山本周五郎賞



第十一回山本周五郎賞


選評


阿刀田高
阿刀田高
井上ひさし
井上ひさし
逢坂剛
逢坂剛
長部日出雄
長部日出雄
山田太一
山田太一

  阿刀田 井上 逢坂 長部 山田 合計
そは何者 3.5 3.5 4.0 3.5 3.5 18.0
鬱─うつ─ 4.0 4.0 3.5 3.5 3.5 18.5
しゃべれども
しゃべれども
4.0 3.5 4.5 4.0 4.0 20.0
ナイフ 3.5 4.0 4.0 4.5 5.0 21.0
BRAIN VALLEY 3.0 3.5 3.0 4.5 4.5 18.5
血と骨 4.5 5.0 4.0 5.0 4.5 23.0

 ――例年のとおり、一作ごとの評価と、評価の目安の点数を五点法でおっしゃっていただきます。今回は六作でございます。


東郷 隆「そは何者」

傑作をものした文豪と「怪異」の出会い。時に彼ら自身が「物の怪」のごとく、凡人をおびやかすこともあった――。鴎外、川端、芥川ら八人の文学者にまつわる怪談・奇譚を、端正な文章で綴った異色の短篇集


 ――では刊行順に「そは何者」からお願いいたします。

逢坂 私は四・○です。
 手練の作品集、と感じました。いずれも、文学者の著名人を取り上げて、怪談といっていいのでしょうか、うまいお話を作っています。三人称にしてみたり、二人称にしてみたり、構成を変えていろいろと飽きさせない工夫がなされているんですが、続けて読むと、同工異曲の感が免れず、くたびれてくるというところがあります。「伊豆の踊子」を、のちの踊子の視点から書いた「学生」というのが、この中の白眉ですね。ただ私は、「人面疽」が出てくる「疽」を、一番面白く読みました。この二作以外は印象が薄くて、面白さのヘソになるものが明確に伝わってこない。文章も行き届き、時代色も出ていますけれども、東郷さんにはこういうけれんの強いものでなく、まっこうから来る直球の作品を読ませて欲しいという感じがしました。

阿刀田 私は三・五をつけました。
 ある意味では大変面白いんです。近代文学のヒーローたちが続々と出てきて、さて今度は誰だろうと思って読んでいく。クイズ的というとちょっと言葉が過ぎるかもしれませんが、しかし、ナゾ解きのような面白さがポイントになっているこういう作品を、短篇小説としてあんまり高く評価してはいけないかな、という気もしました。
 とりわけ私は、二つの点において疑念を抱きました。一つは、「あとがき」に書いていらっしゃることが小説の中で生きていない。ここに登場してくるクラスの小説家は、たぶん怪物であり怪異と手を握っているんじゃないか、というのは確かにその通りで、そこを小説としてうまく書いてくれたら、すごいことになっていただろうと思うけれど、永井荷風がお化けになって顔を出しただけでは、たわいのない怪談でしかないんですね。
 もう一つは、時代考証が……何と言うか、ベタなんですね。この景色もそうです、ここで売ってたお餅はあれです、この人が喫ってた煙草はこれです、と全部書く。疲れてしまう。もっと普通のことが書いてあって、そこへ的確なインパクトのあるものを挟んで、その作家の風貌と時代が浮かび上がってくるというほうが、小説の本来の技法ではないかなと思います。

長部 三・五です。全体に知識と考証と幻想のアラベスクという印象を受けました。読者としては、次から次へと出てくる知的な装飾に気をとられて、小説の核心の面白さのところになかなか入り込めない。理知の働きによる考証と、意識下の古層に潜む人間の原初的な感情に訴える怪談とはあまり相性がよくないんじゃないでしょうか。
 面白く読んだのは川端康成の「伊豆の踊子」を裏返しにした「学生」という作品です。情報化によって原作のイメージがすっかり通俗的になってしまった。そこでこの作品は旅芸人をもう一度もとのイメージに戻して、成人した踊子をすれっからしの女として登場させ、回想の中の学生を怖い目をした不気味でいやな存在として描く。「伊豆の踊子」もどこまで事実でどこからフィクションか無論わかりませんが、両方読み比べてみると、改めて「伊豆の踊子」は面白いし、この作品もまた奥行きがさらに深くなる。一種のパロディーなんでしょうけれども、読み比べると、非常に面白いんですね。

井上 私も三・五です。どの一篇をとっても、登場する作家たちの作品を徹底的に調べ上げて、それぞれの文章の呼吸をうつしながら、雰囲気を伝える技術には素晴しいものがあります。
 ただ、泉鏡花や永井荷風がむこう側、あやかしの世界につながる者だったというのには、疑問を持たざるを得ない。われわれ日本人が共有する文学的記憶にそぐわないのです。それでイライラしながら読まざるを得ない。長部さんと同じように、僕も「学生」というのは秀逸な作品だと思いました。各篇をこういう形で展開してほしかった。川端康成は、目のギョロッとした変な東大生として出てくる。これは読者も共有している文学的な記憶ですね。向こうの世界とつながっている者というふうには書かない。そうしておいて、みんなが知っている「伊豆の踊子」の裏側を書いていく。パロディーとしても切れ味よくみごとに成立しています。
 それから、余計なことかもしれませんが、戦後の浅草のストリップ劇場に、小道具部なぞありようがない。小道具は文芸部の受け持ちです。ストリップ劇場はむかしからリストラが上手でいつも人手不足、小道具部など設ける余裕がないんですね。これは浅草軽演劇の劇場のことをもう少しお調べになると、すぐわかります。これを読んでから、なんとなく全部が疑わしくなったのはたしかです。

