ナンバー9ドリーム



 第一章 パン・オプティコン


「おたがい忙しいんですから、社交辞令は抜きで。俺の名前は知ってますよね。あるいは、忘れてしまいましたかね。ずいぶん昔の話ですから。三宅詠爾(ミヤケ・エイジ)。そう、あの三宅ですよ、加藤さん。なんで東京にいるかって? 理由? 知っているでしょ? 父親の正体を突き止めるためですよ。あなたに何の用事かって? 父親の名前と居場所を知っているからですよ。脅すつもりはありません。ただ、言っときますが、目当ての情報はどうしても吐いてもらうことになりますよ。いまこの場でね」
 まあ、こんな感じかな。コーヒーのなかでクリームが銀河系のように渦を巻き、周囲の雑音に輪郭が生まれる。東京で迎える初めての朝。すでに先走っている俺。喫茶ジュピターはランチ時の笑い声、週末の計画の相談、ぶつかる皿の音でにぎやかだ。雄の働き蜂が携帯電話に向かってわめいている。雌の働き蜂がしおれがちな声を無理して高めて色気を添えようとしている。コーヒー、シーフード・ロール、洗剤のむせ返るような臭いが店内に漂う。道路の反対側にパン・オプティコンの正面玄関がはっきりと見える。ジルコニウムに覆われたゴシック様式の高層ビル。見ごたえあり。ビルの上のほう、そして、加藤明子当人は雲に包まれている。都会の天候は謎だ。密閉蓋に覆われた東京は気温三十四度、湿度八十六パーセントのうだるような暑さだ。巨大なパナソニックの電光掲示板がそう告げている。東京という街は時々あまりに目前まで接近してきて、何も見えなくなることがある。距離感が消滅し、何もかもが頭上にある。歯医者、保育所、ダンス教室。道路や歩道橋までもが霧の上に浮んでいるように見えてくる。干あがったヴェニス、水の都の邪悪な双子。鏡張りのビルに反射して旅客機が上昇していく。鹿児島の街は大きいといつも思っていたが、新宿の脇道一本のほうがよほど奥が深い。俺はタバコに火をつける。今日はクールを吸っている。自動販売機で直前に並んでいた葡萄色の髪の暴走族が選んだ銘柄。北通りと青梅街道の交差点を過ぎていく車や人の流れを眺める。都庁職員、唇にピアスをした美容師、昼間の酔っ払い。誰一人としてじっとしてない。川、吹雪、車の流れ、ビット数、世代、一分間につき一千人の顔。屋久島なら一人の顔につき一千分だろう。群集をまえに物思いにふける俺。この群集一人ひとりが「お父さん」、「父」、「おやじ」などという名札の貼られた記憶箱を持ち歩いているのだ。映りのいい写真、光の足りない写真、やばすぎる体型、やさしげなポーズ、見づらい角度、引っかき傷のあるネガ。どれも同じこと。要するにやつらは俺とは違って誰が自分たちをこの世界に導きいれたのか知っている。群集という奴にはどうも気が滅入る。
 加藤さん! 喫茶ジュピターまで降りてきてくれよ! ずっと簡単に片がつくのに。シーフード・ロールとコーヒーを買いにちょっと立ち寄る。俺にはもちろんすぐに相手が誰だか分かるから自己紹介。そして、もしかしたらばったりお会いできるかなと思っていましたとはにかみながら言ってみる。俺たちは肝心な用件を話し合う。二人とも分別のある大人なんだから。そして、もちろんあんたは俺の言い分に理があると納得してくれる。俺は大きくため息をつく。男か女か分からないが、隣に座っている人物が新聞の背後に隠れようとする気配を感じ取る。いかにして白昼夢を現実に密輸入するか。俺の手の込んだ計画は念が入りすぎているように思われる。パン・オプティコンほど大きなビルならいくつも出入り口があるに決まっている。自社経営のレストランがビル内にいくつもあるに決まっている。職員がわざわざ一階まで降りてくる手間を省くためだ。しかし、加藤、あんたが昼食のために休憩を取るなんて保証がどこにある? おそらくあんたの奴隷たちが人間の心臓を買ってきてくれて、それで夕食時まで乗り切るのだろう? 俺は吸っていたタバコを灰皿に横たわる祖先たちの内臓の中に埋葬し、このコーヒーを飲み終えたら張り込みを終えようと決心する。聞こえたかい、加藤明子さん? 逃げても無駄なんだよ。
