波 2017年11月号

短期集中連載

 ナミ戦記/南陀楼綾繁

あるリトルマガジンの50年史(2)1976~86

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★野坂昭如の苦闘

 前回の補足から。『』の対談には、小冊子として「純文学書下ろし特別作品」に挟み込まれたものがあると書いた。同誌にはこのシリーズの広告が載っており、そこで予告された作品には刊行されずに終わったものもあることは、前号「編集室だより」で触れられている。野坂昭如もその一人だ。
 野坂は1971年9・10月号のインタビュー「内なる焼け跡闇市」で次のように述べた。
「今とりかかっている書下ろしは、『因果応報』がテーマです」「今年中になんとか目鼻をつけたいと思っています」
 しかし、その書下ろしは1年が過ぎても刊行されなかった。その間、編集者から何度も催促があったのだろう。73年2月号には「ことごとしき予告――書下ろし小説のこと」を書いている。それによれば、この話は7年前にすでにあり、「いくつか、構想を申し上げもしたのだが、なりわいの苦しまぎれに、これも短篇仕立ての切り売り、一字も書きはしなかった」。しかし、ようやく書くべきことが見えてきて、ノートを取り取材もしたという。「今度の小説は、まだ生きている人間たちにささげる、鎮魂歌といっていい」と述べている。
 しかし、そんなにうまくは進まなかったようだ。
 その後、3年近く経っても、純文学書下ろし特別作品の広告に野坂の名前は見つからない。そして、『波』76年1月号から「火系譜」の連載がはじまった。この時点で、書下ろしで完成させるのは無理だということになったのだろう。これが「予告」された書下ろし小説そのままであるかは判らないが、構想の一部は一致するようだ。この連載は77年3月号で完結する。同号の「編集室だより」には「今秋刊行予定」とあるが、その後、刊行されることはなかった。本人にとって不本意な出来だったのだろうか。なお、「火系譜」はのちに『20世紀断層 野坂昭如単行本未収録小説集成』第1巻(幻戯書房)に収録された。
 野坂昭如のことで、もうひとつ。
 74年9月号で野坂が書いたコラム「かもめを斬る」は、「『かもめのジョナサン』は、まことにつまらない小説である」と書き出している。ヒッピーの風俗を取り込んで流行したことを指摘し、版元である新潮社の「商売上手」を皮肉っている。五木寛之の訳者あとがきだけは「思わず手に汗をにぎらされる名文である」と褒める。書評を頼まれたからといって、提灯持ちはしたくないという野坂の姿勢がうかがえる。
 この時期の同誌は、予定調和を嫌ったのか、有吉佐和子のベストセラー『複合汚染』について、75年4月号で、有吉が読者からの批判にこたえる文章を書き、5月号と7月号ではそれぞれ専門家にこの作品を論じさせている。