山田 私も「学生」がとても素敵だと思いました。ただ、旅芸人の女がすれっからしなのはいいのですが、そのすれっからしを描く作者に彼女をもいとおしむようなところがあったらもっと素敵だろうとは思いました。これは一種の蘊蓄ものですね。蘊蓄を楽しむ人にはひとつひとつ思いあたって楽しいとおもいます。中でもこの作者に近いのは、鏡花を扱った「そは何者」だと思うんですが、蘊蓄ものの欠点が出る小道具やエピソードが場を
得すぎていて書き割りのような印象を受けます。逢坂さんおっしゃったように、僕は東郷さんの、こういうパロディー風ではないものを読みたいと願いました。この作品で候補になられたことが不利だったんじゃないかなという思いがございました。点数は三・五です。


花村萬月「鬱」

作家志望の青年・舞浜響は、偽善に満ちたこの世界に鬱屈していた。彼は自らと共振する魂を持つ由美枝と出会い、作家への道を順調に歩みつつも、自らの「倫理」のみに従い、反社会的な行為を繰り返してゆく


 ――次は花村さんの「鬱」です。

阿刀田 最近、この作家の「皆月」という作品を読みました。大変よい作品で、性描写がぜんぜん賤しくない。「鬱」にも、それを感じました。この作家は、登場人物がこういう状況にあったならば、まずこのぐらいのことはあって当然という人物の内なる必然性においてセックスを書いているので、過激で露骨なものでも嫌らしくない。むしろ清潔感さえ感じさせるんですね。花村さんは、現代の性を書く、端倪すべからざる作家なんだと思います。
 ただ、「皆月」がストーリーの展開もきちっとしていたのに比べると、今度は小説としての姿なんか無視しちゃって、きわめて饒舌に、とにかくこれだけは言いたいということを全部、それも抑制をなくしてお書きになっている。それはある種の力強さにもなっているんだけれども、小説として見ると構造がまずいんじゃないでしょうか。私は四・○にしました。

長部 私は三・五です。
 舞浜響も平河由美枝も、小説の中の登場人物ですが、この人たちがまた小説を書いてる。それがこの「鬱」という作品になっているんだろうと思います。その作品の中で挑戦的な小説論を語る。つまりこれは小説について語られる小説というメタフィクションで、なかなか意欲的なわけですけれども、どうも観念が先行しているんですね。舞浜響も平河由美枝も、しゃべり出して少しすると、ほとんど同じ人物になってしまう。ダイアローグではあるけど、モノローグ。全編一人の人間の観念的なおしゃべりが延々と続くわけで、それに共感できない人間には興味を持つのが難しい小説です。
 それに他者というものがまるっきり出てこない。アルバイトのボス的存在の青田もやっぱり同じ種類の人間で、つまり、ここには一人の人間しか出てこないんですね。例えば舞浜響が、道徳に反する恐ろしい行為をするわけですが、その行為とか小説論を否定する他者が全く出てこない。したがって議論の発展もないこの話は、最初から最後まで変わりようがない。つまり、この作品は劇的な小説的なものにはなかなかなり得ない、というところで三点になるのですが、この人の筆にはなかなかの腕力がありまして、この作風に他者が登場してきた時には、どうなるだろうかという期待をもたせるんです。それで○・五を足しました。

井上 私は四点です。気になったのは、まず平河由美枝という少女の両親が、キリスト教者である。青田という人物はつるっ禿のキリストらしい。そしてアルイジオ・ユキコというブラジルの日系人の女工さんを殺す時に、十字架を使う。こういうふうにキリスト教をちらつかせながら話を進めていくのですが、どうしてキリスト教なのか私にはよくわからなかった。そこで道具というのか、作者の知的虚栄心を満たす程度でとどまってしまった。
 何組かの肉体関係がありますが、これもあまり変わりばえしないもので、セックスシーンを書いたら当代一という花村さんにしては、ちょっと曲がなかったかな。
 しかし、作法にとらわれずに、めちゃくちゃやってみようという意欲を買って、三点に一点を足しました。力があるからいろいろやる。しかし書いていくうちに設計がかわって、最後で結論を出しそこなっているところなぞは、私のような旧人から見ると微笑ましい。若い方の勇猛な冒険心に一点捧げます。

