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受賞のことば

書くことしかなかった

受賞の連絡をいただいたのは、末妹の誕生日でした。携帯電話を握りしめたまま、会社の廊下に座りこみながら、妹のおかげだ、まなみが助けてくれたのだと、思わずにいられませんでした。
「そんなに本が好きなら、ひろみは大きくなったら本を書く人になるかもね」と、母から作家という職業を教えてもらったとき、私は八歳でした。
暗示にかかりやすい子供だったらしく、それ以来、物語を考える癖がつきました。初めて最後まで書き上げたのは、中学一年生になってからです。学校生活に適応するのが下手だった私は、多分そのおかげで、うまくいかない現実と折り合っていくことができました。成人して、どうやら思ったよりも自分には書く能力がないらしいと悟った後でも、書く楽しさは変わりませんでした。
一度だけ、投稿した小説が最終選考まで残ったことがあります。生まれて初めて人から評価され、有頂天になった私は、力みすぎてかえって書けなくなりました。恐ろしい勢いで月日は流れ、気がつくと仕事しか見えない毎日を送っていました。子供の頃よりも選択肢は増えたはずなのに、いくら考えても、私は書くこと以外に自分が幸せだと感じる方法を見つけられませんでした。いくつかあったアイディアの中で、この話を選んだのは、結末は見えていないものの、これなら多分、終わりまで書けると思えたからです。
物語の舞台である御千木のモデルは、現在は浜松市に併合された旧天竜市にある父方の在所です。私が幼いときに、土間にあった台所は改築しましたが、古い記憶を掘り起こし、その風景を作りかえるのは楽しい作業でした。両親とも静岡県西部の出身なので、双方の祖母の遠州弁を聞いて、会話を組み立てました。
少しずつ物語が軌道に乗り始め、これなら書き上げられそうだと思い始めた頃、敬愛する宮部みゆき先生が選考されるこの賞を知りました。目標と締め切りはその瞬間に決まり、書き上げましたが、私の人生やものの考え方が、根底から覆ったのは、その後です。末妹まなみが、突然、病に倒れました。一ヶ月後、新婚十ヶ月で幸せそのものだった妹は、二十代の若さで帰らぬ人になりました。
今でも私はこの現実を受け入れられないし、自分に起きた出来事をきちんと表現することができません。ただ、こんな経験をせずにすんでいたら、この物語の結末は全く違う形になっていました。
衝撃が大きすぎると感覚が鈍るのか、実際に今の結末になったのは、妹の一周忌から三ヶ月後、今年の正月に父方の祖母が急逝してからでした。冬休みと初七日を終え、再び喪中の身となった私は、怒りに近い心境で、それまで書いていた物語の、冒頭と後半を書き直す決心をしたのです。
人を亡くす悲しみなんて、当たり前のことを一行だって書いてやるもんか。世の中には、理不尽なことや酷いこと、どうしようもないことがいくらでもあって、それをただ書いても仕方がない。私が知りたいのは、読みたいのは、それでも生きていけると、大丈夫だと、そう思える何かだ。
その何かが、どういう形か判っていて書いたのではなく、書くことで見つけようとしました。だから、この結末を書かせてくれたのは、妹まなみと、まなみを失った痛みを抱えて、それでも生きていかなければならないし、生きていけると教えてくれた、まわりの人々だったと思います。
そして心身ともに弱っていた時に、優しい言葉をくれた友人たちに、心から御礼申し上げます。私が壊れずに、この話を書き上げられたのは、みんなのおかげです。またこの物語の最初の読者であるもう一人の妹かずみ、私たち三人を育ててくれた父と母、双方の祖父母と、妹たちの良き伴侶である二人の義弟、以前書いた小説の感想を云ってくれた友人たち、過去に未完成原稿からつきあってくれた佳絵ちゃんに深い感謝の念を捧げます。私の書く基礎を作ってくれたのは佳絵ちゃんだよ、ありがとう。
最後に、宮部みゆき先生に。初めて先生の本を読んだとき、自分が書きたかった文体で、自分の書きたいことを、自分には絶対思いつけないようなストーリーで書かれている方がここにいる、と衝撃を受けました。誰よりも尊敬し、常に仰ぎ見ていた方に、この物語を選んでいただけたことが、今でも信じられません。この栄誉に恥じることのないよう、これからも拙いながらも書き続けていきたいと思います。ありがとうございました。

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