★地味な作家に出会える

 初期の『波』の誌面を眺めていると、「渋い作家がいるなあ」と感じる。
 目についた名前を拾ってみると、稲垣足穂(70年1・2月号「廻るものの滑稽」や70年11・12月号の表紙の筆蹟「わたしは世界の果からネクタイを取換えにやってきた」)、藤枝静男(72年7月号「筆まかせ」、74年1月号「遠望軽談」、76年8月号「私の中の日本人 中村春二」ほか)、尾崎一雄(74年4月号「私の中の日本人 基廣・八束」、76年6月号「“老い”をみつめて」〔インタビュー〕、77年9月号「円地文子さんとの初対面」ほか)、島村利正(78年2月号「幻の名写真集と小川晴暘」)、川崎長太郎(80年5月号「作家の生活 生い立ちの記」)、小沼丹(81年6月号「あの頃」)など。1970年代に再評価され、新刊が次々と出た稲垣足穂を除けば、いずれも地味な、しかし文学好きにとってはたまらない作家である。
 上林曉は「私の中の日本人 徳廣伊太郎」(74年11月号)、「作家の生活 病気療養中」(79年9月号)を寄稿している。上林は1962年以来、半身不随となっていたが、不自由な体で小説を書き続けた。彼を献身的に介護した妹の徳廣睦子は74年6月号に「兄の左手」というエッセイを書いた。
「兄は原稿は左手で書く。右側を下にして寝たまま、敷布団の上に置いた原稿用紙に、4Bの鉛筆で、一行あきに大きく書く。(略)終りの方になると疲れて、だんだん字の乱れはひどくなる。全然判読がむつかしいときもある。そんなときの清書は殆ど口述筆記と同じである」
 この文章は、上林の『随筆集 幸徳秋水の甥』(新潮社)に収録され、のちに徳廣睦子のエッセイ集『兄の左手』(筑摩書房)の表題作になった。私も上林の原稿を見たことがあるが、その乱れかたに息をのんだ。
 これらの書き手は、ベストセラーに縁がなく、雑誌の顔になる存在では決してなかったが、息長く書き続け、少数だが熱心な愛読者を持っている。そして、彼らの担当編集者自身がおそらくその作家のファンでもあり、機会をとらえては、文章を書かせたのだろう。この時期に新潮社から刊行された尾崎一雄の『ある私小説家の憂鬱』、川崎長太郎『淡雪』、島村利正『奈良飛鳥園』などは函入りで、たたずまいのいい本だ。古本屋で見つけると、買っておきたくなる。
 なお、これらの本の多くを編集したのが山高登だ。のちに木版画家として活動する山高は造本にもこだわった。今年刊行された『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』(夏葉社)には、山高が売れっ子作家ではなく、「初版二〇〇〇部ぐらいの」私小説作家を訪ね歩いたとある。尾崎一雄は『冬眠居閑談』のあとがきに「切抜を全部新潮社の山高登氏に渡して、原稿の取捨、配列、それに装幀などの一切を同氏にゆだねた」と書いたという。

