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新潮
立ち読み
2009年1月号
「山姥」瀬戸内寂聴
山径にさしかかった時、雲が切れた。突然あたりが月光で明るくなる。十六夜の月はゆっくり山へ入ろうとしている。
朝刊をびっしり積んだオートバイを飛ばしている山径の左右は、月光に照らされた紅葉が鮮やかな緋や黄に輝いて、ひとりで見るのは惜しいほどだ。
午前四時、まだ真闇な海辺の町の新聞販売店から、十一人の配達人と一緒に出発して、三十分と経っていない。
この仕事を始めてからもう二ヵ月がすぎようとしている。あてもなく、ただふらっと立ち寄った時、十年近くも逢っていないのに、川原周平も妻の燿子も、まるで学生時代毎日逢っていた時のような雰囲気で迎えてくれた。
「やあだ康さん、なんでそない肥ってしもうたん? 女たらしの名がすたるやんか」
いきなり故郷なまりのことばで、けたたましく喋りかけてきた燿子も昔のままなら、その背後から背の高い背筋をすっと伸ばし、目だけになつかしさをあふれさせて、黙って迎えてくれた周平の笑顔も変っていなかった。
周平にメール一本で、行ってもいいかと訊いた時、即座に快諾の返事をくれた。
周平とは大学のラグビー部の仲間だった。二年の時、周平が試合で大怪我をした。下手をすると歩けなくなるかもしれないと言われた怪我人の介護を、買って出たのが燿子だった。その怪我が原因で、選手がつづけられなくなった周平の挫折感を、献身的な介護で、燿子は自分の恋の成就にしなやかに引きこんでしまった。
その頃、最も身近なふたりの友人だった俺は、燿子に泣きつかれて、いくらか取り持ち役のようなことをさせられただろうか。ラグビー部では一番女のファンにもてていたのに、周平は誰とも浮いた噂はつくらなかった。
「ね、もしかして周平はホモ?」
燿子が生真面目な顔をして訊いたことがある。
「知らないな。体当りで試してみたらいいじゃないか」
からかわれたとも思わず、ふうんと、真剣な表情で、まるい顎を引いて考えこんでいる表情が可愛いかった。周平に気がないなら一度くらい慰めてやろうかとちらと思ったほど。
一週間もたたないある朝、燿子が登校した俺を待ち受けて飛びついてきた。
「康さん、ありがと、なかなか結構でした」
大学を出て三人ともそれぞれ別の職についていたが、気がついた時、周平は燿子と結婚して、燿子の郷里の家に住んでいた。四国の南の、遍路の札所のある静かな町の、旧い造り酒家の一人娘だった燿子に、聟入りした形になっていた。
ふたりの結婚式の時は、丁度印度に長期の取材に出張していて知らなかった。望んでいた出版社に勤め、それなりに忙しい張のある生活を送っていた頃だった。
暮しが忙しいほど女は寄ってきたが、結婚して落ち着きたいなど思いもかけなかった。
いつとはなく、相手にする女は自立していて、自分を聡明だと思いこんでいるキャリアウーマンがいいと信じていた。
プライドの高い女ほど、別れぎわに面倒が起らないということを経験で覚えてきた。そういう女は、棄てられる屈辱より、自分から棄てたと人にも思わせたがり、自分もそう信じたがった。礼儀のように別れた後、未練がましくデートに誘うと、にべもなく断るのは、十人のうち三人ほどなのも経験で覚えた。
女はいつでも自分自身が淫蕩な癖に、男が人並より淫蕩で自分を淫蕩のはけ口にしていると思いたがった。少くともそういう形式に見立てたがった。女ほど、自分のことがわかっていない動物はないというのが、俺の女に対する結論だった。
自分が天下に稀な名器だと自慢する女がいた。人妻だった。おとなしい誠実な中学の教師を夫にしていた。夫が自分に首ったけで、たとえ不倫の現場を見つかっても、彼は自分を捨てはしない。なぜなら自分ほどの名器の持主はた易くみつからないからだと自慢した。自称する器は全くの並の代物だった。女は新聞社に勤めていて、有能な記者として活躍していた。新聞記者の方が、中学の教師より人種が上だと思っているような愚か者だった。
そんな女となぜ半年もつきあったかというと、たまたま根のつむ大きな仕事を引き受けていて、別の女と出逢ったりするエネルギーが惜しかったからだった。それに妙な言い分だが、女の夫にたまたま出逢ってしまい、その男が余りにも善良で、もの哀しい目をしていたから、女よりその夫に好意を持ってしまったからだった。
その日曜は、夫は朝早くから趣味の釣に釣友だちと遠出して一日留守だから、家に来いと女に誘われた。
