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われらが歌う時 上
リチャード・パワーズ、高吉一郎/訳
あまりに美しい歌声は、時をも凍りつかせた――。ユダヤ人物理学者と黒人歌手が恋をする。子どもは3人。天才声楽家の長兄、凡庸なピアニストの弟、音楽に天賦の才を持ちながらも尖鋭的な活動家となってゆく妹。音楽は、時間は、家族を再びつなぐ絆となれるのか。現代世界文学の最重要作家が紡ぐ聖家族の物語、瞠目の最大作。
ISBN:
978-4-10-505871-5
発売日:
2008/07/31
3,360
円(定価)
われらが歌う時 上
一九六一年十二月
どこか、空っぽの音楽堂で兄が歌っている。まだ声は湿り切ってはいない。これまで兄が歌ってきた部屋の壁にはいまだに彼の声の反響が彫り込まれている。特別な蓄音機が発明され、その反響を再生する日を待ち続けている。
兄はピアノに寄りかかるようにして微動だにせず立っている。ジョナはまだ二十歳になったばかりだ。六〇年代が今まさに始まろうとしているが、アメリカはいまだに無垢な振りをして居眠りを続けている。私の家族、というか、私の家族の中でまだ生きている者たちを除けば、兄が歌うのを聴いた者はまだ一人もいない。今、私たちはノースキャロライナ州ダーラムにいる。デューク大学の古い音楽堂だ。兄は全国的な声楽コンクールの本選まで勝ち残ってきた。のちに、そのような大会に出場した覚えなどないと兄は否定することになるのだが。ジョナは、舞台の中央からわずかに右寄りのところに、一人で立っている。堂々と立っている。少し横に体をかしげながらも、まっすぐ立っている。唯一の安全地帯、グランドピアノのくぼみに身をもたせている。言葉数の少ないチェロの海老尾のように上体を丸めながら前に乗り出していく。ピアノの縁に左手を軽く載せてバランスをとりながら、お椀の形に丸められた右掌を差し出していく。行方不明だった手紙を渡そうとしているかのようだ。自分がここまで勝ち残ってきたということが信じられないとでも言うようににやりと笑うと、深々と息を吸い込んで歌い始める。
魔王が兄の肩にとまり、耳元で至福の死をささやいている。と思ったとたん、跳ね上げ戸が空中でばたんと開き、兄は姿をくらます。彼が引き出そうとしているのはよりによってダウランド〔ジョン・ダウランド 一五六三―一六二六 イギリスの作曲家〕だ。ドイツ歌曲(リート)を聴きに来た聴衆たちに対する魅惑的で生意気な挑戦。頭上に降り掛かってくる網を理解することができず、皆呆然としている。
時間が凝視したまま静止する。
時間が凍り、凝視し、秒が、分が、時が、年月が経過し、自分の居場所を見つける。
何もかも変化するが、時間だけは変わらない。
天空が己の航路を変更し、時間が彼の名前を失ってしまうまで
連(スタンザ)が二つ。それで歌もおしまい。沈黙が会場にたれ込め、地平線を横切る風船のように客席の上空を漂っていく。強拍二つ分の間、息をつくことさえ許されない。と、そこで、これほど予期せぬ出来事に耐えるには、拍手喝采で厄介払いをしてしまうのが一番だということに皆が気づく。やかましい感謝の拍手で、再び時間が流れ始める。矢は的に向かって再び飛んでいき、兄は自分の息の根を止めることになるものどもへ向かって飛んでいく。
兄のことを思うたびにいつもこの光景が甦る。兄はその後さらに三十年以上生きることになるのだが。あの夜、世界は初めて兄を発見した。そして、兄の声の終着点がどこにあるのかが初めて分かったのもあの夜のことだった。私も舞台に上がり、くたびれてキャラメルのようにアクションが柔らかいスタインウェイを弾く。兄の伴奏を勤める。兄に遅れないようにと必死なのだ。「指を休めよ、鍵盤の珊瑚礁に小舟を休めて、安らかに死ね」とかどわかしてくるセイレーンの虜にならないよう気をつけながら。
ドジを踏むことはなかったが、音楽家として最高の演奏を披露できた夜というわけでもない。コンサートの後、私は再び兄に暇乞いをする。兄の歌唱力に見合ったピアニストを探してくれと頼む。そして、兄はまたもこちらの要求を拒む。「ピアニストは間に合ってるよ、ジョーイ」
私は兄とともに舞台上にいる。だが、同時に、私は客席にもいる。いつも座っている場所。前から八列目。左の通路から少し中央に入ったところだ。私は自分の指使いがよく見え、なおかつ兄の顔がよく見える地点に腰を下ろす。近すぎず遠すぎず。何もかもはっきり見えるが、かといってそれを見て死んでしまうほどの至近距離というわけでもない。
場打てして私たちは麻痺してしまうはずではないか。舞台裏はまさに出血中の潰瘍顔負けだ。この瞬間のために青春時代を犠牲にして特訓に特訓を重ねてきた歌い手たちが、なぜ計画通りに行かなかったのだろうかと考えながら余生を過ごす準備を始めている。会場には毒気と嫉妬が渦巻き、家族たちが見守るなか、一家の誇りが次点の地位に墜落していく。兄のみが恐れるということを知らない。すでに代償は支払っているのだ。このコンクールは音楽とは何の関係もない。音楽とはあの、ともにハーモニーをつけて歌った幼年期、家族の殻が割れて燃え尽きてしまう前、その殻に守られたまま一緒に歌ったあの年月を意味する。ジョナは緊張している参加者たちや上流階級の子弟が吐き気にえずいている控え室を、雲に乗っているかのようにすり抜けていく。まるで、すでに公演中止が決定しているショーのために最終リハーサルをしているような落ち着きぶりだ。舞台に上がる。この打ち寄せる恐慌状態の大洋を背景にして仁王立ちした兄の姿に場内が静まり返る。ピアノの黒いエナメルにそっと載せられた兄の手に聴衆が魅了される。まだ声を発してもいないが、すでにこの手に歌声の精髄が込められているのだ。
兄が公衆の面前で初めて勝利を手に入れたあの夜のことを、私は四十年後から振り返って物思いにふける。
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