山田 私は三・五です。花村さんはエンターテインメントの賞で批評されることは不本意なんじゃないでしょうか。
 長部さんおっしゃるようにメタフィクションですが、途中まで書いた部分を自分で批評したり修正したり言い訳したりして、それをそのまま投げ出しています。その未整理の青臭さ、恥ずかしさ、ナイーブさ、不自由さに、若い頃の文学青年のリアリティを感じはしましたが、どうも素材を読まされているという印象です。その素材の身振りのようなものを振り払っていくと、接客態度が悪いのが気にいらないと思うような、つまんない保守的なオジサンみたいなところもあって、それからサルトルとかジャン・ジュネとか、いまの人が読むかなあ、あれ、花村さんというのはお幾つなんだろうというようなところがあったり、小説に対するものすごい信頼があったり、ああ、若いってこんなにぐっちゃぐちゃだったなと思って、これをエンターテインメントとして批評するのは、作者もこちらもちょっと痛ましいような思いがありました。
 ところが「皆月」という、完璧な作品をお書きになったと聞いて非常にびっくりしたんですけれども、これだけめちゃくちゃなものをお書きになった方が、一方で、そういう形の整ったものをお書きになるということになると、これは一体なんなんだろうと只者ではないと思いますが、この作品についてはどうも狙いが分かりませんし、共感もできませんでした。

逢坂 私も三・五ですね。山本周五郎賞の候補に推薦されたとき、花村さんはお断りになるべきだったんじゃないか、と思うんです(笑)。この賞は、一応広い意味でのエンターテインメントの賞だと思っていますが、「鬱」はエンターテインメントではないんですね。自分の文学的要請を満足させるもので、多くの読者に、一字一句まで楽しんで満足してほしい、というふうには書かれていない。自分の書きたいことを、書きたいように書いているわけですね。純文学的な手法、といってもいいかもしれません。この人の初期の作品は、ストーリーテリングの才が豊かで、キャラクターも面白かったんですが、ちょっと目指す方向が違ってきたのかな、という感じがします。


佐藤多佳子
「しゃべれどもしゃべれども」

伸び悩む落語家の俺が、自宅で“話し方教室”を開くハメに。生徒は、対人恐怖症のテニスコーチ、失恋して人間嫌いの女性、イジメにあう小学生、野球解説のできない元プロ野球選手。話し方で人生は変わるのか…


 ――次は「しゃべれどもしゃべれども」に入ります。

長部 私は四・○です。この作品に出てくる登場人物は、みんな不器用で、自分をうまく表現できない、他人とうまくコミュニケーションできない人たちばっかりなんですね。この人たちが話し方教室で落語を勉強していく。この、世間的にはうまくいかない登場人物の、それぞれの個性と魅力がちゃんと書き分けられている。これは高く評価していいことだろうと思います。
 この小説でいいのは、登場人物がだんだんに噺がうまくなっていって、落語発表会で発表し、語り手の噺家も、一門会でもって「茶の湯」という噺をする。これがうまくいく。そのうまくいったということが、説明じゃなくて、雰囲気とか聴いている人の反応とかで、ちゃんとわかるように書かれている。これは見事です。僕はこの作品は成功作だと思いました。古風な人間と、古風な恋愛というものを書いて、それが新鮮に感じられるというところがこの作品の一番いいところだと思います。

井上 私は三・五です。すべて予定調和の見本のような感じを持ちました。例えば、無愛想な十河五月というワープロのオペレーターが、話し方教室の生徒の一人になるのですが、登場した途端、彼女が結末でどう変るかがわかる。そこで、読者に対して迫る力が弱くなるような気がします。
 それから、語り手を兼ねている三つ葉という噺家が、花村さんと同じことなんですが、自分の気持ちを都合よくしゃべりすぎる。すべて作品というものは、作者が危機をつくって、登場人物にその危機を乗り越えさせるわけですが、もっと飛んでもない危機を設定して、作者は青くなってそれを乗り越えないといけないんじゃないか。全体に作者の都合のよいような危機が多いですね。作者の計算が見えすぎるのではないでしょうか。
 ただ一人、それを乱したのが、湯河原太一という毒舌家の野球解説者で、私にはたいへん新鮮だったので、湯河原太一さんに票を入れて三・五になりました。

山田 私は四・○です。はじめ「端麗な面」とか、「和装の男」とか、わりと不思議な文章を書かれるなと思いながら、これは落語家の話ということで、この文体がだんだん生きてくるのかしら、「坊っちゃん」みたいなものを狙っていて、今の時代にちょっと脇にいる人物が偽善や常識を蹴散らすような爽快な話になっていくのかな、と思ったんですけれども、もっとやさしいんですね。
 井上さんがおっしゃったように、いろいろな事が大して深刻でもなく解決していってしまう。一年間の物語として、ちょっと曲がないような気がしました。例えばこの主人公でシリーズをつくるくらいの強さが三つ葉にあるといいなと思いました。和服を着た落語家という設定は、そのくらいのパワーがあるんじゃないでしょうか。どうもみんなほどほどに終わってしまう。それなりに楽しく読んだんですけれども、こういうレースの中で戦うには、インパクトが弱いと思いました。

逢坂 私の採点は四・五です。私自身の自己批判でもあるんですけれども、今、小説というものが重厚長大になりすぎていますよね。これは、五百枚か六百枚でしょうか。ちょうど手頃な厚さで、一段組で、改行も多く読みやすい。手応えとしては弱そうに見えるけど、だからといって軽い、と片付けていいものか。この小説は、非常に清々しい作品なんですね。もっとも、今昔亭三つ葉が、十河五月に惚れているなんていうことは、読者には最初からわかっちゃう。当人だけが、気がつかないでいる(笑)。それが予定調和と言えばそうなんですが、そうならなかったら困ってしまう。私なんぞは投げ出して破いちゃう、というぐらいのものですから(笑)。
 文章が洒落ていてうまい。アメリカのハードボイルド小説に出てくるような、ハッと思わせる新感覚の比喩や、表現を使っている。それが非常に、小説の世界を新鮮なものにしている、と思いました。
 登場人物の書き分けの見事さも、全候補作の中で一番だろうと思います。ただし、この人に悪人が書けるかどうか、私はちょっと不安があったんで、本当は五点をつけてもよかったんですけれども……。

