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立ち読み

2008年7月号


[『赤毛のアン』誕生100年記念対談]梨木香歩×茂木健一郎

100歳のアンに惹かれます

ファースト・インプレッション/『赤毛のアン』は国づくり神話
/「エミリー」のひらめき/島のマジックを創ったのは?


   ファースト・インプレッション

茂木 梨木さんがアンと出会ったのは何歳ぐらいのときですか?
梨木 十五、六歳ぐらいでしょうか。
茂木 きっかけは何で。
梨木 小学校のときも機会はあったのですが、アンのあのハイテンションが自分では受けとめきれない感じがして、これはちょっとペンディングと思い、普通の本好きが辿るような読書コースに入っていきました。高校生になるころ本当に疲れてしまった時期があり、そのときに読み始めたのが始まりです。
茂木 第一印象はどうでしたか。
梨木 それまでも、ちらちらとは見ていたんです。だからこれが自分にどういう影響を与えるだろうかというのは、うすうす分かっていました。
茂木 僕が初めて『赤毛のアン』を読んだのは、小学校五年か六年のときでした。
梨木 それは早いですね。
茂木 読み出したらとまらなくなって、シリーズ全部を繰り返し読みました。それで中学校一年ぐらいのときには、頭の中が完全にアンに染まっていたんです。僕にとって異文化というか西洋文化との、最初の出会いでした。で、それからは非合法活動になるわけですよ。恥ずかしいから友達には絶対に悟られないようにしようと……(笑)。だって、中学生男子にとって、そういうものに興味があると悟られるのはかなりまずい。でも心の中では、校舎脇のあの森はオーチャード・スロープで……(笑)。
 高校生のときに語学研修でカナダに行ったんです。お店にアンという名札をつけている人がいて、今考えると本当に恥ずかしいんですが、“Your name does not have a spell of e.”とか何とか話しかけて――。そのとき買ったのが“Anne of Green Gables”で、また一気呵成に読みました。どきどきして、胸の中に蝶が一匹飛んでいるようでした。
梨木 素敵な表現ですね。

   『赤毛のアン』は国づくり神話

茂木 僕はレベッカ・デューが、最後のお別れに〈柳風荘〉の窓からバスタオルを振るところが好きなんです。
梨木 『アンの幸福』の最後のシーンですね。私は、デイビーがハリソンさんみたいに唾が吐けるようになりたいと言うところが好きです。どういうことだろうとずっと自分の中で引っかかっていたんです。イギリスで男の子がそれこそ鉄砲みたいにピューとやっているのを見て、ああこれかと。たしかに男の子は格好いいと思うだろうなって。――でも何でこんな情けないことしか思いつかないのかしら(笑)。
茂木 そういう小さなエピソードをうまく描いていますよね。アンが夢にまで見るふくらんだ袖とか。
梨木 私は誰が一番いとおしいかと聞かれれば、マリラかなという気がします。
茂木 僕もマシュウだとかマリラだとか、ああいう人たちはいいなと思います。でも最近いろいろ振り返る機会があって、やっぱりアンかなとも思うんですよ。アンが来ると周りが変わっていくでしょう。特に一作目の、最初に登場するあの強烈な光り輝いている感じがすごくいい。僕は以前から「アン」はキリスト教そのものとすごく近いという気がしています。アンが登場すると、マシュウとかマリラのような、もうほとんど隠遁しているような人たちがまた生き生きと動き始めたり、近くにいる人の人生を変えてしまいます。アンのあの力というのは何なんでしょうね。
梨木 新しい国の児童文学には、若くて新しい力が古い世代を変えていくというのが多いんです。ヨーロッパだと、若い力が古い伝統的なものにぶつかって、内省を深めていくんですが。
茂木 アンは内省しませんね。
梨木 しません。アンは一見周囲をどんどん変えていくように見えながら、実は共同体の中で自分が受け入れられるように自分自身をコントロールしているんです。リンド夫人にきついことを言われて絶対許せないと思っても、何とか共同体の中で生きていくために、自分自身の個性を曲げない形で彼女に謝ることができる。そういう姿にはモンゴメリの、群れへの強い絆を感じます。
茂木 アンが島に来たのはアクシデントだったんです。マリラとマシュウはそれを神の配剤とまでは言わないまでも、受け入れるでしょう。同じような考え方は、作品の中に事あるごとに現れています。アンが老いたマリラと一緒に暮すために、それまで考えていた将来とは違う道を選択するとか。
 それが、今おっしゃった共同体と個人の関係を含めて、どうも当時の僕が慣れ親しんでいた日本の文化とは違っていたと思うんです。とてもポジティブでキリスト教というふうに言いましたが、おっしゃったように開拓者精神ということなのかもしれません。
梨木 ピューリタニズムに色濃い隣人愛というか――。
 登場人物は脇役ほど面白くて、レベッカ・デューなんてきちんと書き込まれているのに、一番薄っぺらい印象なのが主要メンバーの一人のはずのギルバートなんです。
茂木 梨木さん、さすが小説家ですね(笑)。それはどうしてだと思われますか。
梨木 ギルバートというのはカナダ人が考える理想の国家そのものなんですよ。分別があって、明るくて、着実で、滅茶苦茶なことはしない代りに地に足のついた理想を追い求めている――。アンは、その理想の国家が手に入れようとするスピリットなんですね。
茂木 『赤毛のアン』は国づくり神話。
梨木 まあ、言ってみれば(笑)。個人の内面で起きている個性化のエネルギーの動きは、いつでも国づくりに匹敵するようなものかもしれませんね。

