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木田泰夫(四一)はアップルひと筋、生粋のアップル人である。木田の存在なくしては、マッキントッシュの日本語環境がここまで進化することはなかった。日本語入力プログラム「ことえり」、その下に隠れている「日本語文章を最小単位に分解する形態素解析システム」、デジタル・フォント業界の古い構造を打破するための「ヒラギノフォント」のマッキントッシュ標準搭載など、ここ十数年のアップル日本語環境の発展は、すべて木田のリーダーシップによるものである。
東大農学部生物化学科でバイオテクノロジーを究めようとしていた木田は、学者としてのキャリアをエイズ研究からスタートすることまで、決まっていた。一九八九年のことである。
「でも大学院進学を前に、本当にこの道でいいのかな、と突然悩み始めてしまったんです。そしてある日一晩悶々と考え続けた結果、よしコンピュータにしようって。それもこれからはパーソナル・コンピューティングだぞ。そしてそれならばアップルしかないって」
「アメリカのアップル本社に応募することも考えないではなかったけれど、アップルに行こうと考え始めたとたんに、アップルの日本語機能の貧弱さに何か無性に腹が立ってきたんですよ。アップルは日本語に対していい仕事をしていない。自分がやることはたくさんあるじゃないか。日本でエンジニアリングをやらないからダメなんだ。僕は日本のアップルに勤めるぞ。今考えればびっくりするような発想の展開の仕方ですけれど、翌日にはアップル・ジャパンに電話をかけていました。雇ってくださいって」
絶頂期のアップルには、木田のような異分野の才能をも惹きつける磁場のようなものすごく強い力が渦巻いていたのである。
木田はアップル入社二年目から、日本語関係のソフトウェア・コンポーネント開発のリーダーとして頭角を現した。木田の信念は、OS(基本ソフト)自身に「日本語を意識したインターナショナリゼーション」がなされるべきだということであった。世界中のシステムの基本となるOSに、日本語環境を構築するためのどんな機能が一般化されて組み込まれるべきか。そのグランドデザインは自分にしかできない仕事だと木田は考えていた。そして「とても楽しかったですね。作っているものに誇りを持てましたから」と当時を述懐する。
ところがアップルは、幾多の経営的判断ミスが積み重なり、九〇年代半ばには経営危機に陥り、存続すら危ぶまれる状況となった。
「アップル以外に働きたいと思う会社はなかったから、ものすごく悩んで考えたんですよ、つぶれたらどうしようって。自分はいったい何が好きなんだろう、何をやりたいんだろうって。そして、究極的には自分はモノを作るのが好きなんだっていうことに思い至ったんです。そうか、モノを作るのが好きなら、そしてソフトウェアにこだわらないんなら、何だってできるじゃないって。僕はすごくおにぎりが好きなんです。おにぎり握って食べるのが。いざとなったらおにぎり屋さんでもしようよって。奥さんは惣菜でも作って。僕はおにぎりを握って。そう考えたら、とても心が楽になりました」
しかしそれは杞憂に終わった。創業者のスティーブ・ジョブズが九七年九月に復帰し、その天才的経営手腕によりアップルは甦ったからだ。そして木田も、アップル本社のOS開発部隊という中枢中の中枢に移籍することが決まり、九九年夏にシリコンバレーにやってきたのである。
「僕はね、日本の生活をこよなく愛していました。たとえば夏は毎週のように鯵(あじ)を買って来て、一夜干しにしたり、なめろう(沖なます)を作ったり、縁側に出て七輪で焼いてちびちび食べてみたり。そばも打ちますしね。日本のじめじめした気候も大好きなんです。ただ日本での仕事と生活をあんまり楽しみすぎていたので、進歩が止まっちゃうかなという危機感もあってこちらに来ました。でも数年のうちに日本に帰ろうと思います。こちらで生まれた娘を、ちゃんと日本の社会を知っている、日本で生活した経験のある子供に育てたいと思うから」
木田の若い日本人へのメッセージは「発想を狭いところに閉じ込めるな。閉塞しなくっていいんじゃない」ということに尽きる。
「世界中に仕事する場所があるじゃないかって思ってほしい。語るべきことがない英語は書くものがないプログラムと同じで話にならないけれど、語るべきことさえあれば、英語なんてどうにだってなる。移住ではなく引越し感覚で世界に出ればいいんです」
梅田望夫 (文中敬称略) |
| 梅田望夫 うめだ・もちお●ミューズ・アソシエイツ社長。1960年東京生れ。94年渡米、97年コンサルティング会社ミューズ・アソシエイツを起業。著書に『シリコンバレーは私をどう変えたか』(新潮社)がある。 |
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