ヴァインランド

 一九八四年(注1)の夏の朝。窓にかかるイチジクの
隙間から差し込む光を浴びながら、今日はいつにも増し
て寝坊助のゾイド・ホィーラ(注2)は、とっぷらとっ
ぷら、たゆたうように目を覚ました。屋根の上をブルー
ジェイの軍団がやかましく跳ね回っている。夢の中では
それが伝書鳩だった。海の彼方のどこかの国から、彼に
宛てたメッセージを脚に巻き付け、一羽また一羽と舞い
降りてくるのだけれど、捕まえようと近づいていくと、
白い翼に光を震わせ、海の彼方へ飛び去ってしまう。無
意識からの催促ってのかね、早くしろって夢でこづいて
るってことか――とゾイドは解した。前回の小切手が届
いたときに、中に一緒に入っていた通達文書には、「公
的に精神異常と判断される行為がこれ以上みとめられぬ
場合、あなたは生活保護の受領資格を失います」とあっ
た。その期限まで、もう一週間たらず。うめきながらゾ
イドは起きた。山の斜面を下ったどこかでハンマーと電
ノコが忙しそうに鳴っている。カントリー・ミュージッ
クを鳴らしながら走っていくトラックの音も聞こえる。
彼はモク(注3)を切らしていた。
 台所のテーブルの、チョコフレークの箱はカラッポ。
隣りにプレーリィ(注4)からのメモが見える。「パパ
へ。またバイトの時間が変わっちゃったので、サプシャ
に乗っけてもらいます。チャンネル86から電話あり。急
ぎだっていってたけど、パパを起こせると思ったら自分
でやってみてよって、いっておきました。LOVE(エ
ッ?)、プレーリィ」
 読みながらゾイドは「ケッ、今日もまたフルーツ・ル
ープスかいな」とふてている。けれど、この原色の輪っ
かのシリアル、砂糖代わりにネスクィックをまぶして食
べたら、けっこうイケル味ではある(注5)。それに灰
皿をかき集めたら、まだ吸えそうな燃えさしが五本、六
本と出てきたじゃないか。ゾイドはバスルームの便座の
上でゆったり時間を過ごしてから、やっと探し当てた電
話の受話器を手にして地元TV局にコールを入れた。今
年の出し物の公式発表――のつもりだったが、「確認と
ってくださいよ、そういう話は聞いてません」と来たも
んだ。「ホィーラさんはスケジュール変更になってます
よ」
「確認とるって、誰にだよ。これってオレがやることだ
ろーが?」
「とにかくですね、あなたも我々も、キューカンバー・
ラウンジに行くんです!」
「オレは行かんぜ。オレが行くのは、デル・ノーテのロ
ッグ・ジャムだからな」。なんとも話のわからん連中で
ある。もう何週間も前から練っておいた計画だというの
に。
 玄関先に出ると、デズモンドが自分の皿の回りをうろ
うろしていた。この皿はいつもカラッポ――というのは、
これに食べ物がのった瞬間、レッドウッド(注6)の森
からブルージェイがけたたましく舞い降りてきて残らず
持ち去ってしまうのだ。で、そのドッグフードの影響か、
まもなくこの辺一帯のブルージェイは、車のあとを何マ
イルも追ってきたり、嫌がる人間に噛みついたりと、素
行がとても悪くなった。ゾイドを見てデズモンドはもの
ほしそうな視線を送るが、鼻のまわりがチョコフレーク
のカスだらけ。「知らんぞ」ゾイドは首を振った。「プ
レーリィにもらったろ? ちゃんと顔に書いてあるって、
何をもらったかもな」。恨んじゃいないといいたげに、
デズモンドは立てたシッポを前後に振りながら薪置場ま
でついてきて、道路までバックで進むゾイドの車を見送
っていた。ターンして、さあ、一日の始まりである。


