考える短歌
―作る手ほどき、読む技術―


 はじめに

 短歌は、心と言葉からできている。まず、ものごとに感じる心がなくては、歌は生まれようがない。心が揺れたとき、その「揺れ」が出発点となって、作歌はスタートする。それは、人生の大事件に接しての大きな心の揺れであるかもしれないし、日常生活のなかでのささやかな心の揺れであるかもしれない。いずれにせよ、日頃から、心の筋肉を柔らかくしておくことが、大切だ。そうすれば、さまざまな揺れに、柔軟に対応することができるだろう。
「どうすれば、その心の筋肉は、柔らかくなるのですか?」――という質問を、よく受ける。「たとえば、あなたは、日頃どんな努力をしているのですか?」とも。
 禅問答のように聞こえるかもしれないが、私にとっては「短歌を作ること」そのこと自体が、なによりの柔軟体操になっている。もし、自分が短歌を作っていなかったら、慌ただしい毎日のなかで、「あっ」と思うことがあったとしても、思いっぱなしで過ぎてしまうだろう。
 短歌を作っているからこそ、その「あっ」を見つめる時間が、生まれる。たとえ隙間のような時間であっても、毎日の小さなつみかさねこそが、大切だ。「あっ」を見つめて、立ちどまって、味わいつくすことが、心そのものを揉みほぐしてゆく。
 子どもの言葉は、そのまま詩になっているようなことが、しばしばある。それは、彼らが世界を見つめる目がまっさらで、心が限りなく柔軟だからだろう。たぶん、体の筋肉と同じように、心の筋肉も、ほうっておけば年齢とともに固くなってゆくのだと思う。
 そうならないための心のストレッチ――それが、短歌を作りつづけるということではないだろうか。
 では、なにかに感じる心があったとして、それを具体的に形にするためには、言葉がなくてはならない。画家が絵筆をとるように、写真家がカメラを持つように、演奏者が楽器を手にするように、私たちは言葉をつかって表現をする。
 ここで、「技術」という語をもちだすと、イヤな顔をする人がいるかもしれない。たとえばその人は、こんなふうに言う。
「文学の話に、技術だなんて、車の運転じゃあるまいし。それに私は、日々のできごとや思いを、そのまま素直に、短歌として書きとめられれば、それで充分なんです」と。
 しかし、日々のできごとや思いを、そのまま素直に、短歌として書きとめるにも、やはり、ある程度の言葉の技術は必要だ。それは、絵を描いたり、写真を撮ったり、楽器を演奏したりするのと、同じである。
 ついでに言うと、道具という点では、これほど手軽なジャンルも、珍しいだろう。あなたは、絵の具を揃えたり、カメラを購入したり、楽器を準備したりする必要は、一切ない。鉛筆一本とメモ用紙があれば、とりあえず今日からでも、はじめられるのだから。
 この「考える短歌」で、私が試みてみたいのは、短歌を作るうえでの「言葉の技術」を、どこまで伝えられるか、ということだ。そのためには、抽象的な理屈を並べるのではなく、なるべく具体的な方法をとりたい。
 そこで、「添削」ということを、中心に据えることにした。正直言って、ひとさまの作品に手を加えるのは、あまり気持ちのいいものではない。その人の「心」の部分にまで、踏み込むことは、決してしてはならない、とも思う。あくまで、言葉の技術という観点から、「ここを、もう少しこうすれば、ぐっとよくなるのでは」――という提案としての添削であるということを、強調しておきたい。それはすなわち、心の柔軟体操のほうは、各自でお願いいたします、ということでもある。
 新聞紙上での短歌欄の選を、自分がつとめるようになって、八年がたった。毎週何千と寄せられる作品のなかから、選べるのはたった十首。ほとんどが日の目を見ることのない歌になってしまうわけだが、「惜しいなあ」と思うことも少なくない。そういうボツ作品とのつきあいが長くなるにつれ、初心者が陥りやすい罠や、多くの人々に共通に見られるクセなどに、気づくことも多くなった。そんな経験も生かしながら、「どうすればもっとよくなるか」を考える場所として、本書をスタートさせたい。

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