」
 料金を倍払おう、と私は思った。
「二ヶ月だけなら、森の霊は害をしない」そう言いながら、占い師はもうラリーのほうに向きかけていた。「でも、二ヶ月を一日でも過ぎたら、あんた死ぬよ」
「そんな……私は六ヶ月滞在するんです」
「じゃあ死ぬ」占い師は取り合わず、えこひいき丸出しでさっさとラリーに向き直ると、目を閉じた。
 ラリーは貝殻と一千CFAフラン紙幣を作法どおり持ち、頭を垂れた。汗が一滴、鼻の先から床に落ちた。唇が動いていた。
 ラリーの無意識がいまこの部屋の何かと格闘している……。ふとそんなことを思い、不安になった。ラリーの人生にはこれまで三度の節目があった。そのたびに一軒ずつ、自分の手で家を建てることで乗り越えてきた。アメリカ辺境開拓者の典型だ。ニューヨーク州立大学プラッツバーグ校の心理学教授。理性の塊。なのに、この科学者らしからぬ反応は何だろう。あのノーベル賞学者、オックスフォード大学ニコ・ティンベルヘンのために写真撮影を担当した男。動物行動学の専門家。ニシセグロカモメによるカニの捕食で博士論文を書いた男。その男が、この瞬間、科学的世界観を放棄している……ように見えた。理性の塊? 私の勝手な思い込みだったのだろうか。一緒に大学に行ったのは、もう二十年も前のことだ。以来、一度も会っていないのでは、客観的には赤の他人も同然。ラリーという人間がわかっていなかったのか。いやいや、そんなことはない、と私は慌てて打ち消した。暑さと不安と大量のウイスキーのせいだ。そのせいで、この二日間にアフリカにちょっとあたった。それだけのことだ。
 占い師はラリーから貝殻と札を受け取った。札を丁寧にわきに置き、貝殻を自分の手の貝殻に混ぜた。スナップをきかせた柔らかな手首の一捻り。マット上に転がる貝殻のパターンをじっと見つめながら、置き去りにされた子供のように体を前後に揺すりはじめた。
「あんたは考えることが多すぎ」そう言う占い師の声は尻上がりに高くなり、やがて耳障りなほどの甲高さになった。「心配事が多すぎて、一人では担いきれない。あっちの奥さんに、こっちの奥さん。問題だね。大きな問題だ。あんたの人生は挫折の連続だけど、そのたびに立ち直り、また歩いてきた」
 ラリーが目を大きく見開いた。「そのとおりだ」と言った。「まず母が死んで、次に父。自分が病気になって、夫婦関係が崩壊。妻は出ていき、いま、カリフォルニアでアフリカ系の男と暮らしている。それに、レドモンドと合流する直前、ニューヨークからロンドンへ飛ぶ日の前夜に、どこかの誰かから電話があった。電話の声が、ハロー、パパ、と言った。娘です。今日は二十一歳の誕生日で、やっとパパへの電話を許されました……。娘がいるなんて知らなかったよ。一度も会ったことがない。おれのただ一人の子。なのに、一緒に遊んだこともない。育つところも見ていない。二十一年前、ガールフレンドと喧嘩した。酷いことを言い合って別れた。おれはオックスフォードに行って、それきりだ。腹に子供がいるなんて、一言も聞いていなかった」
 三人は黙って床を見つめていた。タカラガイが一個、カメの甲羅に似た背を下にして私のブーツの横に転がり、腹側の細長い開口部をあっけらかんと見せていた。そりゃそうだ、と私はぼんやり思った。なぜこれを女の首に掛けておけば妊娠しやすくなり、安産のお守りになると思われたのか、子安貝と呼ばれるのか、一目瞭然だ。それにしても、この貝はどうやってコンゴくんだりまで来たのだろう。正真正銘のタカラガイ。インド洋はモルジブ諸島で採れたCypraea moneta。たぶん十三世紀、ダウ船でエジプトに運ばれ、アラブ商人の手から手へ渡りながらアフリカ北海岸を移動し、ラクダの背の鞍嚢に入ってサハラ砂漠を南下した。小さな王国をいくつも経て、ようやく中央アフリカにたどり着いた。いや、それともヨーロッパの奴隷船だったろうか。頭の中で数字が蚊のように飛び回りはじめた。一五二〇年、ポルトガル人は奴隷一人につき六千三百七十個のタカラガイを払った。「ロクセンサンビャクナナジュウ」と蚊が羽音を立てた。「ロクセンサンビャクナナジュウ、ロクセンサンビャクナナジュウ……」
 ラリーが激しく両手を突き上げ、その手で頭を抱えた。頭皮を剥ごうとしているように見えた。驚いたヤモリが横の壁を素早く走り、また止まった。足の指がツタの巻きひげのように細かった。ラリーは顔をしかめ、苦く笑った。「なのに、いま、おれはこのくそいまいましいコンゴなんかにいる」
 占い師は貝殻と二枚の札を拾い、袋に戻すと立ち上がった。私たちも立ち上がった。「あんたは勇気があるよ」占い師はラリーにそう言って、プラスチックの短冊でできたカーテンを左右に分けた。外の部屋とはこのカーテンで仕切られている。「あんたは自力で強くなった。勇気があるね。立派な男だ」そして、ラリーの腕に触れ、微笑みかけた。一瞬、疲れた目がぱっと輝き、占い師が若い娘に変身した。

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