新潮社

悦ばしい「逆輸入」 

柴田元幸

 2006年にペンギン・クラシックスの一冊として出版された芥川龍之介作品集Rashomon and Seventeen Other Storiesは、英語圏読者にとって画期的な刊行物だった。その理由は、主として3つあった。

1 夏目漱石や村上春樹の名訳で知られるジェイ・ルービンによる見事な訳文で、芥川作品(しかも多くは初訳)が読めるようになった。
2 これまでの評価にとらわれず、ルービンが独自の見識で18の作品を選び、それを執筆順ではなく、物語が設定されている時代に基づいて四章に分け(平安・徳川・同時代・自伝的作品)、充実した解説も付したことで、芥川文学の多様性が、一定の体系性を伴って明快に見えるようになった。
3 スコット・フィッツジェラルドや自身の立場とも重ね合わせつつ、作家芥川の栄光と悲惨を論じた読みごたえある序文(むろんこれもルービン訳)を村上春樹が寄せていた。

 こうした、広い視野から芥川文学を見通せる本作りがあったからこそ、「欠点はあったかもしれないが、それら欠点ゆえにいっそう興味深い名人芸作家への最良の入門書」(ダラン・アンダーソン)といった評にもつながったのである。
 さて、今回新潮社から刊行された『芥川龍之介短篇集』は、このペンギン・クラシックスの「逆輸入版」である。芥川作品と村上序文を原文に「復元」し、日本向けに書き直した編訳者ルービンの解説が収められている。
 こうした「逆輸入」には前例がある。アメリカで編まれた村上春樹の短篇集The Elephant Vanishes: Stories(1993)が『象の消滅―短篇選集1980-1991―』として新潮社から2005年に刊行されたのがそれである。作者のエッセイが付され、作品自体にも細かく加筆したり、一作などは英訳を作者が日本語に「重訳」するといった遊びもあって、あれはあれで面白い企画だったが、逆輸入される必然性ということでいえば、この『芥川龍之介短篇集』の方がいっそう高いと思う。
 というのも、上の2で挙げた「芥川作品の多様性が一定の体系性を伴って明快に見える」という美点は、多くの日本人読者にとっても意味あるものだと思うからである。各社から出ている、セレクションもかなり似通った文庫版とは違い、この本は奥行きと広がりをもった芥川像を与えてくれる。「そうか、芥川はこういう作家なのか」という思いを、読後はっきり抱くことができる。村上春樹による序文も、一読者としてのみならず、現代作家が作家としての自分との距離を測りつつ古典作家を語った文章として非常に面白く読める。
 自著『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』(畔柳和代訳、新潮社)でもそうだったが、ジェイ・ルービンは、作品のよしあしをめぐる判断が非常にはっきりしていて、かつそれを実に明快に言語化する。巻頭に収めた解説でも、芥川のある種の作品については「アイロニーが強すぎて、結末のどんでん返しは計算されすぎ、登場人物たちは平板すぎ」ると手厳しいが、すぐれた作品に関しては「歳のいった読者にとって芥川が意味を持ちつづけるのは、芥川自身の心の中に自分の才気への疑念が忍び込み、あでやかな衣装よりも募る不安の方が大きくなったときの作品だ」と的を射た評価をしている。
 具体的な作品選びでも、ほかの芥川ベスト本では見かけない「掘り出し物」がいくつも入っている。特に、ある男が(1)自分が死んだことになっているのを発見し、(2)死後三日を経ていて、(3)かつ脚が腐っているため馬の脚を代わりにつけて、まさに「馬脚をあらわす」のを避けようとさんざん苦労する、という奇想天外な「馬の脚」などは、シュールなユーモアがどこか暗さをたたえていて実に印象的である。
 ジェイ・ルービンによる翻訳の見事さは、残念ながらこの逆輸入版だけでは楽しめないわけだが、興味ある方はペンギンと較べてみても。実は僕自身、草稿段階で読ませてもらい、両者を較べてみて、なるほど日→英翻訳はこういうふうにやるものなのかと、大いに勉強になりました。

(しばた・もとゆき アメリカ文学)
波 2007年7月号より

単行本

芥川龍之介短篇集

芥川龍之介/著、ジェイ・ルービン/編、村上春樹/序、畔柳和代/訳
発売日 2007年6月29日
円(定価)

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