|
プロローグ
凍てつく夜。狭苦しい木の小屋。ぼくは旅行用の目覚まし時計の音にはっとして起き上がり、寝袋の口元のひもをほどき、まっ暗な寒さに手を伸ばした。指はざらつく木の床を探り、木くずや砂粒や床板のあいだから吹きこむむきだしのすきま風のなかを動きまわって、ようやく冷えきったプラスチックの時計を見つけ、アラームのスイッチを切った。 ぼくはしばらくのあいだじっと横たわり、朦朧とした意識のなかで一本の丸太にしがみつき、片腕を海に漂わせていた。静寂。寒さ。薄い空気にあえぐ短い呼吸。夜どおし筋肉を強ばらせていたかのように、体にはまだ痛みが残っていた。 そのとき、まさにその瞬間、ぼくは自分が死んだことを悟った。 この経験を言葉で説明するのは難しい。まるで体が空になったような感じがした。ぼくは姿を変えられ、石に、信じられないほど大きくて冷え冷えとした隕石になっていた。くぼみの奥には、なにか奇妙なものが、細長くてやわらかくて有機的なものが埋まっていた。それは死体だった。だが、ぼくの死体ではなかった。ぼくは石だった。ぼくはただ、冷えゆく死体を抱きしめ、ぴたりと閉じた巨大な御影石の石棺のように、それを包んでいた。 この感覚が続いたのは、二秒か、せいぜい三秒だった。 ぼくは懐中電灯をつけた。目覚まし時計の表示盤にはゼロがふたつ並んでいた。一瞬、ぼくは時が存在を止めて計測不能になったのかと思い、ぞっとした。だが、アラームを止めようといじっているうちに、時計をリセットしてしまったにちがいないと気づいた。腕時計は午前四時二十分を指していた。寝袋の呼吸孔は薄い霜に覆われていた。屋内なのに、気温は氷点下だった。ぼくは寒さに対する覚悟を決めて寝袋から這いだし、防寒服にすっかり身を包んで、冷えきった登山靴に足を押しこんだ。漠然とした不安を感じながら、まっ白なノートをザックに入れた。今日も書けなかった。草稿はおろか、メモさえ書けなかった。 ドアを閉めて留め金をかけ、夜のなかへ出た。星空は無限のかなたまで続いていた。地平線には三日月がボートのようにゆらめいて浮かび、ヒマラヤの高峰のとがった輪郭が、とげだらけの影のように四方にぼんやりそびえていた。まばゆい星明かりが地面を濡らしていた――巨大なシャワーから白い水滴が鋭く降りそそいでいるようだった。肩ひもに体を押しこむようにザックを背負うと、そんなささやかな行為でさえ息が切れた。酸素不足のせいで、目の前で小さな点がちらちら踊った。海抜四千四百メートル。のどをこするように乾いた咳が出て、耳障りな音が響いた。岩だらけの急斜面を登って暗闇へと消える小道がかすかに見えた。ぼくはゆっくりと、ごくゆっくりと、山道を登りはじめた。 ネパール、アンナプルナ連山、トロン峠。海抜五千四百十六メートル。ぼくは征服した。ついにここに立った! ぼくは大きな安堵を感じ、あお向けに倒れ、空気を求めてあえぐ。足の筋肉に乳酸がたまって痛み、頭は割れそうだ。高山病になりかけている。日の光はまだらに陰り、不安を誘う。吹きつける突風は、悪天候が近づいているしるしだ。ほほに寒さが突き刺さり、数人の登山者が急いでザックを背負い、ムクティナートへ下山しはじめる。 ぼくはひとり残される。だが、まだ下りられない。体を起こすが、荒い呼吸はおさまらない。チベット仏教の旗がはためくケルンにもたれる。峠は石だらけで、草木の生えない不毛な砂利が広がっている。四方をとり囲んで山々の頂がそびえ、荒削りな黒い姿を神々しい白い氷河が点々と飾っている。 突風にあおられて、雪片がアノラックに入りこむ。いやな感じがする。峠が雪に埋まったら危険だ。ぼくは肩越しにふり返る。ほかの登山者の姿はない。急いで下山したほうがよさそうだ。 だが、もう少しあとにしよう。ぼくは今、これまでの人生で一番高い場所に立っている。