阿刀田 もう皆さんおっしゃるとおりで、点数を申し上げますと、私は四・○をつけました。作品自体も質のいい小説ですが、評価を受ければ、さらにこの方はいろいろ挑戦をして、大きく伸びてくれる可能性を感じます。
 この方は童話から出てこられたものですから、童話のもつ善意とか爽やかさ、軽さみたいなものがこの小説にあるけれども、大人の小説には、もう少し別なものも欲しいんだなというようなことも感じました。
 ただ、私は一つだけ申し上げたいんですが、この方の比喩は一つ一つとると比喩辞典に載せたいくらい面白いものが随所にあるんだけども、大きな比喩というのは、五ページに一回ぐらい使えばいいのであって、ばたばたと出てくるとちょっと泥臭くなってしまうんで、そのへんは少しお気をつけになったほうがよろしいかなという感じはいたしました。


重松 清「ナイフ」

ある日突然村八分にされた女子中学生、凶暴な転校生のターゲットとなった少年、息子へのいじめに煩悶する父親――それぞれの家庭に突きつけられる「いじめ」をテーマに、現代の家族の姿を鮮やかに描く短篇集


 ――「ナイフ」をお願いいたします。

井上 五篇とも、当人か子供が学校でいじめにあっているんですね。主題が統一されていて、しっかりしたいい文章ですが、ちょっと人工的に小説をこしらえるところが、それが好きな読者にはいいでしょうが、私にはちょっとクサイという感じがしました。作品の中で完全に扱いきれない仕掛けをちらつかせるところも疑問です。そのせいでしり切れとんぼになる。それから、いじめにはルールがあって、たとえいじめられても絶対に先生や大人や親に密告しない。これはとてもおもしろい発見で、たいへん感心しました。ところが、これが繰り返し出てくる。すごい主題がだんだん色あせてくる。残念ですね。もったいないです。
 とくに僕が気にいったのは、「エビスくん」という作品です。これは、重松さん独得のちらつかせる仕掛けがなくて、さっぱりしているんです。しかも話の組み立てにウィットがある。今度エビスくんという転校生が来るから面倒を見てやるようにと先生から言われて、すっかりその気になっていたら、実はエビスくんはとんでもないいじめっ子だったというひねった設定で始まる、とてもうまい作品ですね。点数は、いろいろ言ったわりには高くて、四・○です。いい短篇集でした。

山田 私は五・○をつけました。小説としては、私は今度の候補作中ベストだと思いました。いじめの素材の中で、確かに井上さんがおっしゃったように、子供は親には絶対言わないという捉え方の一律さとか「ビタースィート・ホーム」で、学校の先生だった奥さんが子供を育てるために辞めてしまったのを、辞めないほうがよかったんだという方向に少しきめつけすぎているとか、そういうマイナスはありますが、こうした短篇集で全部に高い水準の完成度があるというのは、そうそうあるものじゃないと思います。
「エビスくん」も素敵でしたし、「ビタースィート・ホーム」では、今度はお母さんが先生をいじめるという、あの気持ちもとてもよくわかります。「キャッチボール日和」は荒木大輔とどう結び付くのかと思っていたら、
終わりで、荒木大輔に感情移入をしてしまう野球の観客がたくさんいるという、あそこへスケールを広げていくうまさ。本来どれも非常に陰気な話で、それを、これだけあれこれ工夫して面白く読ませています。多少頑固なところや小説的な仕掛けのあざとさがあっても、許されると思いました。

逢坂 四・○です。「しゃべれどもしゃべれども」に非常によく似ていながら、まったく反対のタイプの小説だと思いました。この人は、九五年の時に「見張り塔からずっと」というので、候補に残っていますね。その時のメモを見返してみたら、小説としてはうまいんだけれども、読後感がよくないとあるんです。今回も、読中感(?)は変わらないんですけど、終りの方にいくらか救いがあって、読後感はよくなっている。ただ、やっぱり「ビタースィート・ホーム」以外の四編は、同工異曲ですね。いじめを、子供側からするとゲームだと規定して、それをルールのようにしてどの話も進めていくのは、見方が狭いんじゃないかと思います。「エビスくん」が私は一番面白かったですね。これをテーマに、「しゃべれども…」のような長篇を書けば、私は五点つけたかも知れません。四つも五つも分けて書いてしまったところに、この作品集のインパクトの弱さを感じました。それと、読後感をよくするためか、かえって蛇足が多い。「キャッチボール日和」のエピローグ風の結末や、大人になってからの「エビスくん」の後日譚などは、不要ですね。

