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ホノルルの静かな交差点のど真ん中に、新品の女物の靴がひとつ転がっているのをわたしは見た。革のダイヤモンドのごとく輝いていた茶色の靴だ。その靴が自動車事故の痕跡を意味する残片のひとつであるとか、そこをパレードが通っていったというような証拠はなかったから、それがそこに転がっていることを説明するような、瞭然たる理由は想像できなかった。その靴にまつわる事情が知られることは決してないだろう。
靴には相棒がいなかったことはもういっただろうか、いや、もちろんいってない。その靴はひとりぼっちで、孤独で、なんだか気味が悪いくらいだった。片方だけの靴を見つけ、もう片方がそのあたりにないと、ひとはなぜ落ち着きを失うのか。そして探す。もう片方はどこへいっちまった? このあたりのどこかに、きっとある。
かくのごとき幸先よい話から、ある人物の旅についてわたしは語りはじめる。語る方法はとめどない日録が描く地図とでも形容したらいいかな。皮切りはずっと昔にあったことを書いているかと思わせるが、物理的な時間でいえば、実のところ旅がはじまってから、たったの二、三ヶ月しかたっていない。
わたしは九月の末にモンタナを発って、二週間サンフランシスコに滞在してから、つぎに東部のニューヨーク州バファローへ行って講演をして、そのあとはカナダに一週間いた。それからサンフランシスコに戻り三週間滞在したはいいが、逼迫した経済状態が原因で、やむなく湾を渡りバークレーにうつった。
バークレーには三週間いたが、それから二、三日アラスカのケチカンへ行き、そのあとは北のアンカレッジへ飛んで一泊した。翌朝、とても早く、アンカレッジの雪をあとにして、ハワイのホノルル(ここではこんなふうに日録地図を描くのを勘弁してほしい)へ飛び、そこで一月すごしたが、滞在期間のなかほどに、二日間マウイ島へ行った。それからホノルルへ戻ったときに、わたしの旅は終わった。そして、目下住んでいるバークレーに帰ってきた。二月の中旬には、シカゴへ行くことになっている。
これで現在、暦の日を追って描かれる地図のどの位置にわれわれがいるか、おおかたはわかったから、旅の話を続けるが、ここにくるまで、もうこれほど時間がかかったのに、話はちっとも進んでいない。そのうえここで、また最初に戻るというわけだからひどい。ホノルルの交差点に転がっていた女物の靴に、そしてアメリカを西へ東へと、北へ南へとさまよい、カナダにもちょっと寄ったひとりの男の二、三ヶ月の旅に、どのような重要性があるのか。この点を怪訝に思うのは当然だ。
願わくば、まもなく、もう少しおもしろいことが起こりますように。
そうなれば、いいな。
こんなふうに始めればいいだろうか――彼女が首を吊ったのはどの部屋だったか、わたしは知りたくない。ある日、それを知っていただれかが話そうとしたが、知りたくない、とわたしはいった。ありがたいことに、かれらはそれについてはもうなにもいわなかった。その話は結末まで語られぬまま、あの家のキッチンのテーブルに置きざりにされた。
夕食をとっている最中のことで、そんなときに彼女の自殺が一役かうのがわたしはいやだった。なにを食べていたか思いだせないが、いずれにせよひとりの不運な女の死がそこに出されていた料理の味をいっそう生かすスパイスになることはありえなかった。
