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マキノ雅弘―映画という祭り―
山根貞男

映画がまだ「昭和」だった頃、生涯260本あまりの作品を撮った男がいた。時代劇や任侠映画はもちろん、喜劇にメロドラマにミュージカルにと奔放自在に撮りまくった。画面を見ていると、まるで祭りのようにわくわくしてしまうのは何故だろう。邦画にかけては随一の見巧者が、マキノ生誕100年を機に、その全魅惑を解き明かす。

ISBN:978-4-10-603621-7 発売日:2008/10/24


| 1,470円(定価) |
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マキノ雅弘―映画という祭り―
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第一章 破れかぶれの映画渡世
生きている日本映画史
マキノ雅弘は生涯に二百六十本余りの映画を撮った。一般的には時代劇や任侠映画の監督と見られることが多いが、この本数だから、当然、あらゆるジャンルの映画を手がけており、フィルモグラフィには、ほかにアクション映画やメロドラマ、喜劇やミュージカル映画など、あらゆる種類の映画が並ぶ。二百六十本「余り」と記したのは、共同監督や応援監督などがあるからで、数え方がむずかしい。しかもこんな例がある。
一九三七年の一二月末、日活は正月作品として阪東妻三郎主演『血煙高田馬場』(現存フィルムでは『決闘高田の馬場』)と片岡千恵蔵主演『自来也』を封切り、人気スターの二本立てだったので、大ヒットを飛ばしたが、どちらの監督もマキノ正博(当時の名前)である。一本を十日ほどで撮り上げ、休む間もなくもう一本を一週間ばかりで撮ったという。ただし、体裁を気にして(!)、前者は親しい稲垣浩に頼んで共同監督にした。そこで『血煙高田馬場』の画面には二人の名前が並記されており、当時の資料では共同監督になっているが、稲垣浩自身、ワンカットも撮っていず、名前だけ貸したことをエッセイなどで明記し、自分の作品歴には入れていない。
こういうケースがあれば、本数の数え方に困るのは当然であろう。はっきり共同監督とわかっている場合は一本に数えればいいが、それと応援監督の違いはどこにあるのか。たとえば一九三八年の嵐寛壽郎主演『鞍馬天狗』(現存フィルムでは『鞍馬天狗 角兵衛獅子』)は、画面クレジットでも文献でもマキノ正博と松田定次の共同監督になっているが、マキノ雅弘自身の語るところによれば、少し手伝っただけだという。要するに名前が画面にどう書き出されていようと、正確な事態は当事者以外には判断できないのである。逆の場合もあって、とくにマキノトーキー時代には、撮影所長でプロデューサーのマキノ雅弘が全作品に関わったから、ほかの監督の名義になっている作品でも、監督ないし共同監督を務めたケースが多い。
結果、何ともすっきりしない話だが、マキノ雅弘の監督作品は二百六十四本前後と考えるのが妥当と思われる。それでもムチャクチャ多い。ほかに俳優として百七十本近くに出演し、プロデューサーとして自作も含め百十本余りに関わり、録音を担当した映画が百二十本近くにのぼるから、ただただ驚嘆してしまう。
一九〇八年(明治四十一年)、京都に生まれた。本名牧野正唯。映画監督としての名前ははじめ〈マキノ正博〉、のち〈マキノ雅弘〉。その後、さらに雅裕、雅広と改名したが、それらでの監督作品はない。そこで、本書では、基本的に、一九五〇年代から六〇年代にかけての戦後日本映画の黄金期を担った〈マキノ雅弘〉で通すことにする。
父はのちに「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三。一九〇八年といえば、京都の芝居小屋千本座の経営者で、演出家でもあった牧野省三が劇映画『本能寺合戦』を撮って、いわば日本の映画監督第一号になった年であり、翌年、彼のもとで日本の映画スター第一号「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助がデビューした。日本最初の撮影所が東京・目黒につくられたのも、一九〇八年のことである。
マキノ雅弘は日本映画史の本格的開幕の真只中に生まれたわけで、以後、その運命を生きてゆく。べつに自分から望んだのではないが、四歳のころから父親の撮る日活作品の数々に子役として出演し、青年期には父親の興したマキノ映画で主役を張り、人気スターのひとりとなった。そして、弱冠十八歳のときに監督としてデビューし……といったふうに書いていたら、なにしろ上述の数字だから、きりがない。
監督として活躍したのは一九二六年から一九七二年まで。マキノプロダクションから始まって、いくつもの映画会社を渡り歩き、自ら会社を興しては潰し、同じ会社に出たり入ったりもした。メジャーでいえば、日活、東宝、松竹、新東宝、東映、大映と、仕事をしなかった会社はなく、東京映画や宝塚映画、あるいはさまざまな独立プロでも映画を撮った。
その長い歩みには、父牧野省三から発する人脈がさまざまに関わっている。肉親や縁戚関係だけでも、姉が女優のマキノ輝子(智子)、弟がプロデューサーのマキノ光雄(牧野満男)、末弟がプロデューサーのマキノ真三、姉智子の夫が俳優の澤村國太郎、その妹および弟が澤村貞子と加東大介、姉智子の息子たちが長門裕之と津川雅彦、さらに異母兄が監督の松田定次、ある時期の妻が女優の轟夕起子、といった名前を挙げられる。
その生涯はまさに波瀾万丈の「生きている日本映画史」で、驚き呆れるエピソード、笑ってしまう出来事、ジーンとさせられる話に事欠かないが、それらについては『マキノ雅弘自伝 映画渡世』全二巻(平凡社)を読んでいただくとしよう。
早撮りの名人
マキノ雅弘(当時は正博)は一九二六年、富澤進郎名義の『青い眼の人形』で監督としてデビューした。単独で撮ったものの、先輩の名で公開されてしまったということで、監督歴の出発点からして曖昧さがまつわりついているのである。
フィルムが現存しないので、その第一作の出来栄えはわからないが、十八歳でデビューした新人監督は翌年には十本も撮っている。いくら社長の御曹司とはいえ、箸にも棒にもかからない作品であれば、それほどの連投はできなかったであろう。一九二八年には八本、二九年にも八本、と快進撃がつづく(本数は共同監督作品も含み、数え方は封切年による。以下同様)。
映画雑誌「キネマ旬報」の年間ベストテンは現在も続行中だが、一九二八年の八本のうち、『浪人街 第一話 美しき獲物』が一位、『崇禅寺馬場』が四位、『蹴合鶏』が七位に選ばれ、二九年にも八本のうち、『首の座』が一位、『浪人街 第三話 憑かれた人々』が三位に入った。キネマ旬報ベストテンに限らず、どんなベストテンであれ、決定的な評価とみなすのは無理で、ある指標でしかない。それでも、二年連続複数ベストテン入りを見れば、若きマキノ正博がいかに注目されていたかは明らかであろう。

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