(文・都築響一)
折れそうに細いからだからステージネームがつけられたというTwiGyは1971年、三重県に生まれた。父親は大学教授、母親が弁護士事務所勤務という、インテレクチュアルで恵まれた家庭環境だった。
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「うちは3人兄弟で、兄と姉がいて俺は末っ子なんですけど、3人とも英才教育で、お姉ちゃんはバイオリンとピアノで、兄貴もバイオリンみたいな。俺はその流れでピアノを一緒の先生のところに入ったんだけど、俺だけやっぱモノにならなくて(笑)。それですぐにやめてしまって。
だから音楽にはあまり興味なかったんです。兄貴が家でギィーコっていうのをやってるんで、もうとにかく弦の音とか嫌いで。小児喘息持ちでからだも弱くて、学校も休みがちだったので、おばあちゃんちに預けられたりしてました。そのおばあちゃんが芸術家で油絵とか、とにかく全部やってたんです。そこで寝泊まりしてたもんだから、絵を描いたり、版画やったり粘土いじったりするのが、自然と好きになったんですね。
親としては、じゃあそっちのほうに行かせようということになったんですけど、そのうち俺が反抗期になったし、ひとになにかを基礎から習ったりするのが、性格的にすごく合わなかったので、美術の道に進むのはやめちゃった。
それで小学校6年生で三重から名古屋に引っ越すんです。6年の2学期まで三重で、3学期から名古屋。これがちょっと、トラウマになりました。
まず、言葉のしゃべり方が違うんです。三重はたとえば『そやんなあ』とか柔らかいんです、京都とか関西弁をもっと薄くしたような感じ。でも名古屋は『狂っとらせんか(=頭が狂ってるんじゃないか)』とか『たわけか!』って。
みんながそうやってしゃべってる中で、言葉を発することができなくて、最初はすごく無口な転校生だったんです。で、俺は本名がユキって言って、それも若干トラウマだったのですが(笑)。だって女の子の名前じゃないですか。たとえば病院で『ユキさん』って呼ばれて行ったら、『あ、女の子が来るかと思った』って言われり、いろんな場面の『ユキさん』で『あ、女の子かと……』が、ちっちゃいときからずっとあって。
転校してすぐに、教室の外から男の子が『わぁユキ、女の名前』みたいな感じで言ってきて。それで殴り合いの喧嘩になっちゃったんです。俺、トイレまでバーッて追ってって、ボコボコにしちゃったんです(笑)。そしたら後ろから大将にバゴッて殴られて。一回パーンと泣いて喧嘩して、先生が止めに来てみたいな状態が起こって、そこで関係が開(ひら)けるようになったんですね。
ちょうどそのころ、ブレイクダンスに出会うんですよ。引っ越して名古屋に来て、間もないときですね。欽ちゃんの番組で風見しんごが『涙のtake a chance』って曲を歌って、ブレイクダンスを見せて。それが俺を引き込んだんです(笑)。そのちょっと前にも『ブレイクダンス』っていう映画を見て、で、同級生の友達とふたりで見に行って、それでもう完全にブレイカーになろう! みたいになっちゃった。」
抗いようのないちからで生まれ故郷から引き剥がされ、未知の環境のなかで立ちすくんでいた少年に差し込んだ一条の光、それがブレイクダンスであり、ヒップホップという、生まれたばかりの文化だった。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。
'80年代後半からラップを始め、その独特の声とフローだけではなく、ファッションやスタイルでもヘッズたちを魅了して止まない文字通り日本語ラップのオリジネーター。'90年代には、スティーヴィー・ワンダーのジャパン・ツアーに日本語のラップで参加。
'93年には、米トミーボーイよりリリースされた『Planet Rap: A Sample Of The World』に日本代表として参加。Tommy Boyの社長Tom Silvermanらが始めたNew Music Seminarというインディーズレーベルのコンベンションに出演し、その模様がNY TIMESでも報じられた。その他、THE LION'S DEN(NY)にも出演し観客を魅了した。
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日本のヒップホップ史上で、刀頭との“Beat Kicks”、MUROとの“MICROPHONE PAGER”、 RINO LATINA II、YOU THE ROCK☆、G.K. MARYAN等との“雷”のメンバーとして重要な役割を果たす。
また、'90年代にはソロとして数々のコンピレーション等に楽曲を提供。'96年日本語ラップの金字塔とも言うべきクラシック、“Lamp Eye”の『証言』に参加。'98年東芝にて1stソロ・アルバム『AL-KHADIR(アルハディル)』をリリース。2ndアルバム『FORWARD ON TO HIP HOP SEVEN DIMENSIONS』からはセルフ・プロデュースも始め、常に斬新なアイディアで聴く者を飽きさせない作品を発表し続けている。'04年“雷家族”のフル・アルバム『330 More Answer No Question』をリリース。'05年7月にはR&Bシンガー“HI-D”とのコラボレーション・アルバム『LOVE or HATE』、'06年には5thアルバム『TWIG』をリリース。'07年3月アメリカのプロデューサー“PREFUSE 73”とのコラボレーション・アルバム『AKASATANA』を発売した。
さらに、加藤ミリヤ、ACO、KEYCO、bird、Sugar Soulなどの女性ヴォーカリストとの共演にてメロウな楽曲を多数残している他、今迄の作品には、くるりの岸田繁、小林克也、峰不二子(!!?)、Afrika Bambaataa、Del tha Funkee Homosapien、Company Flow、DJ SPINNAなどが参加、客演としてもDJ KRUSH、DJ Quietstorm、ECD、最近ではHIFANA、The Legendary Six Nine、Ski Beatsの楽曲に参加するなど幅広い層から支持を得ている。
その他、LIVE出演では、'07年“幕張メッセ”「DAFT PUNK LIVE」with HIFANA、'08年“Brooklyn Museum”(NYC)「村上隆(個展)オープニングパーティー」、'08年“日本科学未来館”イベント「Our World, Other Worlds - 進行形の地球論」、'09年“JCB HALL” 「R20 ~Rhymestar 20th Anniversary~」、'10年“名古屋E.L.L. / 大阪BIG CAT / SHIBUYA AX”「The Legendary Six Nine」
'10年“ZEPP TOKYO”「Rhymestar KING OF STAGE Vol.8」'10年以降はband形式でのLIVEも定着させ、mabanua bandによる本格の HIP-HOP BAND としてパフォーマンスを行っている。
今年で活動キャリア25周年、TwiGy改めTwiGy al SalaamによるJazzy Sportからの最新アルバム“Blue Thought”を9月7日にリリースした。