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二人の医学研究者・金島《かねしま》秀人と並川玲子は、一粒種の茉利ちゃん(十二歳)と三人で、シリコンバレーの西側にある丘陵地・ポルトラバレーに住んでいる。庭からデッキに出ると、スタンフォード大学の広大なキャンパスと、その向こうにサンフランシスコ湾を一望できる。「これがアメリカンドリームなんだよ」と自らがロールモデル(目標となる生き方のイメージ)を示す意味で、学生や若い研究者が訪ねてくるときは、このポルトラバレーの自宅に招くようにしていると、二人は言う。
金島と並川は夫婦ではなくパートナー。「名前を変えなければならない不便を乗り越えてまで入籍する価値を感じなかった」ので、日本では籍を入れず、アメリカでも結婚届は出していない。茉利ちゃんは、生母である並川の戸籍に入ったから日本のパスポートは並川茉利、アメリカのパスポートはMari
Kaneshimaになっている。それでも何の不便も感じないのは、現代アメリカ、特に、無国籍化が加速度的に進行するシリコンバレーの家族が、実に多種多様だからであろう。
「研究者夫婦で、女性が独立した一人の研究者としてきちんと認められることは、日本ではほとんどないんですよ」(並川)
「日本の医学系の社会はとにかくボーイズ・クラブ。だから夫婦二人三脚で研究し、男が広告塔になり女がラボを仕切る。そういう研究者夫婦は日本にもよくいるのですが、僕らは絶対にそうはなりたくなかった」(金島)
それぞれが一個の独立した人間として生きて行きつつ、パートナーとしてお互いに支えあう。二人はそんな理想の関係を追い求めている。
名古屋大学医学部で、「金島が並川の一年先輩」という間柄だった二人は、臨床ではなく基礎医学の道に進み、ともに病理学の研究者となった。
「臨床の仕事をして患者さんと接している間はそうでもなかったのですが、基礎医学のアカデミアの世界に入ってから、そこに存在する女性差別に愕然としました。業績からいって当然つけるはずのポジションにも女性はつけないことが多い。そんな私の悩みや憤懣をよく聞いて理解してくれたのが金島君だったのよね」(並川)
一九八六年、金島のスタンフォード大学留学が決まったとき、当時「ステディな関係」にあった並川も、同じスタンフォード大学のポストドクターのポジションを得て、二人でシリコンバレーにやってきた。「実力の前には男も女もない」というシリコンバレー・カルチャーゆえに、たくさんの女性がいきいきと働いているこの地が、並川には新天地に思えた。
スタンフォードにやってきて二年たらずで、二人の研究から画期的成果が生まれたことで、「医学部を出た日本人としてはものすごく珍しい人生」が展開しはじめた。
「免疫系の壊れたネズミにヒトの組織を移植すると拒絶反応が出ずにヒトの組織が定着する」という発見、つまり「ヒトの組織をネズミの体内で再現することに成功したことで、ヒトの個体レベルの実験的研究をネズミの体内で可能ならしめる」という細胞治療(再生医療の先駆け的領域)に関するブレークスルーだった。
ここからがシリコンバレーの真骨頂なのだが、スタンフォードの指導教授から「この研究成果の特許をもとにSyStemixというベンチャーを作るので、創業者として参画しないか」との誘いが二人にかかったのである。
「当時、私はベンチャーの世界のルールなんて何も知らなかった。ストックオプションのことも詳しくなかったし、どれくらいもらうべきものなのかもぜんぜんわからなかった。でも教授が、とにかくこの契約書にサインしなさい、サインして悪いことなんか絶対に起こらないからって」(並川)
八八年末に創業されたベンチャー、SyStemixでの研究は順調に推移し、同社は九〇年に株式を公開した。九一年にスイスの製薬会社ノバルティスが資本参加を発表した後、株価はピーク時に七十ドル近辺まで跳ね上がり、そのとき、金島と並川は、ストックオプションの大半を現金化した。これでできた資産でポルトラバレーの自宅を購入し、二人は経済的フリーダムをも得た。
シリコンバレーで経済的フリーダムを得た者には、それ以降「インテレクチュアル・チャレンジのみを最優先事項とする人生」を生きる特権が与えられる。金島はそのままSyStemixに残って研究を続ける道を選んだが、並川は一九九三年に退社。以来二人は、プロフェッショナルとしては別々の道を歩むことになった。
梅田望夫
(以下次号に続く。文中敬称略) |
| 梅田望夫 うめだ・もちお●ミューズ・アソシエイツ社長。1960年東京生れ。94年渡米、97年コンサルティング会社ミューズ・アソシエイツを起業。著書に『シリコンバレーは私をどう変えたか』(新潮社)がある。 |
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