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注2 |
一五二六年(または一五二四年)、松平清康は宇津忠茂(彦左衛門の祖父)とともに、山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。その結果、信貞の居城であった岡崎城を手中にすることとなった。 |
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注3 |
清康の子・広忠は、清康が横死した後、若くして岡崎城主となったが、大叔父の松平信定によって岡崎城を追われた。一五四二年、大久保忠俊(彦左衛門の伯父)は、密かに挙兵の準備をして信定を追放し、広忠を岡崎城に入城させた。 |
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注4 |
忠隣の与力であった大久保長安は各地の鉱山奉行を勤めていたが、一六一三年、長安の死後、幕府内で忠隣と対立していた本多正信・正純親子が、幕府へ納めるべき金銀を長安が横領していたと告発し、長安の七人の息子を含む遺族が処刑された。忠隣は処分を免れたが、その後、忠隣の養女と山口重政の無断婚姻をまたも本多親子に讒訴され、一六一四年、遂に改易となり近江へ追放された。本多親子は元・武田氏の家臣であった馬場八左衛門という老人を使って、忠隣に叛心あり、と家康に讒言させたとも言われている。 |
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注5 |
改易となった大久保一族の中で、彦左衛門は唯一大坂夏の陣に御槍奉行として参戦した。真田幸村の奇襲により、家康陣は一時窮地に陥ったが、その際に、「(家康の)幟旗が見えなかった」と証言する武将の多いなか、彦左衛門だけが「御旗は立っていた」と主張し続けた。 |
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注6 |
大久保忠隣の家が改易された後、彦左衛門は三河の額田(現・愛知県額田郡幸田町)に一千石を拝領した。現在でも幸田町では、年に一度「彦左まつり」が催されている。 |