阿刀田 私も、前に候補になった「見張り塔からずっと」以来、陰ながら支援して、ずっと見張ってきた作家(笑)ですけどね。だけど逢坂さんとは反対で、「見張り塔からずっと」のほうが、私にとっては非常に切実で面白かった。
 この二作の間に「幼な子われらに生まれ」という作品があり、それも丹念に読みましたけれども、だんだん小説が小さくなってきているような気がしまして。私はこの方に現代の石川達三になってほしいという期待をもってます。家庭の悩みと社会の歪みとが増幅しながら、現代の暗部を描いていくような、社会性のある作家になってほしいと、とても強く願っているわけですね。
 今度の小説を読んで、一番物足りないのは、こういう短篇集という方法ではなく、この短篇集で書いている全体を一つの坩堝の中で戦わせてほしかった。例えば、最初の「ワニとハブとひょうたん池で」は、子供の社会のことがほとんどですね。先生はぜんぜん役に立たない。でも、先生の中にも、いろいろ考える先生もいるだろうし、いじめという問題を生徒だけのところで書かないで、実際は母親、父親、先生と、みな考えているわけで、そういう人を複合的に扱って一つの世界を書く。そうした時に、はじめてこの問題は大きくなるんで、短篇にばらして一つ一つ書いちゃうと、小さな、広がりのない話になっていくと思うんですね。少し残念に思いました。で、三・五です。でも私、この方に、とても期待しているんです。

長部 僕は「見張り塔からずっと」をあまり評価してなくて、今度はほんとに感心しました。前回の選考記録を読み返しましたら、阿刀田さんと山田さんは非常にこの作者を高く評価されているんで、先見の明を感じましてね(笑)、自分の鑑賞眼のなさを恥じたくらい。今回は感心して四・五をつけます。
「ワニとハブとひょうたん池で」の中に、カフカの「変身」のことをほのめかすところがありますが、僕は、いじめというものがこれほど鮮やかに書かれている小説を、初めて読んだ気がしました。いじめが、これほど不条理なものだったのかと。それをこの作者は非常に軽いタッチで書くんですね。現代の重要で深刻なテーマを描きながら、しかも重苦しくならない。そしてラストにかすかな希望の曙光を感じさせる。それが偽善的でも公式的でもない。
 阿刀田さんが石川達三の名前をお出しになりましたが、私も、この人は新しい社会派だと思います。それも実に斬新で軽快で、洗練された社会派が登場したと思って、この作品集は高く評価したいと思います。


瀬名秀明
「BRAIN VALLEY」

孝岡護弘は、東北の山村にある脳科学研究所に引き抜かれた。彼は、様々な研究を統合する巨大プロジェクトの深奥に少しずつ近づいてゆくが――。脳、人工知能をはじめ、最新の科学的知見を駆使して描かれた小説


 ――では、次の「BRAIN VALLEY」をお願いします。

山田 私は四・五です。これは人工脳の話かなと思っていたら、人間と同じレベルの脳をつくるのではなく、さらにグレードアップして、神を出現させるという、非常に知的で壮大なテーマを持つ物語で、着想はとても楽しみました。
 始めの一章は、方向がはっきり決まらなくてもどかしかったんですけれど、第二部の、臨死体験とUFO体験の共通性を語り出してからは、とても面白く読みました。しかし、最後に神が出現するあたりになって、どれもがいわば脳の中の幻覚であるというふうになってくると、どうも説得され難い。理屈をいえば最後の始末も脳内の出来事といえるわけです。だまされたような思いが残りました。小説としてはどうでしょうか。
 仕掛けは壮大な物語なのに、知的な情報や趣向をふりはらって、さてどういう人物が浮かんでくるかというと、わりあい深度のない単調な人物しかいない。大変な力作で、部分的には敬服したし、よくこんなことをお考えになったなと思って、知的饒舌の楽しさに四・五なんですが、小説としての面白さということになると、残念ながら疑問が大きく残りました。

逢坂 私は三・○です。デビュー作の「パラサイト・イヴ」は、非常にストーリーテリングも巧みで、新しいエンターテインメントの書き手だと思ったんですが、第二作は、期待が大きくはずれました。
 この結論を得るのに、巻末の膨大な参考文献と、これだけの原稿の量が必要だったとは、とても私には思えません。作者には、きつい言い方かもしれないけれども、小説を書くということがどういうことか、もう一度ゆっくり考えてほしい、と思いました。
 というのは、瀬名さんがどこかでお話になっていたんだけれども、ディーン・クーンツというアメリカの流行作家の書いた「ベストセラー小説の書き方」という本を読んで、勉強なさったそうなんです。私も、むかし読んだおぼえがあるんですが、「BRAIN VALLEY」の場合、その成果が失われてしまって、むしろこう書いてはいけないよ、と指摘しているような書き方なんですね。まあ、クーンツ自身も後年は、その罠に陥ったわけですが(笑)。
 期待しているぶん、あえて厳しいことをいいますけれども、これは情報はあるけれども、人間のない小説ですね。そこがいいんだ、という読者もいるかもしれませんけれども、私は取りません。
 実は私も以前、脳の話を書きまして、素人なりにずいぶん勉強したんですが、そういう下地があっても、ここに出てくる脳の話はよくわかりませんでした。学術論文としては、また別の読み方ができるのかもしれませんが、小説としては残念ながら買えない。仕掛けそのものも「X‐ファイル」や「アウター・リミッツ」を超えるような、もっとアッと驚く話であってほしかった。第三作を、新しい視点で書いてほしい、と思います。