『ヴァインランド』を楽しむための訳者ノート
1 一九八四年――ジョージ・オーウェルの反ユートピ
ア小説『一九八四年』では、独裁権力がTVスクリーン
を使って人々の意識をコントロールする悪夢的状況が描
かれていた。ピンチョンの描く一九八四年も、TVが人
々の意識の歪曲に絶大な力を発揮している。ビデオデッ
キに続いてパーソナル・コンピュータが一般家庭に浸透
してきたのもちょうどこのころ。ルーカスやスピルバー
グら三十代の若い才能を抱え込んだハリウッドでは、宣
伝に巨費を投じて巨利を上げる、ブロックバスター映画
の製作スタイルをしばらく前から完成させていた。(ち
なみにこの年、二人は製作・監督のコンビを組んで『イ
ンディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』を作っている。)レ
ーガン政権が四年目を迎えた(十一月に彼は再選される)
この年は、金持ち優遇・福祉カット政策が一段と進展し、
ヤッピー的ライフスタイルも盛り上がって、エスニック
なレストランや、ブランドものの物品が隆盛を見せてい
た。六〇年代ヒッピー文化の遺産である精神世界の探求
も「ニューエイジ」の名のもとに一種の神秘ムードの商
品と化し、そんな甘ったるさに反発したティーンズたち
は、過激な暴力の表現を、パンクなロックに求めていた。
『ヴァインランド』の最初の数章は、そうした時代を笑
いながら、「時の波」の巨大な力に焦点を絞っていく。

2 ゾイド・ホィーラ――『V.』のベニー・プロフェ
イン、『重力の虹』のタイローン・スロースロップに続
いて、『ヴァインランド』の主人公も、状況に押し流さ
れて行くドジな男というキャラクター設定になった。登
場人物に、思わず吹き出してしまうような(しかし同時
に意味深長な)名前をつける手法は、ピンチョンのトレ
ードマークの一つである。“zoid”という言葉は七〇年
代から八〇年代にかけて、「ドジなヤツ」(bozo, boz-
oid,zomboid )という意味あいで若者に使われたが、彼
が生計の手段にしている「精神分裂病者」(schizoid)
の意味ももちろんかけられているだろう。それ自体はけ
っこうありふれた姓である Wheeler と組み合わさるこ
とで、クレイジーな軌跡を描きながら、時代を転がって
いく、彼の人生を象徴する名前になっている。

3 モク――といってタバコじゃなくてジョイント(紙
巻きマリワナ)のこと。「ポット」の俗称で呼ばれる大
麻は、ハンボルト郡の伝説的な「名産品」。一九七〇年
代初頭に、都会での行き場を失ってこのあたりに逃れて
きたヒッピーたちが、品種改良を重ねて作った「シンセ
ミーヤ」(五五六ページ)と呼ばれる黄緑色の「種ナシ」
が特に有名。

4 プレーリィ――「大平原」を意味するこの名は、自
然を崇拝するヒッピーの親たちがいかにも好んでつけそ
うだ。小説の舞台である北カリフォルニアのレッドウッ
ドの森林地域には、プレーリィ・クリークと呼ばれる谷
川も流れ、その付近は州立公園になっている。

5 ホィーラ家の食生活は、基本的に、スーパーで買っ
てきた「ジャンク・フード」で成り立っている。チョコ
フレークと訳したものは原文では「カウント・チョキュ
ーラ」で、これはドラキュラ伯爵を漫画化した顔が箱に
描いてあるシリアル。同類のフルーツ・ループスは、原
色の輪っかと鳥の漫画の絵。少し後に出てくるキャプテ
ン・クランチは片眼の海賊の漫画だ。フルーツ・ループ
スに入れるというネスクィックは日本でもおなじみのイ
ンスタント粉末ココア。その食環境を思えば、あとのシ
ーンでアボカドを潰しレモンを入れてワカモーレを作っ
たプレーリィのサービスぶりは、(サルサは市販品に頼
ったとしても)二重丸である。

6 レッドウッド――北カリフォルニアのハンボルト郡、
およびその北のデル・ノーテ郡の海岸山脈一帯は、地上
でもっとも背の高い(高いものは百二十メートルになん
なんとする)レッドウッドの針葉樹林に覆われて、「レ
ッドウッド・カントリー」の名で呼ばれている。名前の
由来は材質がタンニンを含んで赤いこと。