★大江・井上・筒井の時代

 私がはじめて『波』を読んだのは1980年代の前半、中学から高校にかけてだ。小学生で星新一筒井康隆を知り、SF雑誌や彼らの関わった雑誌(たとえば、筒井が編集していた時期の「面白半分」)を読み、そこから井上ひさし、野坂昭如らを知り、背伸びして筒井が『みだれ撃ち涜書ノート』(集英社文庫)で紹介したラテンアメリカ文学や心理学の本にも手を伸ばした。そんなふうに、読書の領域を広げていたその頃の私にとって、『波』は指南役みたいな雑誌だった。もっとも、よく判らず読み飛ばしたページもずいぶんあった。
 そういう個人の体験を離れてみても、1980年代前半の『波』の主役は、大江健三郎、井上ひさし、筒井康隆だったと思う。
 大江健三郎が創刊号から『波』に登場していることは、前回も触れた。73年11月号では純文学書下ろし特別作品『洪水はわが魂に及び』上・下巻の刊行にあたり、「作家自身のなかのecritureする者と、lectureする者との、幾分他人行儀な対話」という架空インタビューを掲載した。
 78年5月号は通算100号にあたるが、大江は「作家の生活――『波』一〇〇号に寄せて――」を寄稿。「『波』一〇〇号。そのほとんどを、しかも一冊ごとすっかり読む、というようにぼくは読んだだろう」と書き出されており、『図書』や『波』のような薄い雑誌を好むのは、「はじめのページからしまいのページまで読んで、編集者の全体としての構想力がはっきりとらえられる」からだと述べる。そして、『波』のなかでもっとも印象深いものとして、安部公房の『笑う月』(連載時のタイトルは「周辺飛行」。71年3・4月号~75年6月号)を挙げている。自身の見た夢をスケッチした本書を、大江は「この作家の円熟期を記念する短篇集」であり、「わが国のこの十数年の、短篇小説的試みの白眉であろう」と評価する。この前後の大江は、76年に『ピンチランナー調書』、79年に『同時代ゲーム』、82年に『雨の木レイン・ツリー」を聴く女たち』を、いずれも新潮社から刊行している。
 この100号に、大江とともに登場しているのが、井上ひさしと筒井康隆だ。大江は1935年生、井上と筒井は1934年生だから、同世代と云っていいだろう。この号で、井上は「私家版日本語文法」を連載中。筒井は『富豪刑事』の刊行にあわせ、中島梓(栗本薫)との対談に出ている。
 井上は『波』71年3・4月号のコラム「表裏現代喜劇合戦」につづき、72年5月号の「取材日録」を書いている。ページ下段のコラム欄である。この欄は一段組よりは扱いが小さいが、水上勉、五木寛之ら著名作家も書いている。井上は同年9月号の同じ欄でも「週単位・三年単位・一生単位」を書いている。筒井康隆の初登場も同じ年のコラム欄。12月号で「『俗物』から『俗物図鑑』へ」を書いた。
 77年9月号では、井上と大江が「文学をどう活性化するか」と題して対談している。これは『大江健三郎全作品』第Ⅱ期の刊行にあわせてのもの。「ちょうど同じ年代に四国と東北の、『地方』に、つまり両側の周縁に生れ育った人間という共通点」のある2人が、言葉の仕掛けやパロディについて語り合っている。
 80年10月号からは、筒井の連載「夢――もうひとつの現実」(7回目から「夢――もうひとつの虚構」に変更)が開始。のちに『着想の技術』に収録された。
 81年2月号から井上の連載「自家製文章読本」が開始。この年の7月号では、井上の『吉里吉里人』刊行にあわせて、梅原猛小田島雄志の対談「『吉里吉里国』を歩く」を掲載している。84年に単行本化された『自家製 文章読本』は、ベストセラーになった。
 新潮社では10万部以上売れた単行本は、記念として天金・革装本4部をつくる決まりがある。うち2部は著者に手渡され、2部は社内で保管するそうだ。『自家製 文章読本』もこの特装版がつくられた。ちなみに、『波』連載分で同じ栄誉を受けたのは、年代順に、遠藤周作イエスの生涯』、灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』、山口瞳『居酒屋兆治』、櫻井よしこ何があっても大丈夫』、蓮池薫拉致と決断』、池上彰超訳 日本国憲法』、橘玲言ってはいけない―残酷すぎる真実―』となる。
 83年からは『筒井康隆全集』の刊行がはじまり、4月号では筒井と堀晃の対談「完璧な全集になりそうだ」を掲載。その同じ号から、大江健三郎の読書エッセイ「小説のたくらみ、知の楽しみ」が連載開始。ある回では、井上ひさしと筒井康隆の名を出している。そして、84年5月には純文学書下ろし特別作品として、筒井康隆の『虚航船団』が刊行された。純文学とSF・パロディが結びついた本作には、「爆笑の純文学」というキャッチコピーが付された。
 大江・筒井・井上の三者の関係は、84年に岩波書店が創刊した雑誌「へるめす」に引き継がれる。同誌の3人の鼎談は、『ユートピア探し 物語探し 文学の未来に向けて』(岩波書店)にまとまっている。