 ランチ時の喫茶ジュピターは三人のウエートレスで切り盛りされている。ウエートレス1“ボス”は夫を毒殺した冷酷で高飛車な未亡人。ウエートレス2はとうもろこしのような顔をしてロバのような声で話す。こいつはウエートレス1の三十年前の姿。ウエートレス3はいま後ろを向いているのでよく見えないが、髪を上げているから首がきれいに見える。世界一完璧な形をしたうなじだ。冗談抜きで。詩人協会が一丸となっても、あの首筋のなめらかな曲線を描写することなど出来ないだろう。まるで剥き卵のよう。未亡人がロバに向かって、ということは店内に丸聞こえの大声で、何か言っている。お気に入りの美容師の離婚騒動についてなにか言っているようだ。「奥さんが自分の妄想についてこれないと、ポイ捨てしちゃうのよ」。未亡人の声は工業ダイアモンドを思わせる。首筋完璧なウエートレスは終身刑を宣告され、流し場で服役中。鉄の足枷の代わりにタワシとスポンジをあてがわれる。まったく険悪な雰囲気だ。未亡人とロバが彼女をシカトしているのか、それとも彼女が未亡人とロバをシカトしているのか?
 熱い霧がパン・オプティコンのビル九階周辺まで降りてきた。俺は人生これまで何日生きてきたのか計算してみる。七千二百八十六日。うるう年が四回。時計によると時刻は十二時五十一分。突然、働き蜂たちが足早に立ち去っていく。時計の針が一時を指したとき蛍光灯に照らされたウサギ箱にいないと、会社からリストラ宣告されてしまうと恐れているのだろうか? 働き蜂の大群がパン・オプティコンに吸い込まれていくのを眺めながら、俺は「明日また戻ってきて、IDカードを盗んだらどうか?」という計画としばしじゃれ合う。駄目だ。シンプルが一番。パン・オプティコンは今日襲う。一時きっかりに。飲み干したコーヒーカップをこぼれたコーヒーで汚れた受け皿の上に置く。お前は緊張していると認めるんだ。緊張するのはいいことだ。自衛隊の採用官がある日俺の高校にやってきた。「元」高校というべきか。そして、恐怖に鈍感な隊員を欲しがる優秀な戦闘集団など存在しないと言っていた。戦闘に臨んだとき盲目で勇敢な兵士は自分の部隊を全滅に追い込んでしまう。有能な兵士は恐怖を制御し、感覚を研ぎ澄ますのに役立てることが出来る。簡単に聞こえたな。詠爾、コーヒーもう一杯飲んでおくか? いや、やめとくよ、詠爾。けど、クールをもう一本だけ吸っておく。感覚を研ぎ澄ますために。

 一時三十一分から一時三十二分に時刻が変わる瞬間を見てしまう。分かってるよ、締め切りはもう過ぎている。灰皿は満杯。クールの箱を振ってみる。残るは二本。霧は六階まで降りてきている。加藤明子がエアコンの効いた重役室から外を眺めている姿を想像してみる。ずっと上のほう、霧のはるか上空なのだろう。上空では日光がぎらついているはず。俺が向こうのことを感じているみたいに向こうも俺の気配を感じることができるのだろうか? 今朝起きてみて「人生で一番大切な一日になるぞ」などと考えてみただろうか? 最後、最後の一本。緊張が臆病風に変わる前に。喫茶ジュピターに残っている客で俺と同じくらい長居しているのはあの老人だけだ。ビデオ・ボーイにのめりこんでいる。デジタル空間にプラズマ電撃を食らわすたびに指がぴくぴく動く。漢文の教科書に載っていた老子の水墨画に瓜二つだ。