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新潮 FORUM

Banquet 新宿文壇バー今昔
 今号の巻頭一挙掲載、高橋昌男氏「ネオンとこおろぎ―或いは新宿角筈一丁目一番地」をお読みになって、小説家や編集者たちが酒と深い縁で結ばれてきたことに思いをはせた読者も多いことだろう。新宿でそれこそ星の数ほど軒を連ねる酒場のなかでも、しかし「文壇バー」という名前で呼ばれる店は意外なほど少ない。いったい文壇バーとは何なのか。そこで何が行われているのか
 敗戦直後のカストリ酒場は、いざ知らず、小誌編集部のベテランに属する年代の編集者に尋ねてみると、まず想い出すのは今はない新宿西口「茉莉花」だという。ここは戦後派作家の巣窟として知られ、若き中上健次が某編集長に対して狼藉をはたらいたという話は、長く語り継がれている。また、靖国通り・花園神社近辺になると、高橋氏の作品にも登場した「風紋」あるいは「英」など。檀街道と呼ばれ、檀一雄が仲間をひきいて夜ごとのし歩いた話は有名である。このふたつの店とも移転した今も健在で、「風紋」の林聖子さんは太宰治とも仕事をした小誌の大先輩でもあり、「英」の西部英子さんは気の合う作家編集者を引き連れて毎年温泉旅行に繰り出す気さくな行動派だ。たとえばこれを読む読者が新潮新人賞を受賞するならば、必ずやこれらの店の暖簾をくぐることとなり、いつまでも終わらない酒宴のなか、カウンターを前にした既成作家や編集者の手荒い祝福をうけることになろう。そのほか、閉店してからも長い間その存在が語り継がれる店には、草野心平の経営した「学校」や、「アンダンテ」「まえだ」「びいどろ」など。どこのお店にも、お酌専門のホステスの嬌声やうるさいBGMや高価なブランデーなどは(基本的に)ない(と思う)。あるのは、ただ、心ゆくまで語り明かそうとする人たちと、文学の話題を肴に酒を飲むにふさわしい無言の礼節だけだ。
 十年前、編集部最年少の筆者が初めて連れていかれたのは「風花」か「Bura」か「火の子」だったか。文学論とも罵倒ともつかない言葉の応酬に参加しつつ、でも泥酔して何を喋っているのかよく分からない。おもては白むのに誰も話を切り上げない。ただ、穏やかにグラスにウィスキーを注ぐママ。こういう空気のなかで、内なる「文学」が育くまれているような気もしていたのだった。

Editor 追悼・飯田貴司
 3月2日、河出書房新社で長く文芸編集者を張った飯田貴司さんが食道癌で急死した。享年61歳。去年の1月5日定年退職し、河出の顧問として悠々自適の暮らしに入った直後の死で、氏が愛した酒場の数限りない仲間たちは、早すぎる死に驚くほかなかった。飯田さんといえば、まず古井由吉氏の芥川賞受賞作『杳子』の単行本担当者として名が挙がる。名装丁家・司修はこの本から生まれたといっていいだろう。江藤淳、吉本隆明、田村隆一氏など、飯田さんを支えにした書き手は少くない。30年、文芸の前線に立ちつづけた生き証人だった。
 もっとも、飯田さんの本領は夜の巷。新宿の文壇バーで呑んでいて、彼を知らぬ人がいたら、もぐりだ。にこにこ笑いながら、酒席でみんなに気配りし、古い誰も知らない歌を突然歌い始めて顰蹙を買い、「オラア、ブントだ」と啖呵を切った。また、お葬式にあれほど似合う人はいない。痩せても枯れても、近江商人・飯田一族の出。乳母日傘(ホントです)で育った気品は争えなかった。自称の裏戒名は「酔心院釈文徒」。名物編集者という名に相応しい人は今や数少ない。
 去年の9月、親しい作家・編集者仲間と谷川岳に行き、その直後に病院で検査を受けて癌を宣告された。江藤淳の一周忌の司会を勤め、田村隆一の一周忌を済ませたのが昨夏。葬儀の日、吉増剛造氏に「田村さんに呼ばれたね」と囁かれたが、江藤淳に呼ばれたという説もあり、今ごろ皆で仲良く酒を酌み交わしているだろう。
 最後の仕事は、石井恭二完訳「正法眼蔵」全5巻。喪主の兄や友人たちから「花の人生」という言葉が異口同音に聞こえた。見事な黒子を貫いた先輩の生涯に、献杯。