★『波』の常連執筆者

 ほかにも、『波』の常連と云ってもいい執筆者を何人か挙げておく。
 まず、小林信彦。『波』への初登場は早く、70年9・10月号でコラム「『ある晴れた午後に』の青春」を書いている。短篇集『ある晴れた午後に』は、小林が新潮社ではじめて出した本だ。同じ号には、金井美恵子の『夢の時間』にあわせたインタビュー「私の『アイ』」も載っている。「編集室だより」では、育ちはじめた「新しい文学の芽」を紹介しようと、これらの記事を企画したとある。
 71年7・8月号では、小林と常盤新平の対談「ベストセラー小説の周辺」を掲載。その後、書評以外ではしばらく登場せず、81年3月号で椎名誠との対談「パロディ=感性のリトマス試験紙」に出てくる。『超人探偵』および文庫版『唐獅子株式会社』にあわせてのものだが、小林による椎名へのパロディ個人講義の観がある。
 そして、同年10月号からは「ちはやふる奥の細道」の連載開始。アメリカ人の日本研究家W・C・フラナガンのエッセイを小林が訳したという体で、芭蕉の俳句をトンデモ解釈し、ずれまくった日本文化論を展開する。まさに、パロディのお手本のようだ。新潮文庫版の解説で、色川武大は「ギャグによる叙事詩でもあり、文明批評といってもよい」と評している(この解説は『波』83年7月号の書評を改稿したものである)。83年6月号、単行本の刊行にあわせ、長部日出雄との対談「バショーをめぐる笑いと冒険」が掲載された。同年10月号では、インタビュー「小説における風俗」を掲載。これは60年代前半、オリンピックを控えて再開発の進む東京を舞台に夢をかなえようともがく青年を描いた自伝的長篇『夢の砦』にあわせたもの。
 さらに、翌年1月号では「小説世界のロビンソン」の連載がはじまる。これは87年12月号まで4年にわたる長い連載となった。「幼いころからの書物との幸福の出逢い、数々の小説へのぼくののめり込みよう・・・・・・・の個人史をこまかく、かつ微妙に記すことによって、最終的に〈小説とは何か〉という感覚・・を読者に伝えられれば、というのがぼくの願いであった」とあとがきにある。
 小林はその後も『波』で、『おかしな男 渥美清』(97年4月号~)、『東京少年』(03年6月号~)を連載し、新刊が出るたびに対談やインタビューで登場している。『波』と長く付き合った作家のひとりである。
 色川武大も、意外に登場回数が多い。79年3月号のコラム欄で「相棒にめぐまれて」を寄稿。『ぼうふら漂遊記』について。80年1月号では、松田道弘『トランプものがたり』(岩波新書)の書評。81年4月号では、和田誠『3人がいっぱい』について。同年9月号では、青島幸男の直木賞受賞について。という具合に、88年10月号の半村良『小説浅草案内』についての文章まで、10年ほどで15回寄稿しているのだ(うち1回は阿佐田哲也として)。親しい編集者がいたのだろうが、与えられたお題に楽しそうに取り組んでいる姿が思い浮かぶ。
 82年10月号の「作家の生活 ばれてもともと」は、没後に刊行された『ばれてもともと』(文藝春秋)の表題作になった。
 『波』掲載の文章もほぼここに収まっている。細かいことを云うと、同書の初出で「死ぬ者貧乏」(丹羽文雄『人間・舟橋聖一』の書評)が、1987年「7月号」となっているのは、4月号の間違い。これを底本にした『色川武大 阿佐田哲也全集』第16巻(福武書店)の初出も間違いを踏襲している。
 89年7月号の江國滋「色さんのこと」は、遺作となった『引越貧乏』を読み、故人をしのぶ文章。色川と江國は、生き方の質が水と油ぐらい違っていたが、「山の手の中流家庭というその出自」では共通性があったのだと、江國は書いている。

