女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第13回R-18文学賞 
選評―三浦しをん氏

三浦しをん

 偶然ながら、最終候補作すべてが一人称の作品だった。一人称は、語り手(主人公)の心情や思考に細密に迫れるがゆえに、読者を作品に没入させやすい、という効能がある。一人称をうまく使えば、読者は我がことのように語り手の一挙手一投足を注視し、思い入れてくれる。
 しかし、これは諸刃の剣でもある。一人称は語り手の主観のみによって成り立つものであるため、語り手に対する読者各人の好みや感じかたが、作品そのものの評価に直結してしまう危険性を秘めている。また、一人称の小説は一見書きやすいように感じられるかもしれないが、実のところ、「語り手はなぜ、だれに向かって、こんなに理路整然と語っているのか」という疑問をクリアするのが困難だ。それを言ったら、何人称を採ろうと、小説とは人工的な「語り」しかできないものなのだが。人工的なものだと自覚するかしないか、自覚したうえで、人工的な「語り」を乗り越えるべくいかに工夫できるかは、小説を書く際のとても大きなポイントになると思う。
 一人称小説の難しさについて考えながら、各作品を拝読した。以下、個別に感想を述べる。
 せつさやかさんの『猫のたまご』は、思わせぶりな文章が多く、意味を取りにくい箇所があった。語り手の繊細さは買うが、やや自意識過剰なのではと感じられる点が残念だ。語り手は「六歳」に妙にこだわっているようだが、六歳のときになにがあったのか、語り手にとって六歳がどういう意味を持つのか、最後までよくわからないのも、読み心地にもやもや感が生じる原因だろう。
 迫ななえさんの『彼氏が欲しい処女を捨てたい結婚したい子供を産みたい』は、語り手が一人で空回りしているように見えて、そういうひとがモテないのは当然ではないかと思えてしまう。語り手はブスだそうだが、どの程度のブスなのか、小説(特に一人称)では表現しづらいし、モテるモテないは容貌のみで決まるものではないことは、世間を少々観察すればわかる。こういう題材ならば、もう少しユーモアのある語り口にしたほうがいいのではないか。
 香坂よし穂さんの『ぽんぽん』は、母親に対する娘の複雑な気持ちが丹念に描かれていた。ただ、構成がよくない。冒頭、五歳の「わたし」が語るのだが、五歳児にしては物をよく知っているし語彙も豊富だ。違和感を覚えていると、しばらく読んでようやく、大人になった「わたし」が登場する。これは非常にわかりにくいし、一人称小説として洗練されていない。冒頭部分は、いまの「わたし」が五歳当時の「わたし」を回想しています、ということを明確にした時制感覚をもって語るべきだ。また、安易に擬音に逃げず、くどくならない程度の描写を心がければ、もっとよくなるだろう。情報提示の塩梅も一考されたい。語り手に切実感がやや欠けているように感じられたのだが、その原因は、母親がなにをして暮らしを立てていたのか(売春? 愛人?)、まったく描かれていないためではないか。
 一木けいさんの『ゾウリムシの部屋、セックスの部屋』は、抑制された筆致ながら、語り手が恋をしていることがよく伝わってきた。ただ、ラストがやや駆け足に感じられる。「俺」と真木さんとの不倫と、真木さんの父の死。この二つがテーマ的にいまいち噛みあっていないのは、「俺」を視点人物にしたからではないだろうか。ラストにかけて物語を駆動するのが、「真木さんの父の死」であるため、「俺」(語り手)のエモーションや行動に話が集約されず、全体の印象が散漫になってしまっている。応募者の情報はなにも知らぬまま、作品のみを拝読するのだが、それでも途中で、「以前も最終候補に残ったかただな」とわかった。作者のなかに、情熱と書かずにいられないテーマが存在しているから、作品が独自の光を放つのだろう。前作よりも確実に進歩しておられる。今後もご自身のテーマを掘り下げ、それをどうやって読者によりよく伝えるか、工夫を重ねていっていただきたい。
 滝田愛美さんの『ただしくないひと、桜井さん』は、文章がよく、子どもも含めた各登場人物がうまく描きわけられていた。説明的な長ゼリフが多すぎる気もするが、そこが味わいになってもいるので、作者が意図的に長ゼリフを選択されたのであれば、改善する必要はないのかもしれない。ただ、会話の語尾に「ぜ」を多用するのは避けたほうがいい。「~だぜ」と言う男性は、実際には(スギちゃん以外に)あまりいないと思うからだ。また、ラストに差しかかるまで、「僕」(語り手)の内面的なブレや浮き沈みが少ないように見えるため、ドラマ性が弱まってしまい、なかなか事態が動かない(=構成がアンバランスな)感がある。泰然としているのが「僕」のいいところだが、せっかく一人称を採ったのだから、内心の揺れや屈託をもう少しほのめかしてもいいのではないか。タイトルは要一考。一人称小説のタイトルは基本的に、語り手の声(言葉)らしきものにするか、無味乾燥なぐらい客観的なもの(だれの声でもないもの)にしたほうがいい。語り手以外の、生々しく感じられる声がタイトルに混入すると、「『桜井さん(「僕」)』を『ただしくないひと』と評するおまえはだれなんだよ」と思ってしまうからだ。
 仲村かずきさんの『とべない蝶々』を、私は推した。心情が丁寧に描かれているし、今回の最終候補作のなかで、語り手の内面の成長と変化が一番あると思ったからだ。菰田くんと片岡くんがかっこよすぎかなとか、「私」(語り手)のように孤高な女子高生って実在するかなとか、意地の悪い目で読むこともできるけれど、教室内のムードの的確さ、他者に対して自分を少し開こうと試みる「私」の態度によって、最終的には、「こういう子たちが、現実にどこかの高校にいそうだな」と納得させられた。ただ、なんとなくパンチに欠ける。この点については、即効性の高い解決策はないだろう。丁寧な描写と漂うさわやかさが、作者の持ち味なのだと思うし、そこが魅力でもあるのだが、「灰汁がなさすぎて喉を通過したことに気づかなかった」と感じる読者も出てくる気がする。書く力のある作者だと思うので、あせらず、持ち味を大切にしつつも、さまざまなテイストの作品(もっと暗黒寄りだったり軽妙寄りだったり)に挑戦していっていただきたい。