   「エミリー」のひらめき

茂木 僕はエミリー・シリーズも読んでいますが、こちらのほうが文学的にはずっと深いですね。
梨木 私は、エミリー・シリーズはとても面白いと思っています。特に彼女が未婚の年寄りの姉妹に引き取られるところ。親戚たちがあの子はああだこうだと言っているのを、テーブルの下に隠れてエミリーがじっと聞いているあの辛い辛い場面は、きっとモンゴメリ自身が体験したことでしょう。やはり孤児同然で、厳格な祖父母に育てられ、決してそれはマリラとマシュウのようではなく、最後まで愛されたという確信を彼女は持てなかった。
 アンという存在は、モンゴメリが共同体の中で生きにくさを抱えながら、でももしかしたら違う生き方もあったんじゃないか、癇癪を起こしたり好き勝手やってもこんなふうに愛されたらどんなに素晴らしいだろうという、一種の福音のメッセージかもしれません。日本の社会も村落共同体的なメンタリティが強くて、突出したものは許さないみたいなところがありますから、アンが憧れられるのは不思議ではないと思います。
茂木 アンを好きになるのは、日本の村落的共同体の中で、潜在的に生きにくさを感じている人だということになりますか。
梨木 アンに出会うと、こんな生き方もあるとホッとするんじゃないかしら。
 中学・高校のころ、よく欧米の翻訳小説を読んでいました。モミとかトウヒとかエゾマツとかいっぱい出てくるんですが、私が生まれ育った南九州とは植生が全く違うんですよ、照葉樹林文化ですから。それがすごく悲しくて、つらくて……
茂木 変わってますね、それ。
梨木 そうですか。でも、山の中に引っ越したあと、夜、屋根の上に出ると、秋の満月のときだけ月の光で本が読めるんですが、周りに目をやるとずっとなだらかな山の斜面を覆う照葉樹林の葉っぱがすべて一枚一枚月の光を照り返して、本当に白銀に輝くんです。そのときにエミリーの言うひらめきみたいなものを感じましたね。
茂木 すばらしい。「エミリー」が読みたくなっちゃった。お話を伺っていると、梨木さんとエミリーが重なってきました。
梨木 私は茂木さんとアンが重なってきました(笑)。

   島のマジックを創ったのは?

