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新潮
立ち読み
2008年6月号
「楽観的な方のケース」岡田利規
海岸のそれなりに近くにある私のアパートの目と鼻の先に、パン屋が開店しました。半年ほどのあいだ空き店舗物件となっていた場所が、そうなる前は、洋菓子屋でした。シュークリームが税込み百円で売られていた、というだけのことが、おそらくは理由で、人気があったのですが、それは私にとっても例外ではなくて、少なく見積もっても、一日おきには食べていました。食べ飽きませんでした。
その洋菓子屋は、元々あった場所からそんなに物理的に離れた地区ではない、しかし住所の表記が単に丁の数字の増減といった程度の変化ではなくて、地名自体がまったく別である、一戸建ての並ぶ住宅地の一帯の、ほとんど中心部に、移転しました。その一帯だったらたぶん値上げして大丈夫だろうと、洋菓子屋が見込んだのだろうというのが私の予想ですが、シュークリームがいつのまにか百二十円になったので、それがもう決定打で、実際の距離以上に、私とその洋菓子屋の心理的な距離は、遠くなりました。おかげでここ半年で、少し痩せました。私が折に触れてその前を通るたび、しかし変わらず店は繁盛していました。でも、もう洋菓子屋に対してはなんとも私は思わなくなっていて、そのシュークリームの特にどこが美味しいというわけでもなかったというのが、今にして思うと私の正直なところでした。当時は、カスタードクリームであればなんでもよかったのかもしれません。
半年間その場所の借り手が決まらずにいたのを、私は、特に義理もないのに気にかけていました。ようやく埋まると聞いて、ほっとしましたが、さらに輪をかけて、そこに次にできるのがパン屋だというので、私は子供の時からパンには目がなかったので、内装工事をしている様子を遠巻きに見ているだけで、高揚がもたらされ、これから幸せが私のそばにやってくるのだ、という浮ついた言葉が頭の中にのぼってきてしまうほどでした。
自分でも意外なほど、その高揚をもてあますようになってしまっていましたが、やがてパン屋が実際に開店し、店頭に開店祝いの花輪が二つ飾られている様子を、その前に立って眺めると、ようやくその高揚は収まりました。私は、いいパン屋さんだといいけど、どうということのないパン屋さんかもしれない、それは分からないな、と思いました。
二週間近く経ったある日、午後二時頃にまだ昼食を食べずにいたら、小腹が空いたので、そこでふと思いついて、初めてそのパン屋に入ってみました。中に入ると、内装は、外側から眺めて勝手に想像していたときの印象よりも、明るくてどこかスカスカした感じを受けました。にもかかわらず店内の面積は、反対に洋菓子屋のときよりもこぢんまりしたような気がしました。私は、パンの上に薄切りの玉葱やチーズを乗せて焼いてあるのを一枚買いました。それ一つだけを選ぶための割には、かなり迷って、十五分近くかけてしまいましたが、歳の行った女の店員は、今後ともよろしくお願いしますと丁寧に言いました。私はその様子から、その人はレジの奥のオーヴンが備え付けられた厨房で、その日のパンを焼く作業はそのときは終えてすでに後片付けを始めていたパン職人のおじさんの、たぶんお母さんだろうと、当て推量しました。その人の、このお店をなんとか軌道にのせなきゃいけないから、アマゾンというネットの本屋さんがありますが、あの会社のトレード・マークみたいな引きつった笑みの口元で必死に客に愛想を振りまいているといった様子が、ちょっと鬱陶しくて逆効果だと、私には思われましたが、同時に、そんなふうに逆効果なのはきっと私に対してくらいのものだから、そのままがんばってほしいと考えてもいました。クリーム色の台紙のポイント・カードをもらったので、財布に入れました。
買ってきたその総菜パンを、入っていたビニール袋を半分ずらしたところで左手で持ち、ネットをしながら部屋でかじっていると、そのパン屋のことが、なにげに評判になっているのが分かってきました。新しくできた「コティディアン」って、美味しくないですか? 美味しいというか、日本のパン屋さん、というより、本格的な感じがしますが。と言っても、本場のパンに詳しいわけじゃありませんが。そうそう、ほんとそうですよね! 私もそう思ってました。ほんとに美味しいですよね。私フランスに何年か住んでいたことがあるんですけど、向こうってやっぱりパンが美味しくて。戻ってきてから、そのことだけずっと残念だったんですよね、それが、「コティディアン」のパンの味って、そのとき味わっていたものとすごく近いんじゃないかなあって思います。おかげで早くも、常連になってしまいました! あ、私も常連ですよ、もしかしたらお店で会うかもしれませんね! なるほど、本場にも負けない味なんですね、私は向こうのパンを知ってるわけではないんですけど、あれ、ここの味はちょっと違うぞ、というのは分かりました。今日伺ったんですが、ご主人は神戸で修行されていたらしいですよ。朝と昼の時間のレジの女性(ご主人のお母様でしょうか?)も、少し関西訛りですよね。
次の日も「コティディアン」に行って、今度はきのうのような総菜パンではなくて、パンの味そのものが判断できるように、食パンを買うことにしようと、私は決めていました。店のおばあさんが、きのうと同じ笑顔で、また来てくださったんですね、ありがとうございます、と私のことをおぼえていたのが、表情の、顔のしわの出来かたまで含めて、人なつっこい笑顔だと思って、私は、好きになりました。八枚に切ってもらうか六枚に切ってもらうかを、自分の平均的な食べる量が、八枚切り二枚分と六枚切り一枚分のどちらだろうかと考えたら、またしても迷ってしまいましたが、今度はものの一、二分でした。結局、どちらにしたのだったか忘れてしまいましたが、私はどちらかに決めました。
お住まいはご近所ですか? とおばあさんが私に訊きました。はい、ほんとうにすぐ近くなんです、と答えて、私もまたおばあさんに、アマゾンのマークを意識した形の口元をして、微笑み返しました。おばあさんが、きのうもらったポイント・カードに、スタンプを追加しました。レジのそばの籐の籠に、自由に持って行っていいようにパンの耳が入っていたのを、私はひと袋もらって、店を出て行きました。レジを打つための位置から見えるガラス越しの風景の領域の外に私が消えて行き、すると次の来客までは、しばらく間が空きました。おばあさんが、笑顔を休んで、あくびをしました。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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