『ヴァインランド』を楽しむための訳者ノート
1 一九八四年――ジョージ・オーウェルの反ユートピ
ア小説『一九八四年』では、独裁権力がTVスクリーン
を使って人々の意識をコントロールする悪夢的状況が描
かれていた。ピンチョンの描く一九八四年も、TVが人
々の意識の歪曲に絶大な力を発揮している。ビデオデッ
キに続いてパーソナル・コンピュータが一般家庭に浸透
してきたのもちょうどこのころ。ルーカスやスピルバー
グら三十代の若い才能を抱え込んだハリウッドでは、宣
伝に巨費を投じて巨利を上げる、ブロックバスター映画
の製作スタイルをしばらく前から完成させていた。(ち
なみにこの年、二人は製作・監督のコンビを組んで『イ
ンディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』を作っている。)レ
ーガン政権が四年目を迎えた(十一月に彼は再選される)
この年は、金持ち優遇・福祉カット政策が一段と進展し、
ヤッピー的ライフスタイルも盛り上がって、エスニック
なレストランや、ブランドものの物品が隆盛を見せてい
た。六〇年代ヒッピー文化の遺産である精神世界の探求
も「ニューエイジ」の名のもとに一種の神秘ムードの商
品と化し、そんな甘ったるさに反発したティーンズたち
は、過激な暴力の表現を、パンクなロックに求めていた。
『ヴァインランド』の最初の数章は、そうした時代を笑
いながら、「時の波」の巨大な力に焦点を絞っていく。
2 ゾイド・ホィーラ――『V.』のベニー・プロフェ
イン、『重力の虹』のタイローン・スロースロップに続
いて、『ヴァインランド』の主人公も、状況に押し流さ
れて行くドジな男というキャラクター設定になった。登
場人物に、思わず吹き出してしまうような(しかし同時
に意味深長な)名前をつける手法は、ピンチョンのトレ
ードマークの一つである。“zoid”という言葉は七〇年
代から八〇年代にかけて、「ドジなヤツ」(bozo, boz-
oid,zomboid )という意味あいで若者に使われたが、彼
が生計の手段にしている「精神分裂病者」(schizoid)
の意味ももちろんかけられているだろう。それ自体はけ
っこうありふれた姓である Wheeler と組み合わさるこ
とで、クレイジーな軌跡を描きながら、時代を転がって
いく、彼の人生を象徴する名前になっている。
3 モク――といってタバコじゃなくてジョイント(紙
巻きマリワナ)のこと。「ポット」の俗称で呼ばれる大
麻は、ハンボルト郡の伝説的な「名産品」。一九七〇年
代初頭に、都会での行き場を失ってこのあたりに逃れて
きたヒッピーたちが、品種改良を重ねて作った「シンセ
ミーヤ」(五五六ページ)と呼ばれる黄緑色の「種ナシ」
が特に有名。
4 プレーリィ――「大平原」を意味するこの名は、自
然を崇拝するヒッピーの親たちがいかにも好んでつけそ
うだ。小説の舞台である北カリフォルニアのレッドウッ
ドの森林地域には、プレーリィ・クリークと呼ばれる谷
川も流れ、その付近は州立公園になっている。
5 ホィーラ家の食生活は、基本的に、スーパーで買っ
てきた「ジャンク・フード」で成り立っている。チョコ
フレークと訳したものは原文では「カウント・チョキュ
ーラ」で、これはドラキュラ伯爵を漫画化した顔が箱に
描いてあるシリアル。同類のフルーツ・ループスは、原
色の輪っかと鳥の漫画の絵。少し後に出てくるキャプテ
ン・クランチは片眼の海賊の漫画だ。フルーツ・ループ
スに入れるというネスクィックは日本でもおなじみのイ
ンスタント粉末ココア。その食環境を思えば、あとのシ
ーンでアボカドを潰しレモンを入れてワカモーレを作っ
たプレーリィのサービスぶりは、(サルサは市販品に頼
ったとしても)二重丸である。
6 レッドウッド――北カリフォルニアのハンボルト郡、
およびその北のデル・ノーテ郡の海岸山脈一帯は、地上
でもっとも背の高い(高いものは百二十メートルになん
なんとする)レッドウッドの針葉樹林に覆われて、「レ
ッドウッド・カントリー」の名で呼ばれている。名前の
由来は材質がタンニンを含んで赤いこと。