Position 江代充『梢にて』の位置
 去る3月3日、前橋文学館アートステージにて、江代充氏と平出隆氏の公開対談が、「現代詩における『梢にて』の位置」と題して開催された。両氏は、草野球チーム「クーパースタウン・ファウルズ」のチームメイトである。初めて会った1984年当時助監督だった平出氏は、いきなりバッティングセンターに誘い、その場で入団を要請したという具合で、以来、文学の話はほとんどしたことがない。二人にとって初めてと言っていい詩をめぐる対話だった。
 冒頭の一景。平出氏が、人は他者のように自分の名を呼びながら暮らしていると知らされたという一節「身を曲げてくぐりぬける私もまた エシロ・エシロといいながら」と朗読すると、江代氏が「エシロ・エシロ」と同時に唱和する。静かな詩的空間が現れた。
 平出氏は、「単独者」という概念を読みの起点に置く。いうまでもなく、カフカである。一方、江代氏は、まず日記を書き、そこから「文」が立ち上がり、徹底的な推敲をした後作品化するというスタイルを取ってきた。数十年間書き続けられている、膨大なノートから辛うじて救い出される言葉の破片。マックス・ブロートに自作の破棄を依頼したカフカの態度と、どこか響き合う。実生活上の独身者という共通点を持つのは、偶然と呼びにくい。
 また、長く聾者の教育に携わる江代氏は、キリスト教入信の門前で真摯にためらう人である。「純粋な存在に対する問いかけ」としか呼びようのない度を越した誠実な祈りが、作品の底を支えているのだ。
 5月13日まで、江代充展が前橋文学館で開かれている。氏の世界に触れたい方は、ぜひお運びを。

Blood 佐藤愛子展
 自らの属する一族をこの人ほど精力的に描いた作家はいないのではないだろうか。佐藤紅緑、サトウ・ハチローと自分―佐藤家の歴史を生き生きと描いた佐藤愛子氏の長編小説「血脈」が書き始められたのが一九八九年のこと。十二年の年月を閲し、昨年に完成したこの小説は、氏の代表作となるとともに平成十二年度の菊池寛賞を受賞した。この受賞を機に、世田谷文学館では、来る四月二十八日より、「佐藤愛子展」を開催することになった。
 佐藤氏が、「戦いすんで日が暮れて」で、直木賞を受賞したのが一九六九年。一九七九年には「幸福の絵」で女流文学賞を受賞。いずれも自叙伝形式で書かれ、独自のユーモア感覚が数多くの読者の共感を呼んだ。「ユーモア小説を書くことは、私にとって生きるための力杖だったのである」と作者は書く。
 本物のユーモアを身につけるまでに、人はどれだけの苦い人生を歩まねばならなかったかは、佐藤氏を「マドンナ」と憧れた故・遠藤周作氏の作品を読めば、了解できる。現代文学にあって、ユーモアは稀少な資質となっている。佐藤氏のユーモアを愛する読者は、一族の中に流れる人間の血の温かさに心を動かされているに違いない。(連絡先 03―5374―9111)

Special Issue 臨時増刊「小林秀雄 百年のヒント」
 小林秀雄との邂逅は、決定的であった。高校時代、同級の早熟な友人と競い合うようにして読み始めたのが運のつき、その有無を言わせぬ文章の魅力の虜になってしまうと、もう受験勉強どころではなかった。当時どこまで理解できていたかは甚だあやしいが、小林秀雄に導かれるまま、ボードレール、ランボオ、ドストエフスキーと乱読するうち、文学部以外の選択は考えられなくなって、それが今につながってしまった。
 入社してまもない頃だった。編集部の使いで連載中の「本居宣長」の原稿を受取りに何度か鎌倉雪ノ下のお宅にうかがったが、ある時玄関に出てきた小林さんから、「おい、君、ちょっと待った」と呼び止められて、頂戴したのが、モオツァルトのレコードで「クラリネット五重奏曲イ長調」。飛び上がるほど嬉しくて、盤が白くなるほど繰り返し聴いて、今も大切に仕舞ってある。
 さて、つい前置きが長くなってしまったが、氏の生誕百年を機に小社ではこの四月から、決定版ともいうべき「小林秀雄全集」の刊行を開始する。第一回配本は「考へるヒント」。四月十日の発売だが、それと同日発売なのが、小誌臨時増刊「小林秀雄 百年のヒント」である。小誌での連載が中断したまま生前は単行本化が許されなかった幻のベルグソン論「感想」、講演「歴史の魂」、「近代文学」の同人から戦中のことを詰め寄られて「僕は無知だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいい」と言い切った有名な座談会「コメデイ・リテレール」などを、今回の全集に先だって初公開するほか、編集内容は左のとおり。
 特別インタビューは、初めて一人娘が明かす、白洲明子氏「父・小林秀雄」と、吉本隆明氏「絶対に違うことを言いたかった」。対談が安岡章太郎・粟津則雄氏「小林秀雄体験」と、秋山駿・宮城谷昌光氏「人間の真形」。久世光彦氏「そして、芝居は終わった」は、渾身のエッセイ。さらに、石原慎太郎、中村雄二郎、平野啓一郎ら32氏による「わが小林秀雄」や、交友録、文学散歩、名言集に、年譜、グラビアと盛り沢山。全集のカタログ(無料)を書店でお求めの際に、試聴盤としてご購入ください。定価は1500円です。