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新潮
立ち読み
2009年3月号
「とにかくうちに帰ります」津村記久子
狭い備品室の最奥のロッカーの中に、スクーター用のレインコートが掛けてあった。オニキリの言うとおりだった。ハラは、ロッカーの戸を開けたときに舞った埃で咳をしながら、それをつまんで取り出し、窓の向こうの雨が勢いを増すのを少しの間眺めた。朝出社した時は小雨程度だったのだが、昼過ぎから降りが激しくなって、今はもう豪雨と言っていい態まで天気は変化していた。警報も出されているらしく、仕事が残っていない社員の中には、昼から早退する者もいた。
それにしても、なんでわたしがこんなものまで、と思う。いくらわたしが事務所内の備品管理係を請け負っているからとはいえ、こういう日ぐらい探し物は自分で探せというのだ。営業部の一年後輩のオニキリは、帰宅がてらに、このオフィスの建物がある埋立洲の反対側の会社に届け物があるとのことで、スクーター用の分厚いレインコートが事務所にあるのを思い出したらしいのだが、ハラにはハラの仕事がある。交通機関が停止しないうちに帰れという通達が本社から出て、かつ週明けまでにこなさなければいけない作業が残っているこんな金曜日に、何を言ってきているのだあいつは。
口の中を噛んで眉をひそめ、なるべく仏頂面を作って事務所に戻る。接客用のカウンターに、ビニールで覆った届けものの紙袋を置いたオニキリは、じいっと立ってハラが備品室に続く廊下から現れるのを待っていたようだ。その石像のような有様もなんだかいらいらする。事務所には他に、一年先輩の営業のイシイさんと、中途入社して十ヶ月になる千夏ちゃんがいる。この事務所のある埋立洲から、橋を越えて仕事先に出ている社員達は、次々と直帰するという連絡を入れてきている。電車止まりそうだし、車も渋滞してるし、ハラさん達も早く帰れよ、とのことだった。ハラは言われなくても帰るつもりで、だからこそオニキリの用事に手こずっていらつくはめになったのだが、イシイさんはどうしても片付けたい仕事があるらしく、千夏ちゃんは、理由はよくわからないのだがなぜか居残ってデスクを片付けたり爪を見たりしている。もしかしたら、彼氏か誰かが迎えに来るのを待っているのかもしれない。
すっごい奥のロッカーに入ってた、よくあるの知ってたね、と言いながら、努めてぞんざいな動作で、がさがさするレインコートをオニキリに渡す。すみません、とオニキリはそれを受け取る。
「おれが探すと散らかしちゃうんで、ハラさんに見てもらうのがいちばんかなと思って」
「あたしだって普段みんなが使ってないものの場所はなかなかわかんないよ。スクーター用のレインコートって、原付自体この会社の人乗ってないし」
いや、でも、とオニキリは何か言いかけてやめ、そいじゃ、気をつけて帰ってください、とハラに一礼して、事務所を去っていった。ハラは腕を組んで、オニキリの大きな背中を見送り、自分の席に戻って、スクリーンセーバーが動いたままのパソコンを眺める。
もういいか、とは思う。得意先に、火曜の朝いちばんに納品してもらう部品の仕様の小さい変更についてのメールを書いているのだが、家に帰るのか帰らないのかということが気になって、なかなか数字が出せないでいる。しばらく自分が書いた文面を読み返した後、今日の夜に送っても問題はないとハラは判断し、あーあ、と伸びをしてため息をついた勢いでパソコンの電源を切る。イシイさんが、ネクタイを緩めながら、斜め前のデスクから声を掛けてくる。
「ハラさん、帰るの?」
「やっぱり帰ります。このまま電車あるのかないのかばっかり気にしてても仕事にならないし、帰って夜に自宅からメール送っても、先方は明日土曜出勤のはずなんで、大丈夫かなあって。千夏ちゃんも早く帰りなよ?」
千夏ちゃんを見遣ると、いつものようにきれいなボルドーにマニキュアを塗った爪を見ながら、はあいと答えた。いまいち考えていることがよくわからない子だと思う。はあいと言いつつ、ハラが更衣室に向かってもついてくる様子はない。でも、帰りが一緒にならないのもそれはそれでいいと思う。雨の日の帰り道は、あまり人といたいとは思わない。どちらかというと雨が好きなほうであるハラは、埋立洲と、本土にある電車の駅の間をつなぐ循環バスの窓ガラスに次々あたる雨粒をじっと眺めながら帰途につくのが気に入っていた。
ロッカーを開けると、家から持ってきて置いているレインブーツが目に入る。水色と紺のチェックの新品で、最近の雨降りの多さに、先週末に買ったばっかりのものだった。しかし今週は好天が続いており、せっかく買ったのに出番がないことにがっかりしていたのだが、今日やっと活躍してくれそうで、ハラは少しうきうきしていた。
それじゃあ後よろしくお願いしますねー、と言いながら事務所を通って玄関に向かう。千夏ちゃんの考えを斟酌することが無駄としても、イシイさんはどうするのだろう、と思う。今日はバスだったのか車だったのか、その日の仕事の状況によって社員が交通手段を変えるのはこの会社ではよくあることなので、ハラもいちいちは把握していない。
建物を出ると、隣のビルから出てきた会社員達と進行方向が同じになった。ハラと同い年ぐらいの男二人組で、彼らは駐車場のある方に曲がっていく。
「いやーでも今帰るのもどうかなあって思うなあ」
「なんで?」
「だってさあ、あと二時間もしたら雨ましになるかもしれないだろ。これからピークが来るらしいんだけど、その時にわざわざ出て行くのもなあって」
「でも電車とか止まってるっていうしなあ。やっぱり早く帰っといたほうがいいよ」
「それもそうだけどぉ。会社に残ってるやつのが結果的に快適に帰れたらいやだなあ」
二人組の片方は、気の進まない様子でありながら、結局駐車場の中に入っていく。ハラは、傘にぶつかる大粒の雨の音を聴きながら、彼らの話していたことについて少し考える。ポップコーンがレンジの中ではねているような音だ。というか、ポップコーンをレンジで作るよりも、雨に遭う回数の方が日常でははるかに多いわけだが、ハラはなぜかそう思った。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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