★コラムの立役者

『波』を面白い雑誌にしていたのは、作家の力だけではない。エッセイ、インタビュー、対談といったさまざまな記事の形式が、雑誌のバラエティをつくっていたのだ。なかでも、コラムは重要である。
『波』には68年春季号からコラム欄があった。もっとも、その内容はサイデンスティッカー「日本文学はこう読まれている」、酒井伝六「現代科学とエジプト」と格調高い。加賀乙彦が何号か続けて書いているが、基本的に毎回筆者は変わっている。
 1人の執筆者による定点観測的なコラムが載ったのは、75年5月号からの高田宏「書店の本棚」だ。「編集室だより」では、次のように紹介されている。
「数多いPR誌の中でも、特異な編集で知られる『エナジー』の編集者である高田宏氏」「書物の分野や新著旧著にとらわれずに、編集の妙、企画の妙のうかがわれる好著を書店の本棚から発掘していただこうというものである」
「エナジー」はエッソ・スタンダード石油のPR誌。斬新なテーマ、執筆陣で評判をよび、別冊「エナジー対話」シリーズには加藤秀俊・前田愛「明治メディア考」をはじめ名著が多い。70~80年代にかけては、「GRAPHICATION」(富士ゼロックス)、「たて組ヨコ組」(モリサワ)、「談」(たばこ総合研究センター)などの企業PR誌が盛んだった。それらは、一般誌に比べてビジュアル要素が多く、気鋭の執筆者が多かった。書き手にとっても、長い文章を書ける機会であり原稿料も高かった。当時の評論家、エッセイストの雑文集には、これらの企業PR誌に発表した文章が多く収録されている。しかし、現在ではそれらは休刊するか電子版に移行している。
 高田は連載「書店の本棚」で、学習参考書や科学絵本、社史などを取り上げ、文芸書以外にもいい本があることに注意を促した。この連載は78年3月号まで続き、『本のある生活』に収録された。この間、高田は何年もかけて『言海』を編纂した大槻文彦の評伝『言葉の海へ』に取り組んでおり、同年7月に新潮社から刊行された(『波』7月号に大岡信の書評が載っている)。そして、同書で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞を受賞した。
 高田は2015年、83歳で亡くなる。『波』16年1月号で、「書店の本棚」の担当者だった柴田光滋が「酒品のいい人」という追悼文を書いている。
「高田さんはとても仕事のやりやすい人だった。主張すべきはきっちりと主張するにしても、編集者にもたれかかるようなところはいささかもない。原稿はきちんとしていて、締め切りは正確、しかも眺めるほどに味のある筆跡であった」
 高田宏に代わり、コラム欄で連載を持ったのは詩人・作家の辻井喬だ。「深夜の読書」というタイトルには、当時、西武流通グループの会長・堤清二としての顔を持っていた辻井の読書生活が反映されているようだ。連載は80年3月号まで続いたが、『深夜の読書』として一冊にまとまったのは82年だった。
 次にコラムのバトンを渡されたのが、常盤新平だ。辻井の連載と2回重なる形で、80年2月号からスタートした「ペイパーバック・ライフ」は、元「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」編集長でアメリカ文学に造詣が深い常盤らしく、ニューヨークのオイスター・バーの話からはじまる。アメリカの小説だけでなく、文庫本で読める日本のミステリーや時代小説まで、暮らしの中で読んだ本を織り込んだ珠玉の文章になっている。最終回は森山啓の『谷間の女たち』を飛行機の中で読んだ話。連載中、常盤は『遠いアメリカ』で直木賞を受賞した。
 10年続いた連載が89年12月号で終わったのは、単行本『ペイパーバック・ライフ』のあとがきによれば、担当編集者の徳田義昭氏が亡くなったからだった。彼は常盤に会うたび、「僕が『波』にいるかぎり、つづけましょう」と云ったそうだ。
『波』のコラムについて、三浦雅士は次のように指摘している(丸谷才一・島森路子・三浦雅士「PR誌は出版社のステイタス・シンボル 東京ジャーナリズム大合評1」、『東京人』1996年2月号)。
「『波』がコラムで発揮してきた力は、素晴らしかったと思うんですよ。たとえば、高田宏さんなんかがコラムでなきゃ出来ない仕事をしてきている。しかし、その『波』が基盤にしてきた文芸関係の風景が、この二十年間ですごく変わってしまった」 1990年代に入ってからのコラムについては、次号で見ていこう。

