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まえがき
十何年か前のことだ。
携帯電話本体の買い取りサービスがはじまった。外出先での連絡に難儀していたので、ハラをくくって七万二千円で本体を買った。しかもこれに加えて基本料金が月間一万二千円もした。なかなか度胸のいる買い物だったんである。
それがあれよあれよという間に値下がりし、コムスメたちが自転車に乗りながらくっちゃべっているのをみると心底腹が立つが、まあ、それはどうでもよろしい。
驚くのは次々と追加されてゆく機能である。
短縮ダイヤルは固定電話でもついているから当然としても、携帯メールが普及して以降、電車のなかで大声で携帯で話す人間を見かけることはほとんどなくなった。不急だが重要な伝言は意外に多く、動く伝言版としてもメールは重宝している。あと、気晴らしの雑談電話をいれるとき『今、電話していいか?』と、事前に受け手の都合をたしかめられるのも、固定電話ではできないワザだ。
東海道新幹線は、駅の券売機で買うより携帯電話のサイトで予約したほうが安くて確実に席がとれるので、もっぱらこれを利用している。書籍なども携帯サイトで検索して取り寄せている。ホームページの更新も携帯電話からのアクセスで可能となった。
過日、喫茶店で原稿を書いていると、向かい側の席の男性が、机に携帯電話を置いて、何やら踊っている。一瞬身構えたけれど、よく見れば聴覚障害のかたが、動画サービスを利用し、手話で話していたのであった。いろいろな使い方ができるものなんである。
とはいえ、筆者が携帯メールを導入したのはわずかに四年前、携帯サイトでの新幹線予約システムの導入は二年前、ホームページの携帯からの更新にいたっては、つい最近導入したばかりである。
こうして列記した携帯電話機能が、来年にはどうなっているのか見当もつかない……と思っていたら、先日、電話機能に特化した「説明書なしで使える携帯」が発売された。どんな道具もしょせんは道具に過ぎず、使うのは人間次第といえるか。
ところで、義経である。
義経はあくまでも頼朝の代理人(代官)として戦った。
あまり知られていないことだが、義経が平氏一門を相手に京都以西で奔走している間、総大将である頼朝は鎌倉から動いていない。
木曾義仲討伐、一ノ谷合戦の鵯越、屋島合戦の急襲、壇ノ浦合戦の海戦、といった具合に、義経が鎌倉幕府創業期の立役者であるのは、議論の余地はあるまい。
代理人だから、与えられた権限が大きくないのは仕方なかろう。問題は、頼朝の指示を仰ぐのと、戦局の変化との時間差にあった。鎌倉から京都まで飛脚をとばすのに、片道だけでも七日間を要した。
初陣の木曾義仲討伐だけは、それなりに時間をかけている。しかしその後の一ノ谷合戦・壇ノ浦合戦の交戦期間はわずか一日。屋島合戦でも三日で決着をつけた。こうなると、連絡もへったくれもない。頼朝の代理人という立場ながら自分の判断で行動せねばならず、しかも義経は奇襲を好んだ。このために義経は同僚たちから恨まれ、あるいは疎んじられ、失脚した。
組織において、上司への詳細な報告・迅速な連絡・緻密な相談は不可欠である。これは時代を問わない。もしも義経に、戦闘中でさえ鎌倉との間に瞬時に連絡がとれる、携帯電話やメールがあったなら……まあ、それでも人によっては筆無精・電話不精というのがあるので何ともいえないが。
携帯電話といったハード面のみならず、ソフト面でも源平時代に「もしも○○があったなら」「もしも××を知っていたら」と思うところは少なからずある。
もしも木曾義仲がマクレガーのX理論・Y理論を知っていたら、洛中で略奪はしなかったかもしれないし、自軍の武将の脱走を防げたかもしれない。
もしも義経が、自分の戦いがビジネスではなくギャンブルだと知っていたら、戦いかたを変えていたかもしれない。
もしも義経が、社内営業の大切さを知っていたら、足元をすくわれなかったかもしれない。
もしも義経が「始末書の書き方マニュアル」を知っていたら、頼朝の激怒をかわずにすんだかもしれない。
歴史に「もしも」を持ち込むのは、場合によっては意味のないことかもしれない。けれども、こうした歴史を裏返して検証するのは必要であろう。
徳川家康は鎌倉幕府の編年体公式記録『吾妻鏡』を手元に置いて、幾度となく読み返していたという。
家康と頼朝の境遇には共通する部分が多い。頼朝が義経にたいしてとった仕打ちが、結果的に鎌倉幕府を安定させた。家康はそこから秀吉死後の豊臣一族への処遇を学んだのだ。その結果は……徳川幕府十五代、二百六十年の歴史が答えになっている。
平清盛の保元・平治の二度の乱による源氏追放や平氏の自己改革、頼朝による多彩なマネジメントなどは、家康ならずとも現代のわれわれにも、学ぶところが大きいのだ。
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