阿刀田 私は、まあ三・○です。
 逢坂さんのおっしゃったことと同じで、小説とはどういうものかということを、さらに真剣に考えていただきたい。どうせフィクションの網をかけるのなら、驚くべき飛躍を用意するとか、いや、こうなんだよと明快な答えを出すくらいでないと、このテーマは扱っちゃいけないんじゃないかな。人物の設定や、小説としての構成のバランスに、まだ不十分なところがあるなという気がいたしました。
 もう一つ、あえて申し上げれば、小説家は、小説を完成させなくちゃいけない。最後まで人物やテーマやいろんなことを面倒見きらなくてはいけない。目配りを続けなくちゃいけない。この作品は、九割方つくっといて、あと一割ぐらいはなんか別のところに預けているような感じがするんです。足りない部分はシナリオライターが補ってくれるだろう、現場の映画監督がなんとかするんじゃないか、とかね。きつい言い方で間違っているかもしれませんけれども、私は今回はそれを感じました。

長部 この小説も知識と情報が氾濫していて、小説的な境地の中になかなか入り込めない。前半はレポートを読まされている感じもしました。こういう知識というのは、読者はまずぜんぜん知らないと思ってとりかかるのが本当でしょう。もっとダイジェストして、つまりよく消化してストーリーの中に生かし、小説的に活性化してもらいたいと思いました。
 私は、神の存在は理性の彼方にあるという、あのカントの信者になっているものですから、科学で神を現出させられるはずがないと思って読んでいきますと、前半で関係なかったものが、下巻では次々につながってきて、どこまで本当かは無論わかりませんが、どんどん面白くなってきました。この人は、やっぱり可能性があると思うんですね。後半にあらわれてきた、この作者がもともと持っている筆力と可能性と、壮大な実験をした意図を買って、上巻では難行苦行でしたが、将来への期待を込めて四・五としたいと思います。

井上 これはたしかに小説ですね。ただし、失礼なことを言いますが、下手な小説です。ものすごいテーマが続々出てくるのですが、それがどうも一つにまとまらない。科学は倫理を意識した瞬間に科学でなくなるか否かは二十世紀の最大の思想問題です。また、神の啓示は神を見たものの脳を超えることはできない。だったら、脳が神を見るわけだから、脳の質を高めればもっといい神が出てくるはずだというのもすごい面白いテーマなんです。しかし出てくるだけで、一つにならない。しかも、それが展開されていくと、いつか見たハリウッド映画のシーンみたいのばっかり出てきて、どうも月並みですね。テーマに細部が負けている。
 特にいけないと思ったのは、ジェイという少年が邪魔になって、作者が殺してしまったこと。一生懸命読んできた読者にとっては、裏切られたという感じ。未来をたっぷり持つこの少年こそ、生きのこるべきではなかったか。これまで誰も見たことのなかった関係や光景をつくること。小説家にもっとも必要だと思われることができていない上に、大テーマをまとめるために、結局は民俗学へ戻ってみたり、なにもかも竜頭蛇尾に終わっているような気がします。三・五です。


梁石日「血と骨」

大阪に住む在日朝鮮人・金俊平は身長一八〇センチ以上、体重一〇〇キロ近い巨体を持ち、その性格は粗暴、吝嗇、好色、不信感の塊……。この「極道も恐れる無頼漢」と彼の家族の肖像を、昭和史を背景に描き尽くす


 ――最後は「血と骨」をお願い致します。

逢坂 零点か五点か、迷うところです(笑)。つまり、この小説をどういう観点から分析し評価するかで、点数が変わってくるだろうと思うんです。千五百枚ぐらいでしょうか、全然退屈させない、これほどの力と、エネルギーを感じさせる作品というのは、そうはないわけですね。一方、文章の粗さとか、視点が混濁して読みにくいという、そのへんのバランスを、全体像としてどう採点したらいいのか。非常に私は悩みまして、自分なりにつけたのは四・○です。
 おそらくこの方は作家になってから、お父さんのことを書こうとして、自分の中で整理がつかなくて、時間がかかったんじゃないか。しかも、まだ整理がつききってないな、と強く感じました。このお父さんは、ほとんど読者が感情移入できない人間として、書かれているんですね。奥さんや家族に、全く共感のできない酷い仕打ちをする。しかもその動機がわからない。わけもなく暴力を振るって、暴力で解決しちゃう。
 文章の粗さ、視点の混濁などをあげつらうのは、こういう小説ではあまり意味のないことだと思いますので、やめておきます。ただ、一番生々しく書けているお父さんが、小説的な人物として昇華しきれていないところに、不満が残ります。金俊平の行動倫理がときとして一貫せず、読み手を混乱させることがある。それが金俊平という男なのだ、といわれても挨拶に困ります。作家は、たとえモデルがあろうとなかろうと、主要な登場人物の性格、行動倫理を統御する義務を負う、と思うからです。

阿刀田 四・五をつけました。在日韓国人クロニクルみたいな小説です。主人公はとても好きになれない人物ですけど、こういう父親を書くことによって、僕は、逢坂さんとちょっと違うんだけど、人間とは何かという問題を提示している、ほとんど動物に近いような、自分の本能だけで生きている、そういう意味で純化されている人物を通して、人間とは、親と子とはどういうものかというモチーフを力強く訴えていると思いますね。一種の嵐が来たみたいとしか思えないような存在。そういう人間も、最後は体が弱って北朝鮮に身を預けに行く、そこに一縷の期待をもって行くというのも、ああ、これは人間のドラマだな、ということを感じさせられました。小説技法的には弱点がずいぶんあると思いますけれども、それを言う小説じゃないというのは、逢坂さんとまったく同意見です。