★追悼文の書き手

『波』は86年8月号で、通算200号を迎えた。この号では「表現の未来」という記念特集を組み、大江健三郎・筒井康隆の対談「小説についての幸福な夢想」、水上勉、島田雅彦、立花隆、吉増剛造らのエッセイを載せた。
 特集の締めは、江國滋「二百冊の散歩」。私と同じく、編集部から無茶振りされたらしく、「とにもかくにも、机上にうず高くつみ上げた二百冊という堆積の、一冊一冊に目を通していくという作業は、正直いって、苦痛以外の何物でもなかった」と愚痴っている。ご同情申し上げます。でも、こちらはその約3倍の号数をめくっているのですよ。
 江國は『波』の連載陣のうち、「人間の死にざま」の五味康祐、「遺す言葉」の藤原審爾が連載後に亡くなったことから、「なんだか『波』に連載すると、お迎えがくるみたいで、現に『日本語八ツ当り』なる拙稿を連載中(今月は休載)の身としては、心平らかならざるものがある」と書いている。たしかに、池波正太郎日高敏隆ら、『波』の連載中に病気となり、休載したまま亡くなった人は数人いる。
『波』に掲載された追悼文を拾ってみると、75年6月号には、山口瞳による「梶山季之経緯いきさつ」が載った。梶山はこの年5月11日、取材先の香港で突然死去した。その取材は、新潮社から書下ろしで刊行されることになっていた『積乱雲』のためのものだった。梶山と最も深く付き合った山口は、知らせを受けた衝撃がさめぬ間に、この文章を書いたのだろう。山口はこのあと、『週刊新潮』の連載「男性自身」で7回にわたって梶山について書く。中野朗編『追悼』上・下(論創社)の解説によれば、山口が書いた追悼文は、梶山のものが最も多く、次が向田邦子についてのものだった。
『波』の梶山追悼文が『週刊新潮』より先に載ったのは、締め切りの関係もあったかもしれない。前回も証言していただいた宮辺尚さんによれば、『波』の校了は毎月17、18日ごろ。『小説新潮』は10日、『新潮』は月末が校了だったという。売れっ子作家については各誌の担当者同士の綱引きがあり、「仕事が重なると、社内の他誌から『困るよ』と云われたこともあります」。
 なお、同年8月号には、梶山の酒友だったテレビ西日本調査役・兼川晉の追悼文「稲妻小僧」も掲載した。「出版部長の新田ひろしさんからは、追悼文に関しても、社内の他誌とは違う書き手に依頼するように云われました」と、宮辺さんは回想する。
 この75年には、ノンフィクション作家の児玉隆也も癌で亡くなっている。まだ38歳という若さだった。これからの才能を惜しみ、7月号で文藝春秋の田中健五が「児玉隆也さんの仕事」、9月号で担当医師の尾形利郎が「患者としての児玉隆也さん」、10月号で吉行淳之介が「児玉隆也との最後の日曜日」を寄稿している。
 77年7月号には、檀一雄の死に際し、五味康祐が「檀さん、何をうらむことがあろう」と書いたが、その3年後、80年5月号ではその五味が林富士馬に追悼されることになった(6月号では秋山駿による追悼文も)。

★誌面の変化

 誌面に見られる変化についても、簡単に触れる。
 77年8月号から、末尾の「新潮社刊行案内」に「編集長から」を新設。『新潮』『小説新潮』『芸術新潮』の3誌の編集長が、最新号の読みどころを伝える。82年3月には『新潮45+』(のちに+が取れて『新潮45』)が創刊され、この欄に加わる。
 82年7月号から、文章の末尾に(おおえ・けんざぶろう 作家)というように、読みがなと肩書が入るようになった。また、この前後から、本文のどこかで新刊のタイトルや刊行月が入れられている。逆に云えば、それ以前は本文には新刊の書名が触れられていない記事がちょいちょいあり、何の本についての文章なのか、「新潮社刊行案内」を見て判ることもあった。
 78年8月号には、臨時増刊号として「新潮現代文学読本」を発行。創立80年記念出版の『新潮現代文学』全80巻を紹介する32ページの冊子だが、五木寛之・沢木耕太郎の対談「現代小説の周辺」、丸谷才一の「文学全集の話」、百目鬼恭三郎のコラム「新潮社らしい特色」など記事も充実。ちなみに、この号は「通算104号」となっている。江國さんはこの号もめくったのだろうか?
 今回の最後に、75年6月号に載った吉田健一「昼間の火事」を紹介したい。吉田健一が決まった日に神保町の〈ランチョン〉に腰を据えて飲み、そこに各社の編集者が集まったことは知られている。ある日、「いつものやうに昼過ぎに飲んでゐると店の近所の屋根から黒煙が上つてゐるといふやはりどこか近所の店の人からの注進があつた」。しかし、吉田と友人は悠々と飲み続け、ついには消防車が撒く水が天井から落ちはじめたというのだ。「併し結局は三階建ての店の二階と三階が焼けただけで我々に馴染みの店の一階は残つた」。
 こういう呆れるほど呑気な文章が、新刊にからめるわけでもなく、単発のエッセイとして載ったのが、この時期の『波』の懐の深さだった。それは、出版業界全体の余裕でもあっただろう。
 しかし、1990年代に入ると、そのような牧歌的な雰囲気は誌面から消えていかざるを得ない。それでも編集者たちは、『波』らしさを保とうと苦心するのである。

次号に続く)
波 2017年11月号より

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