冗談ではなくて。はげていて、すっとんきょうで、ひげを蓄えている。ほかの客たちは入店すると、注文し、飲み、食べ、洗面所を使い、店を出る。十五分が数十年もの価値を持つ。老子と俺のみがじっと耐える。「ガールフレンドに待ちぼうけを食わせられたのかしら」などとウエートレスに勘違いされるといやだな。あるいは女をつけまわす気狂いストーカーとか。「イマジン」のカラオケ版がかかり、ジョン・レノンが墓の中で愕然と起床する。信じられないほど甘ったるい。ちゃらちゃらしたフルートたっぷり。こんな代物を演奏しなくてはならなかった雇われミュージシャンも怖気に震えが止まらなかったはずだ。妊婦が二人入店し、レモンティーを注文し、子供が生まれたら夫はどんなお父さんになるかしら、などと話し合っている。「理想的なパパってことはないだろうね」。俺は連中の耳元でささやいてやりたい。「でも、まだましなほうだよ。俺の体験談、聞かせてやろうか?」老子が咳き込み、痰をビデオ・ボーイのスクリーンから指で拭い取る。俺は煙を深く吸い込み、鼻からじわりと吹き出す。東京がこんなにも汚い街だとは。大洪水でも来ないことには清掃しようがないな。ゴンドラにのった船頭がマンドリンを演奏しながら銀座を通り過ぎていく。「いい?」未亡人がロバに向かって話を続ける。「あの人の前の奥さんたちって、とにかくどけちなんだから。気取った重役夫人を演じたいのよ。だから、美容師に言ってやったのよ。結婚相手を選ぶときは、自分の夢と同じサイズの夢を持った女にしときなさいって。でも、聞く耳持たないのよ。あの白痴猿ったら。おばさんの言うことなんか信用できるかって思っているんだから」。俺はコーヒーの上に浮かんだ泡を吸う。カップには口紅のあとがついている。口紅のあとに唇を当てるだけで、それは間接キスに相当することになる。俺はこんな仮説を立ててみて、それを実証しようと試みる。もし実証できれば、俺はこれまで三人の女とキスをしたことになる。この年齢ならきっと全国平均以下のキス回数に違いない。最初の二人の女の子のことはできれば忘れてしまいたい。彼女たちも俺のことなど忘れてしまったに決まっている。そこで、俺は喫茶ジュピター店内を再び見回し口紅の持ち主と思しき人物を探す。活き活きして賢そうでヴィオラのような曲線を描く純白のうなじをしたあのウエートレスに決まっている。汚れた皿やカップの山といまだに格闘している可哀想なウエートレス。後れ毛が襟足にかかっている。襟足をくすぐっている。あの後れ毛になれたらなあ! 俺はカップに残された口紅のあざやかな赤紫色を彼女の唇の色と比較しようと試みるが、顔がここからだとよく見えない。どうも、俺の推論は間違っていた模様だ。それにこの口紅、カップの素材とほとんど原子レベルで融合しているかのようだ。すでに何度も洗ったあとなのだろう。そもそも、この喫茶店、上等の部類に属するとも思えない。想像をたくましくしすぎるのが俺の悪い癖だ。まあそれは言い過ぎかもしれない。だが想像力がもたらす快楽はいつだって心地よいというよりもむしろ味気ない。あのウエートレス、いかにも洗練された東京人という感じだ。金持ちでおしゃれで精力まんまんの求愛者たちのデータで彼女のノートPCはパンク寸前に決まってる。ということで仮説は却下しよう。老子がビデオ・ボーイに向かってうなり声を上げる。「クソ、クソ、クソ、バイオロボのクソッたれ! またかよ?」俺はカップの底に残ったコーヒーを飲み干し、野球帽をかぶり、パン・オプティコンの様子を探る。創造主の居場所を割り出す時がやってきた。

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