長部 私は五・○です。日本語でこれほど強烈極まりない人間像が描かれたのは初めてじゃないでしょうか。粗削りの文体が描く対象にぴったり合っていて、千三百六十八枚を少しも長いと感じさせません。日がたつにつれて印象が一層強まってくる。
 金石範さんは、この小説を論じて、神話性という言葉を出しておられましたけれども、私もこの主人公は神話的人物、神話的原型であると思いました。自己中心的な、自分が世界の中心であるという金俊平は家父長制の産物のように見えるけれども、じつはこのような原初的なエネルギーをもった男こそ、遠い昔に、家父長制を最初に生み出した存在であったに違いないと思うんですね。神話的原型とはそういう意味です。さらに重要だと思うのは、さまざまな意味でマージナルな文学であるということです。日本語で書かれていますけれども、これを日本文学の枠の中に閉じ込めることはできない、韓国朝鮮と日本との境界線上に生まれ、またそこにしか生まれ得なかった文学です。
 私の推測では、この小説は、その神話的普遍性によって、さまざまな国の言葉に翻訳されて、世界中の人に読まれていくに違いないと思います。日本語とたくさんの外国語との境界線上にあるという点でもマージナルです。褒めすぎと思われるかもしれませんが、日本語で書かれた世界文学の誕生と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 またエンターテインメントと純文学との境界線上にある点でもこれはマージナルな小説なんですね。文学というジャンルが、読者を引きつける力を失いつつあると言われている時代に、世界に通じる神話的普遍性と、小説独特の魅力と迫力をたっぷりたたえたマージナルで骨太な作品の登場は、文学の未来に、大きな可能性を示したと私は思います。

井上 欠点がめちゃくちゃに多い作品です。例えば、事件、人物、描写、すべてに濃淡がなく平べったい。金俊平の生き方が数回変わりますけど、その理由はまったく不明。歴史を記述する段になると、文章に教科書的な生硬さがあらわれる、とさまざまな欠点はありますが、すべてを超えてここから褒めます(笑)。そういうたくさんの欠点をふっ飛ばす大きな力があります。主人公に人間の運命というものがくっきりと刻み込まれている。これほど自己中心の、男性中心の生命力溢れる神話的な人物も、しかし、やはり年齢を加えていく。老いる、病いに悩む。そして死がくる。これが人間の条件ですね。それが主人公の五体に仕掛けられている。しかも主人公はその人間の条件に、負けを覚悟で闘いを挑む。その神々しさ。そういったことが理屈抜きでわかる。そこが凄い力業です。一方にすべてを諦めた奥さんがいて、他方に諦めない男がいるという対比を通して、結局は人間が授かっている生命の、強さと弱さという、普遍的な大テーマに行き着く。それがこの金俊平さんを通して出てくるんですね。ほんとに感動します。
 この小説自体が金俊平さんそのもので、下手な文章をこれだけ読まされるのは、暴力みたいなものですが、昔話を聞くときのように、人間の心に深く触れる力がこの小説に宿っている。読む者をぐいぐいと引っ張っていく不思議な、しかし原初的な力があります。五・○です。

山田 私は四・五です。最初は伝奇的人物というか、面白い豪傑の話のような出だしだったため、それが頭にずっとあって、どこまで本当なのかという思いが最後までつきまといました。フィクションの面白さと、作者らしい人物の幼年期の日常の思い出などが盛り込まれて未整理という印象があり、これは作者にとっては一回しか書けない大切な素材でしょうから、小説でなくノンフィクションで書かれたほうがよかったんじゃないかなと思いました。
 もう一つは、失礼ながらこれを書いてしまったら、これ以上チャーミングな人物を書くことは大変だろう。そのとっておきの人物を、ちょっと早く書きすぎたのではないか、と余計な心配ですけれども……。

阿刀田 もう結構な年齢ですからね。このへんで書かないと危ないんじゃない(笑)。

山田 そうですか。しかし、とてもリアリティを感じながら、素材としても作品としても、圧倒されて読みました。北朝鮮を最後に信じて行くところなんか悲しくて、とてもいいし、凄い作品だとは思います。

井上 日本においでの朝鮮の人たち。そういう方たちがたくさん書いてくだされば、きっとそれは大きな山脈になります。

 ――ひととおり候補作品に対する評価をいただきました。目安の評価点を集計しますと、「そは何者」が十八点。「鬱」が十八・五点。「しゃべれどもしゃべれども」が二十点。「ナイフ」が二十一点。「BRAIN VALLEY」が十八・五点。「血と骨」が二十三点。「血と骨」が最高点です。
 個人の方で申しますと、阿刀田さん、長部さん、井上さんのお三方は「血と骨」が最高点。逢坂さんは「しゃべれどもしゃべれども」が最高点、山田さんは「ナイフ」が最高点というふうに分かれます。