茂木 僕は育ったのが埼玉のど田舎なんです。その後長じて、たとえばザルツブルグなんかに行きますね。すると文化的な蓄積が全然違うという感じがしたんです。で、分ったんですが、もしヨーロッパのそういう街で育ったら感じなかったような、欠乏感みたいなものを、いつも感じていたような気がします。
 プリンス・エドワード島には二回行ったんですが、素晴らしい景色なんだけど、作品から感じられるような特別なものはありませんでした。
梨木 むしろ寂しいところですね。
茂木 そういう場所で何とか自分の想像力を耕そうとアンは苦闘しますが、あの姿は恐らくモンゴメリ自身の姿と重なるんでしょうね。
梨木 ここが世界一美しいと連呼しますよね。あれで毎回土地の精霊の力を更新してる。開拓民というのは、たまたまここにいるけれど、他の場所だったかもしれない。自分たちを今いるところに根づかせ漂泊の思いを抑えるためには、そこが一番いいと自分に言い聞かせ、それを事実にしてしまわないといけない。
 また、モンゴメリは両親の後ろ盾がなくて共同体を支えにするしか生きる術がなかったので、共同体や土地への愛情がほかの人よりずっと強烈な気がします。
茂木 島に行くと、マジックはモンゴメリと村岡花子の創作だということがわかります。訪れた人が自分でアクティブに精霊を甦らせるという作業をしなければ、マジックはないんです。
梨木 村岡花子は島を訪れたことが無いそうですが、その必要はなかったんだろうなと思います。
茂木 島は、モンゴメリと村岡花子の心の中でつくられたんですね。そういうものが文学というものの本質ですね。
 もう一つ、女性は早く結婚して家庭に入れという価値観が当時はあったと思うけれど、作品にはマリラ、レベッカ・デュー、ハリソンさんとか、普通の生き方から外れた人がたくさん登場します。そういう人たちにちゃんと居場所があって、金子みすゞじゃないけど、「みんな違って、みんないい」ということが書けているのがすごいと思います。
梨木 そうですね。けれど、現実にはなかなかああはうまくいかないと思います。それを、でも共同体はこういうふうにもあり得るという、一つの可能性の提示としては本当に惹かれるものがあります。
茂木 村岡花子はちょうど戦争中に訳し始めたわけですね。まさに近代日本が危機に陥った時期です。僕はね、ヒューマニズムというのが日本には全然入ってない気がするんですよ。これは大変大きな問題で、そのことについてすごく心を痛めています。ヒューマニズムが、どうしてもこの国には根づかない。なぜか知らないけれど。
「赤毛のアン」は、ヒューマニズムそのもののような気がしています。どんな人にも居場所があるとか、最後に信じるものは信頼だとか。日本文化にはそれがありません。ヒューマニズムそのものである「アン」を、ブームとしてただ消費してしまうのは、あまりに勿体ないと思います。
 そして、戦争中家じゅうの原稿用紙をかき集めて翻訳を進め、日本の「赤毛のアン」のスタイルを創った村岡花子の功績を、縮少再生産でただ受け継いでいくだけでは、本当に勿体ないと思います。
梨木 私は、モンゴメリはヒューマニストというより、むしろナショナリスティックな人だったと思っています。ただパッチワークとかジャム作りとかの表面的なものだけでなく、日本人全体のメンタリティにかかわる何かもっと深い深いところで、「アン」は働き得ると思います。
 ところで『赤毛のアン』の終りのほうで、マシュウの通夜にマリラとアンが話をする場面があるんです。村岡訳では残念ながら省略されていたのですが、今回100周年記念の新装版でお孫さんの美枝さんが補訳されました。どこが繋ぎ目かわからないほど村岡訳のテイストがあふれんばかりに生きていて、素晴らしいと思いました。
茂木 (編集者に)本、送ってください。
 ――お送りしてあります(笑)。
〈大森・赤毛のアン記念館にて〉


(なしき・かほ 作家)
(もぎ・けんいちろう 脳科学者)


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