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波
立ち読み
2010年8月号
闇彦
阿刀田高
幼いころから「私」の眼前に見え隠れする不可思議な存在〈闇彦〉。それはどこから来て、何を伝えようとしているのか。お婆あの言葉、死んだ少女、海沿いの温泉宿、ギリシャの血をひく美貌の女……。人生の要所要所に現れる〈闇彦〉に導かれるように、「私」は神話と物語の淵源に遡っていく。国際ペン東京大会2010記念特別書下ろし作品。
【インタビュー】阿刀田 高/〈闇彦〉の血、そして物語の誕生┃阿刀田 高『闇彦』
――この『闇彦』は、国際ペン東京大会2010を記念した書下ろし小説ということですが。
阿刀田
今年の九月二十六日から、二十五年ぶりに、日本で国際ペン大会が開催されます。大会の「本会議」は運営的な会議なんですね。でも、海外から多くの文筆家が来日するのですから、それだけではつまらないので、九月二十三日から「文学フォーラム」を開催することにしました。そして、もうひとつ、大会を記念して、書下ろしの小説に英語版を添えて出版しようじゃないかということになったのです。私は、今、日本ペンクラブの会長を務めています。代表を務めている以上これは書かねばならないと思って、早速執筆にとりかかりました。二年ほど前のことです。
今回の国際大会のテーマは「環境と文学」。亡くなった立松和平さんのように、書けば必ず環境と何か接点があるというタイプの人なら何の問題もないのですが、私のような作風だと、環境とは結びつきにくい。では、その中でギリギリ、環境と関われるようなものは何なのだろうかと考えた時に、今回の『闇彦』のテーマが出てきました。山と海のせめぎ合いの物語が、日本の神話やギリシャ神話の中にありますね。例えば、海彦、山彦の神話です。でも、そこにもう一つ語られていない存在があるということがなんとなく気になっていたんですね。その語られていない存在をキーにして物語を作っていくことができるかなと思ったわけです。
――主人公の「私」が作家で、その経歴が阿刀田さんと似ているところもあるので、この作品は自伝的な小説という読み方もできるのではないでしょうか。
阿刀田
もともと自伝的なものを書こうという思いはなかったのです。しかし、この小説では物語の成立という思案が非常に重要な部分をしめているので、主人公の「私」が小説家でないと、設定にピタリとはまらない。そして、主人公が作家であるということになったら、読者は当然私を想像するわけですよ。
「私」ではなく、もっと別な名前の主人公にするかということも考えたのですが、そうすると主人公の内面を描写するのが非常に難しくなってくる。この小説では、素朴な体験をそのまま出せる「私」という主人公の方が書きやすそうだと考えたのです。しかし、この小説の主人公は「私」だが、実際の阿刀田高ではありません。そこで、早い段階で、小説の中の双子の命名にからめて、「私」=阿刀田高ではないということを読者に伝えるようにしました。しかし、色々な具体的な体験もそうですが、作品の中で思案されていることは、私が考えたこと、生きてきた道筋と非常に近いものであるのは間違いありません。
――阿刀田さん御自身の小説論を物語で書いたというふうに読むこともできるわけですね。
阿刀田
この作品には、自分が物語の書き手として考えてきた色々な要素を盛り込みながら、物語とは何なのだろうか、なぜ人がストーリーを、小説を好むのだろうかということについて、自分なりの考えを小説の中で述べてみようという意図があったのは確かです。ただ、こんなに他の人の作品の引用が多い小説というのも珍しいかも知れませんね。小説としてはタブーを犯しているのかもしれません(笑)。
物語には、世の中に存在する、そんなに特別なことではない、当たり前の、例えば、「悪いことをしてはいけない」というような、実に単純なことを見事な文章で書くことによって説得力を持たせるという役割もあるんです。これは「知っていますか」シリーズで、聖書を取り上げたときに思ったことなのですが、欧文で書かれた聖書というのは、素人の私が見ても文学としてやはり美しい。だから、みんなに読まれて、ここまで残ってきたわけです。ある意味では単純である、誰もがそうだなと思っているようなことでも、見事に表現することによって、人に訴えることができるわけです。当たり前のことを素晴らしい表現で印象深く鮮やかに書くということも、これまた文学の仕事です。
そして、やはりストーリーというものがないと、人間は文学に対して深くは携わっていられないのだろうな、ということも思いました。聖書も、ストーリーがあるからこそ面白いのです。冷蔵庫の取り扱い説明書とかを読んでも、面白くないのは当然ですよね。面白さということになったとたんに、そこにはストーリーというものが、顔を出してくるんです。
――作品の中で引用されている中島敦の『狐憑』のように、ある日突然に、急にストーリーを語れるようになる、ということが本当にあるのでしょうか。
阿刀田
ええ、それには小説家として、ある種の実感がありますね。ストーリーというものは、急に語れるようになって、急に「つきもの」が落ちていくのです。自分が小説家をやっていて、どこかそういう思いがあるんですね。どうして私はこんなに語れるように、書けるようになったのだろうか、こんなにストーリーが次から次へと浮かぶようになったんだろうかと思う反面、いつかこれは落ちる、もうこんなふうには書けない日が、ある日突然に来るのだろうなという予感もある。これは、自分の中で実感としても思うし、過去の小説家を見ていると、実際そうなんですね。
でも、これはあくまでもある種の能力を持っている人たちのことで、物語を語れない人はまったく語れないわけです。その能力というものが、〈闇彦〉の血と大きく関わっているんです。〈闇彦〉が一体何者なのかは、小説を読んでいただきたいのですが、小説家というのはどこかに〈闇彦〉の血を継いでいる。〈闇彦〉のDNAが小説家の体の中に記憶されていて、それがある日突然発現すると、アイディアが急に湧いてくる、というわけです。
もう一つ、〈闇彦〉の血を見抜く者として、女性がいるんですね。自分がその主たる行動者にはならないが、男の中の〈闇彦〉の血を見抜いて、そのことを伝える重要な役割をする。〈闇彦〉の血を発動させるのに大きな役割を持っているのが、女性であるということですね。作中に登場する、同級生の少女、ギリシャの血をひく女優、海辺の宿の「婆っちゃん」。すべてそうですね。特に、「婆っちゃん」は、「私」の中に〈闇彦〉の血が濃く流れていることを知っている。それを発動させることで、「私」に物語を紡がせていくことができるのではないかと感じたんですね。
小説で、そういう、茫漠とした物語を語る能力とは一体何なのだろうかというのを、自分の体験を中心に書いてみようということが、この作品の全体のモチーフであったわけです。その意味では、国際ペン大会記念作品としてふさわしい作品になったかも(笑)。
物語の誕生というか、語り部の誕生、小説家の誕生の淵源とは何かを考える小説を書けたような気がします。
(あとうだ・たかし 作家)
*本作は、9月23日(木)の国際ペン東京大会2010「文学フォーラム」開会式で朗読されます。「文学フォーラム」への参加方法など、詳しくは日本ペンクラブホームページ(
http://www.japanpen.or.jp/convention2010/
)をご覧ください。
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