井上 今回は、たとえ小説技法が下手でも、いい小説は成立するという真理が確立したような気がします。人間のもっている一番基本的なものに、まともにぶつかるならば文章の力で、とんでもない人間をつくり出すことができる。今回はそのことを教わりました。もちろんほかの小説もエネルギーの詰った、いい小説でしたが。

阿刀田 十八点台は、もういいんじゃないでしょうか。長所は評価しながらも、欠けるものも多いということで……。

山田 いいと思います。


 ――皆さんにご異存なければ、「しゃべれどもしゃべれども」、「ナイフ」、「血と骨」にしぼっていきたいと思います。

山田 「血と骨」の人物は、普通の人生にはあんまり登場しない人ですよね。

阿刀田 出会いたくないです(笑)。

山田 僕は、これと同量の不可解さ、どうにもならなさを、普通の平凡な人間関係の中で描いたほうが、小説としては凄いんだと思ってしまうんです。ただそれは理屈であって、作品をそのまま差し出されて軽重を問われると、少し悔しいけれど、「血と骨」のほうが重いことは事実です。これだけの素材をガンと出されれば、たいていの小説はふっ飛んでしまう。議論の余地がない。ある意味で、この人はラッキーなお父さんを持ったというところもあるんじゃないでしょうか(笑)。私は、「しゃべれどもしゃべれども」の世界を、重松さんが書いたらこれも凄くなるなあ、などと未練たらしい口をききますが。

阿刀田 「ナイフ」を私は短篇として評価したんですが、短篇として見た時に、終わりが非常に弱い作品がいくつかありますね。短篇というのは終わりがとても大事ですからね。なんか本人だけが粋がって、一人よがりなエンディングになっていますね。
井上 これはないものねだりですが、たとえば、「ビタースィート・ホーム」で、「どう思いましたか。感想を書きなさい」ばかり言っている水原先生に、逆にお母さんがぐいぐい突っ込んで逆襲したら、すばらしい小説になったはずです。

阿刀田 普通に考えても、感想を書け、心はどうですかと言われたって、書かない子供がいても悪くないしね。でも、そのへんの立体化を避けちゃってる。中心になる登場人物には目配りがあるんですが、周りの人間が少し呑気すぎるんじゃないかな。

井上 山田さんがおっしゃったことは、とてもよくわかります。「ナイフ」も評価したい。したいんですけど、やはり金俊平は巨きい。

逢坂 「血と骨」と他の二作を比べると、曙に智ノ花と舞の海が向かうような感じで、はなはだ形勢が悪い(笑)。私は「しゃべれどもしゃべれども」に、一番高い点をつけましたので、瀕死の兎が獅子に向かうように、申し上げないといけない(笑)。「血と骨」は、ノンフィクションとして書かれるべきであった、と山田さんがおっしゃって私も腑に落ちたんですが、例えば話がだれそうになると、突然新しい女が訪ねてきて、そこでまた
いざこざが起きるというパターンが二、三度あるんです。ノンフィクションならしかたがないという気もしますが、小説だったら芸がない。そういう体験を筆にする作業と、「ナイフ」や「しゃべれどもしゃべれども」みたいな、一見軽く見える小説と、書く営為としての重みは甲乙つけ難い、と思うんですね。

井上 それはそうです。

逢坂 おそらく「しゃべれどもしゃべれども」みたいな軽いタッチで、やさしい言葉で的確に人間を書き分けられるのは、プロの作家として非常に優れた資質だと思います。「血と骨」の作家が、この作品を書いたあとどういう方向へ進むのか、見えにくいという不安もあります。

井上 僕は書けると思いますね。つまり、このお父さんの子供でしょう(笑)。

阿刀田 私は「しゃべれどもしゃべれども」には、大変好感をもったけれども、この方は、童話の賞はお取りになっているけれども、こういう賞の対象になるのはおそらく初めてではないのでしょうか。

逢坂 こういう小説としては、処女作でしょうね。

阿刀田 だから、今度の作品で小説を書く基盤を得られた、次を見てもいい方ではないかなと。

井上 この作品については、ずいぶんきびしいことを申しましたが、もっとも根底的な不満は、人との関係を言葉でつなぐことのできない人間と、一方では、言葉だけでお客を感動させたり笑わせるプロが出てくるわけですから、ここは、言語論をどっかでちゃんと踏んまえてほしいということです。難しいことは言う必要がない。しかし、この落語家は言葉についてどう考えているかとか、教室の生徒たちにとって言葉がしゃべれないことは、どうつらいことなのかとか、言葉についての突き詰め方がゆるい。それがあれば、予定調和でもなんでもなくなっちゃうんです。登場人物それぞれに言葉をめぐって切実なものがなにかあるはずですが、そこを作者は呑気に平和に見すごしているのではないでしょうか。

逢坂 山本賞は大きな賞ですから、もう少し待ちましょう。さあ、今度は舞の海一人になりました(笑)。

阿刀田 もう、どなたも高い点を言ってくださっているので「血と骨」でよろしいんじゃないでしょうか。

井上 逢坂さんも山田さんも高いんです。

逢坂 異存ありません。だから、五点か零点か迷った、と最初言ったんですが(笑)。

阿刀田 こういう親父をもったら、少しはほかの人生でいいことがなきゃ(笑)。
 ――ありがとうございました。


ページの先頭へ戻る