ここに別れを告げるのが先だ。だれかに感謝を捧げなければ。ぼくは突然の熱情に突き動かされて、ケルンのかたわらにひざまずく。ばかげているような気もするが、もう一度まわりを見てもだれもいない、大丈夫だ。ぼくはさっと身をかがめ、イスラム教徒のように尻を空中に突きだし、頭を垂れ、感謝をこめた祈りの言葉を口にする。そのとき、チベット語が刻まれた鉄の板があるのに気づく。なにが書いてあるのかぼくにはわからないが、その文字からは崇高さと気高さが感じられ、頭をさらに下げて鉄板にくちづけする。 その瞬間、ある記憶がよみがえる。ぼくの子ども時代に続く渦巻く穴。時を貫くその管を通して警告の声が響くが、間に合わない。 ぼくは身動きがとれなくなる。 湿ったくちびるが、チベット仏教の祈りが刻まれた板に凍りつく。くちびるを舌で濡らしてはがそうとすると、舌もぴたりと凍りつく。 スウェーデンの北の果てで育った子どもなら、みな同じような苦境を経験したことがあるはずだ。凍てつくような冬の日、手すりも街灯も鉄製のものはみな霜に覆われる。突如として記憶が鮮明によみがえる。ぼくは五歳で、パヤラ村の家の玄関の鍵穴にくちびるが凍りついている。最初はただただびっくりする。鍵穴は、ミトンや素手でならなんの問題もなくさわれる。それなのに、今は悪魔の罠と化している。叫ぼうとするが、舌が金属に固く凍りついてかなわない。腕に力をこめ、力ずくで体を引き離そうとするが、あまりの痛さにあきらめる。冷たさに舌が麻痺し、口のなかは血の味がする。ぼくはやけになってドアを蹴り、苦しみに満ちた声を上げる。 「ああぁぁぁ、ああぁぁぁ……」 そこに母さんが現われる。母さんはボウルに入れたお湯を鍵穴の上から注ぎ、くちびるは解け、ぼくは自由の身になる。鍵穴の金属にはくちびるの皮のかけらがまだくっついており、ぼくはこんなことは二度としないと心に誓う。 「ああぁぁぁ、ああぁぁぁ……」うめくぼくに降りだした雪が激しく吹きつける。ぼくの声はだれにも届かない。登ってきた登山者も、今はもうまちがいなく引き返しているだろう。空中に突きだした尻に風が殴るように吹きつけ、刻々と冷えてゆく。ぼくは手袋を脱ぎ、手でくちびるを暖め、暖かい息を吹きつけてはがそうとする。だが、無駄だ。熱は金属に吸収され、氷のような冷たさは変わらない。鉄の銘板を手で引きはがそうとしても、しっかり留めてあって、びくともしない。背中全体に冷たい汗をかく。アノラックの襟元から風が這いこみ、ぼくの体は震えだす。低い雲が集まりはじめ、峠は霧に包まれる。危険だ。きわめて危険だ。ぼくのなかで恐怖が募る。ぼくはここで死ぬだろう。チベット仏教の祈りが刻まれた板に凍りついたまま、夜明けまで生きのびられるはずがない。 残された可能性はただひとつ。力ずくでくちびるを引きはがすだけだ。 考えただけで気分が悪くなるが、ほかに方法はない。まず手はじめに軽く引っぱってみる。舌のつけ根まで傷みが走る。一……二……それっ……。 赤。血。あまりの痛さに、ぼくは鉄板に頭を打ちつけてこらえる。無理だ。ぼくの口は固く凍りついたままだ。これ以上強く引っぱったら、顔全体が壊れてしまうだろう。 ナイフだ。ナイフがあれば。ザックを足で探したが、二メートルほど離れていて届かない。胃のなかで恐怖が渦巻き、膀胱は爆発しそうだ。ぼくはズボンのジッパーを下げ、牛のように手足をついたまま放尿することにする。 ぼくはふと動きを止める。手探りでベルトに下げたマグを取る。マグに小便を溜め、口の上から注ぐ。尿がくちびるを伝って落ち、凍りついていたのが解けはじめ、数秒後には自由になる。 小便がぼくを救ってくれた。 ぼくは立ち上がる。ぼくの祈りは終わった。舌とくちびるは強ばってひりひりしているが、ふたたび動かせるようになった。これでようやく、物語を始められる。 |