新潮社

村上春樹のユーモア感覚

斎藤英治

 以前から漠然と感じながらも、今まであまり真剣に考えてこなかったことだけれど、村上春樹の小説の魅力のひとつはそのユーモア感覚ではないだろうか。ちょうどヒッチコックのスリラー映画に控え目なユーモアがいつも漂っているように、村上氏の文章には独特のユーモアがいつも溢れていて、それが彼の小説の隠し味になってきたと思うのだ。
 もちろん、村上氏は純文学(Serious Literature)の作家である。彼の作品には、現代人の孤独感や不条理感などが濃密に立ち込めていると思う。しかし、観客を怖がらせるには、ときにはユーモアも必要だと感じていた映画監督のように、村上氏もまた、シリアスな物語を語るにはちょっとしたユーモアが役に立つと考えているのではないかと思う。そういった調味料が料理をいっそう引き立てるのだと。
 今回出版された短篇集『めくらやなぎと眠る女』でも、そのことをあらためて感じた。
 だが、それについて書く前に、まずはこの作品を紹介しておこう。『めくらやなぎと眠る女』は、海外で独自に出版された英語版の傑作短篇集――1993年の『象の消滅』――の第2弾である。前作には収められなかった忘れがたい過去の作品や、1990年代から現在に至る期間に発表された多くの作品が収められている。もちろん、『東京奇譚集』の作品も入っているし、映画化で話題になった「トニー滝谷」や、後に長篇『スプートニクの恋人』に吸収された「人喰い猫」なども収められている。『神の子どもたちはみな踊る』の作品が収録されていないのはちょっと残念だが(海外では『After the Quake』というタイトルで単独で出版されているので、あえて収めなかったのだろう)、『象の消滅』とともに、村上氏の短篇世界の魅力を余すところなく伝える内容になっている。
 さらに、これはボーナス・トラック(特典)とでも言うべきだろうが、この本には未発表の「蟹」という奇妙な味の作品も初収録されている。これは、『回転木馬のデッドヒート』に収められていた「野球場」という短篇から派生した作品。その短篇のなかで、語り手の作家は一人の青年から送られた短篇を読むのだけれど――ただしストーリーしか紹介されない――それをじっさいに物語の形に仕上げたものだ。短篇内短篇とも、過去の作品のスピンオフとも呼べそうな異色作であり、ファンには垂涎ものだろう。
 さて、そんな『めくらやなぎと眠る女』でも、村上氏のユーモア感覚は、シリアスな作品をより引き立たせる妙味として機能していると思う。たとえば、「我らの時代のフォークロア」に出てくる、「ほとんど新品の男性用生殖器を身につけた我々......」という一節。この「ほとんど新品の男性用生殖器」という卓抜な表現は、10代の旺盛な性欲を醒めた目で表現していて、優等生カップルをめぐる悲喜劇にふさわしい滑稽な味を与えていると思う。(ちなみに、ここは英語版では、"our nearly brand-new genitals"と訳されている!)
 また、最近の短篇の「ハナレイ・ベイ」。これは、ひとり息子を失った母親をめぐる痛切な物語なのだが、途中からアボット&コステロを思わせる長身とずんぐりの若者二人が出てきて、読者の気持ちを(おそらくはヒロインの気持ちをも)和らげてくれる。とくに、彼らの話すちょっと頭の悪そうなセリフ――「ほらね、そういうとこ、やっぱダンカイっすよ」(英語版でも、"That's it! You are a boomer!"とバカっぽく訳されている)――は、読む者を微笑ませずにはおかない。こういった愉快なキャラクターやセリフが、この痛切な物語をさらに胸に迫るものにしているのだ。
「我らの時代のフォークロア」には、「深い哀しみにはいつもいささかの滑稽さが含まれている」という印象的な一節が出てくるが、それはまさに村上氏が多くの短篇小説のなかで実践してきたことだと思う。そこを味わってほしい作品集だ。

(さいとう・えいじ アメリカ文学者)
波 2009年12月号より

単行本

めくらやなぎと眠る女

村上春樹/著
発売日 2009年11月27日
1,760円(定価)

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