仕事に疲れきっていたのに、神経ばかりが昂ぶって眠れない日がつづいていた。女を抱けば手っとり早く神経が鎮められるだろうと、全く身勝手な浅間しい思惑で、女の誘いに乗った。
何度か情事の後で近くまで送っていった女の家へ行き、形ばかりの門の脇のベルを押すと、玄関から女が駆けだしてきて迎え入れた。念入りに化粧した女が玄関に招じ入れ、俺が靴を片方脱いだとたんだった。台所口の戸が音もたてず開き、男がぬっと顔を覗かせた。一目で女の夫だと直感した。見るからに善良そうなその表情は、好奇心から何度か俺が思い描いてみた顔と余りにもそっくりだった。女は自分の背後で起きていることにまだ気がついていない。
「暑かったでしょ、ビールが冷えてるわ」
はしゃいだ声が疳高い。片方の靴をぬぎかねて、女に目で知らせると、はじめて女は背後をふり向き、さすがに体を硬直させた。
「どうしたの?」
「海がしけてて舟が出せないって」
「……」
「お客さんに上っていただけよ」
「あ、夫です。この方、藤野康さん、フリーライターの。不登校の生徒の取材をしていらして……」
女が言いわけがましい思いつきを喋るのを、夫はほとんど耳にしていないふうだった。
「冷えたビールをお出ししろよ」
それが精一杯の皮肉だったのだろう。
俺は引っこみのつかない気分で、のろのろ座敷に招じいれられていた。ビールを女の夫につがれて呑み、その男が持ちだした碁盤と石で碁を打つはめになった。使いこまれ飴色になったどっしりした碁盤と、指の腹に吸いつく、ふっくりした石は、相場師だった女の父親の持物だったと女が説明した。その男は釣より碁が得意と見え、とても歯のたつ相手ではなかった。碁盤の上でこっぴどくやっつけられながら、いく分男に懴悔出来た気がしてきた。
女がコーヒーをいれに台所に立ったすきに、コキュの男はもの哀しい目を伏せて、ぱちっと石を打ちながらつぶやいた。
「気にしないでいいですよ。こんなことははじめてじゃありませんから」
「……どうも……」
「お恥しいやつです。しかし……」
そこへ女がコーヒーを持ってあらわれた。
「しかし」の後に何というつもりだったのだろう。帰りの電車の中でずっと考えていた。
その女の時だけは、しばらくしてこちらからきっぱりと別れを告げた。
もうひとりの女は、自分が万に一つの世にも稀な名器を持っていることを、全く自覚していなかった。女と同棲した男は次々死んでいった。
同棲しないまでも喫茶店を開いている女の店の客の誰彼が、女と関わりを持つ度、どの男も、ある時からふっつりと店に来なくなった。
マシュマロのようにふわふわしたやわらかい女の全身を、ぎゅっと握りしめ、押しつぶしてやりたいような誘惑をそそられる。そんな女を見捨てておけず自分も関わってみて、男たちの逃げ去るわけがようやく納得できた。稀有な女の秘所の美味さより、男たちは自分の命が惜しいのだ。
いく人の男に先だたれ、理由もつげず逃げられても、女の持ち前の純情は一向に損われず、ひたすら、今の男に全身全霊でよりかかる。
「どうして? どこがいけないの、悪いところ教えて、直したいから」
まるで童女のような無垢な目に涙をいっぱいためて、胸を叩かれると、どの男も逃げようと決めた自分こそ、極悪人のような気分に襲われて、いっそう逃げださずにいられなくなる。
どうして女というものは、誰もどれも自分がわからないのだろう。
もういい加減で女との関わりを断ってしまおう、と思いながら、気がつくとまた女の張った蜘蛛の糸のような網に引っかかっている。
あれだけ子供は欲しくないと気をつけていたのに、自分の子供といっていいほど若い女の策略にまんまとかかって妊娠されてしまった。
産むなと言い争ったら、短い旅に出ている留守に、薬を呑み、自殺を計られた。稚拙な遺書があったので、旅先から呼び戻され警察沙汰になってしまった。子供は死産し、やがて女も子供の跡を追った。自殺ではなく、偶然の交通事故だった。
友人と共同出資で興していた通信社が、二年と持たないでつぶれてしまった。
自分に自信を失い、やけ酒に溺れて最低の日がつづいた。無為の日に耐えられなくなり、病院に行けば、鬱病だと診断された。
旅先で死場所でも見つかれば、それでもいいかという投げやりさで出た旅だった。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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