だってそうじゃないか、マーケットのスパイスの棚へ行って、オレガノやバジリコやコリアンダーやディルやガーリック・パウダーにまざって、「縊死」とラベルに印刷されたスパイスの小瓶を発見することを望む者はいない。そのラベルにはいかなる料理も台無しにしてしまうこと請けあいの、身の毛もよだつような結果を招く材料や、説明が記されているだろう。
調理中のレシピに「縊死」を加えることはまっぴらだし、よその家で夕食を食べていて、珍しい味の料理を出され、この味はなにかと料理をつくった主人にたずねてみたら、「ああ、新しいスパイスをためしてみたの。おいしい?」とあっさり告げられるなんてのはいただけない。
「たしかに珍しい味だ。わたしには見当がつかない。なんていう名だい?」
「縊死」
わたしはいま自殺した女性について話している。これは本の冒頭としては、ホノルルの交差点に転がっていた靴についてあれこれ書くよりは、まだましなやりかただろう。そのおかげで、わたしはこの旅の物語の第四、五、六段落で大ざっぱに記述した、物理的なできごとの日録地図のなかをさまよう自由の可能性を感じとる。
きょうはわたしの誕生日。
過去にはパーティがあって、そこに愛する者たちや友人たちの姿があったことをぼんやりと記憶しているが、きょうはそんなことになる見込みは微塵もない。わたしは自分の感傷からとても遠くへだたったところにいる、そこから追放されているとさえいえる。それに、いずれにしても、わたしには手も足も出ない。たったひとつ、ふたたび四十六歳になることはないと諒解しているだけだ。
もしわたしが聖パトリック祭りの日に、オーストラリアだってまるで玉突き台みたいに被うことができるほどの膨大な量のグリーンで身をかため、酔っ払っては歌をうたうアイルランド人だったとしても、だれも心を動かされはしないだろう。
もし、かりに、これまでに会ったこともなく、またふたたび会うこともない、バークレーからサンフランシスコへむかう朝の電車の乗客に向かって、きょうはわたしの誕生日なんですよ、と告げたところで、それは分別ある行動とはいえないだろう。
もし、頭上の水中で魚が泳いでいる、サンフランシスコ湾のトンネルを走る電車に乗っている途中で、隣の座席にこしかけている見ず知らずの他人に、「きょうはわたしの誕生日です。四十七歳になりましたよ」といったとしたら、そこらにいたみんなをひどくいらいらさせただろう。
まずみんなは、こいつは独り言をいってる、と考えるふりをしただろう。直接話しかけられるより、相手が独り言をいってると想像するほうがずっと楽だから。直接話しかけられてしまったら最後、無視するにはさらに不愉快な努力をしなければならないからな。
わたしがもっとねばりづよく、その日はわたしのいわゆる個人的祝日、つまり誕生日だということを人びとは知るべきであるという考えをあくまでもすてずに、独り言ではなく、あたりの見知らぬあんたたちにいっているのだぞ、とあからさまにわからせるように、「きょうはわたしの誕生日だ。四十七歳になった」ともう一度いってみたら、どんな結果になっていただろうか。
状況はさらに悪化し、不吉なおぞましさが人びとの心をみたしたことだろう。
そうなったら、次はどうする?
すでに一度わたしが「きょうはわたしの誕生日だ。四十七歳になった」といって、みんなが気まずい思いをし嫌気がさしていたところへ、ふたたび同じ言葉をくりかえしたとしたら? ひとり残らず、こいつはどんなことをしでかすかわかったものじゃないぞ、と諒解しただろう。
まず体に巻きつけた二十本のダイナマイトを見せよう、それから電車をハイジャックして、水瓶座の聖域にして動力室であるという、わたしの星座天王星へ全員を連行しろと要求してみようかな?
