本能の力


質の高い不快感が必要
 体罰とは「相手の進歩を目的とした有形力の行使」と定義しました。人間が進歩するためになぜ有形力の行使が必要なのか、ここで説明しておきましょう。
 それを理解するには、まず人間の行動原理を知る必要があります。人間の行動原理は突き詰めて言えば「快を求め、不快を避ける」ということになります。これは皆さんも納得されることでしょう。
 快は心地よいので人間はその状態を目指し、到達すればそこに留まろうとします。逆に不快は嫌だからそれを取り去ろうとします。ということはこうも言えます。人間は快の状態では動かないが、不快の状態では動かざるをえない、と。
 人間の進歩は、不快を取り去ろうと行動を起こすことによってはじめてもたらされるのです。つまり、人間が進歩するためには「不快」が必要不可欠なのです。本能に基づいている限り、不快感は「悪」ではなく「善」なのです。
 ところが、日本の戦後教育は、子供に「不快」を与えるべきではないという考えが主流になってしまいました。たとえば、木登りや橋から川に飛び込むといった遊びを禁止しました。一歩間違えれば生命の危険が伴う、という理由です。しかし、この「一歩間違えれば……」というのが実は「不快」の状態でした。
 禁止したのはそれだけではありません。そのうち、子供同士の競争も否定されるようになりました。徒競走ではあらかじめタイムでグループ分けをして、差が付かないようにするという妙な「配慮」がされるようになっています。通知表から五段階評価が消えたこともあります。
 そして子供をってはいけない、褒めて褒めて伸ばすのだ、という方針が幅を利かせてきました。このようにして「不快」を消していったことが、結果として子供をどれほど不幸にしたか。戦後の子供たちがひ弱になり、生命力が衰弱したのは、子供から「不快」を遠ざけたためなのです。
 もちろん、「不快」にもいろいろなレベルがあります。効果的に生命力を回復させるには、質の高い「不快」を与えなければなりません。
 では、最も質の高い「不快」とは何か。それは死の恐怖です。死に至らしめるには三つの道があります。一つ目は物理的に肉体を破壊すること、二つ目はエネルギーを絶つこと、すなわち食物を絶って餓死させること、三つ目は酸素を絶って窒息死させること。一つ目や二つ目の方法は使いにくい。我々が海で子供たちを鍛えるのは、溺れ死ぬという恐怖、つまり窒息死の恐怖を与えるためです。
 ただし、言うまでもありませんが、あくまでもその恐怖は私たちの管理下において作られたものであって、実際に子供を危険な目に遭わせているわけではありません。彼らには救命胴衣も身に着けさせますし、溺れないように常に私たちが目を光らせているわけですから、溺れてしまうことはないのです。それでも恐怖を感じるというのは、本能的なものですから、皆さんがまだ泳げない頃、一所懸命水泳の練習をしていたときのことを思い出せばおわかりになるでしょう。
 海上の訓練は最も質の高い「不快」が与えられるため、入校したばかりの生徒はしり込みしてなかなか海へ出ようとはしません。怖がるのは当たり前です。そういう子供たちにいくら口で「海へ行け!」と命じても、聞くものではありません。そんなときに、海へ連れ出すために有効な手段が体罰だったのです。
 体罰を後ろ盾にした命令だから子供たちは言うことを聞くのです。そして体罰自体が「質の高い不快感」を発生させ、子供たちを一所懸命にさせます。