パニックにおちいる乗客もいるかもしれない。かれらには新聞の見出しがありありと見えるほどだ――「誕生日を祝う男、電車を乗っ取る」。
ほかの乗客たちは、なんでもいいからとにかく時間どおりに目的地に着けるかどうかしか頭にない。いつだって、実際的な連中がいる。かれらは優先すべきことはなにかを見きわめたら、もうそれ以外のことは期待しない。
いうまでもないが、車中のわたしは無言だった。よい乗客だった。口を閉ざしたままいて、予定の駅でおりた。もう四十六歳になることはない、それだけはわかっている。
一九八二年一月三十日 つづく
十月のカナダへの旅では、なんのいいこともなかった。あのときは世界中のどこへいってもよかったが、カナダへだけは行くべきではなかった。ただの思いつきで行ったのだから。そもそもわたしは旅はとても苦手だ。ちっとも得意ではないのにやたらに旅をするのは、ちょっと妙だな。
だいたいからして、荷物をどう詰めたらいいかわからない。いりもしない物を詰めすぎて、必要な物をじゅうぶんに詰めない。それはべつにかまわない、耐えられる。しかし、荷造りについてたえず不安になり、旅が終わってずっとあとになってからも、荷物を詰める自分の手際について、悩みつづける。
一九八〇年にコロラドへ行ったときには、ズボンを六本も詰めたのに、シャツは二着だけだった。それをいまでもくよくよ考えている体たらくだ。二週間の予定のコロラドへの旅にズボンを六本も持っていって、いったいどうするつもりだったのか? シャツがもっと必要だった。逆にすべきだった。シャツ六着、ズボン二本、そうすべきだった。そのほうがずっと理にかなっていたはずだ。だってコロラドは猛暑で、バッタときたら、人間がサラダにする隙もあたえず、庭の野菜を食いちらかすほどだったのに、わたしにはシャツが二着しかなかった。
旅となれば、以前は女たちが、上手に荷物を詰めてくれたものだった。ズボンを六本も、シャツは二着きりというような詰め方をする女性はいなかった。けれども、いまのわたしには女性は金がかかりすぎるし、この先だってずーっと長いこと、スーツケースに荷物を詰めてくれる女性を得る余裕はないだろう。
もし現在、わたしのために荷造りをしている女性を眺める機会があったら、そのとき感じる不安は乗ったタクシーが予想より遠いところへ向かっていて、メーターが上がるのをじっと見つめ、所持金だけではたして料金を払えるだろうかと心配になるのに似ているだろう。
トロントは今後ずっとわたしの夢の裏面に位置することになるだろう。
表を出すつもりでいたのに、トロントは裏目に出てしまった。
ある日曜日の午後のことだった。電車に乗ってトロントのチャイナタウンから離れた場所へ中国の映画を観にでかけた。
それまでは、チャイナタウンのなか以外の映画館で中国の映画を観た経験はなかった。どんな町へいっても、チャイナタウンがあれば、わたしはかならずそこを訪れる。一九八〇年の冬にはブリティッシュ・コロンビアのバンクーバーに一週間いたが、知るかぎりでは、中国映画館はすべてチャイナタウンにあった。トロントではちがっていた。だからカナダにいたわたしは、いまでは忘れられた起点からの方角を胸にいだいて、誤った場所に置かれた中国映画館に向かう電車に乗ることになった。チャイナタウンにその映画館があったなら、苦労することはなかっただろう。それなら理にかなった場所なのだから。
映画館に着いてわかったのだが、そこではアメリカ映画の二本立を上映していた。ふつうアメリカ映画を観に中国映画館へは行かない。さらにいえば、中国映画館では中国映画を上映すべきだという思想は非常識だといえるのか。
次週からは中国映画を上映する、と予告のポスターが告げていた。それまで待つわけにはいかなかった。待たないと決めたのはおそらくよかった。なぜなら、次の週にはわたしはサンフランシスコに戻っていたのだから。次の週にカナダへやってくる中国映画なんぞ、ぜったいにつまらないにきまっていた。
トロントでは、ほかになにをしたっけ?
カナダ人の女性とひどく苦い恋をした。彼女はいい人ではあった。恋愛が唐突に、まずい状態で終わった責任はすべてわたしにあった。とんでもなく愚劣な行動の実情をあれこれちょっと改変することで、過去を設計しなおすことができたら好都合だ。でも、そうできたら、過去はたえず変貌する。それでは過去がついに硬い大理石になりおおせる日はこない。
彼女のアパートではじめて夜をすごし、翌朝目覚めたときのことを思いだす。彼女はいった――「トロントはきょうはうつくしい日で、あなたはすてきなカナダ人女性といっしょね」
うつくしい日だった。
すてきなひとだった。
一九八二年一月三十日 おわり
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