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立ち読み

2010年4月号


「リア家の人々」橋本 治

   第一章 柿の木
 いや、いや、いや、いや! さ、牢獄へ行こう、二人っきりで、籠の小鳥のように、歌って暮らそう。おまえがわしに祝福を求めれば、わしはひざまずいておまえに許しを乞う、そのようにして生きていこう。
ウィリアム・シェイクスピア
『リア王』第五幕第三場(小田島雄志訳)

       (一)
 家に入ると文三(ぶんぞう)はそのまま茶の間へ進み、天井からぶら下がっている蛍光灯の紐スイッチを引いた。
 薄暗い部屋の中にグローランプの紫の光が点滅して部屋が陰気な光に包まれた時、後ろの襖を開けて娘の静(しずか)が入って来た。朱塗りの座卓の前に腰を下ろしている父に目をやった静は、「今、お茶を淹(い)れますね」と言って、そのまま庭の廊下に面した障子を開けた。片手を伸ばし、廊下に引かれているカーテンも開ける。
 曇り空だったが、十一月の午後四時はまだ明るい。文三は、「まだ明るいな」と言って、点けたばかりの蛍光灯のスイッチを切った。庭に面したカーテンを開けた静は、「ええ」と言って、座敷の障子を閉めて部屋を出て行く。
 障子の向こうにうっすらと陽の色が見える。黄昏の薄明かりに沈みそうな部屋の中に座った文三は、ネクタイの結び目をゆるめると、「さて――」と言ったまま動かなくなった。

 妻の十三回忌だった。法要とその後の宴席に、かつての家族だった者達が集まり、去って行った。かつては五人が暮していた二階家に、今は文三と末の娘の静、そして新たにやって来た若い下宿人の三人しかいない。「それじゃまた――」「義兄(にい)さん、お元気でね」と言われた声がもう聞こえない。
 娘の静は、着替えのために二階の自室へ上がった。ネクタイの結び目をゆるめたばかりの文三も、思いついたように立ち上がると、着替えのために隣室の襖を開けた。耳の奥に残っていた一族の賑やかな声も、午後の光と同じようにゆるやかに消え、もう聞こえない。寝室として使われている隣座敷へ入ると、文三はまた思いついたように、妻の位牌が置かれている仏壇の前に座り、鈴(りん)を鳴らした。
 法要が終わったとはいえ、妻は変わらずにそこにいる。いなくなったとは思えない。文三は、ただ黙って手を合わせた。
 文三は、来年六十になる。二十三回忌の年には、七十を間近とすることになる。自分が七十歳になるかもしれないことを思い、その遠い先を思わずに妻の位牌に向かって手を合わせたまま、なにを思い出していいのか分からない文三は、やせた肩から息が抜けるまでの間を、ただ座っていた。
 妻のくが子は四十歳で死んだ。文三は四十七歳だった。スイスのジュネーヴでアメリカとイギリスとフランス、そして健在だったソ連の首脳が会談し、「冷戦の雪解け」が報じられた年だった。ジュネーヴで会談のあった翌月の八月には、広島で第一回の原水爆禁止世界大会が開かれ、十一月には自由党と日本民主党の二つの保守党が合同して自由民主党が成立し、左派の日本社会党を野党第一党とする「五五年体制」と言われるものが長く続く、その基礎がスタートしていた。その後の日本政治の大本がスタートする一九五五年の十一月に、妻は死んだ。癌だった。
 当時は不治の病の同義語に近かった癌と診断された妻は、一年七カ月の間病室にいた。もちろん、妻に病名は知らされない。「余命は一年。二年とは保たないだろう」と文三一人に知らされて、それを抱え込んだ時が、彼の一生の中で一番つらかった。やがては身近な人間にその事実を明かし、秘密を人と分かち合うようにもなったが、それでも文三はつらかった。妻を愛していたのかと言えば、そのような実感が文三の中にはなかった。妻は、ただ「妻」だった。しかし、「その妻を死なせてしまった責任は自分にあるのだ」という思いが、文三を責め立てた。
 その思いは薄らいだが、いわく言いがたい痼(しこ)りは、まだ文三の胸の中に残っている。
 妻が死んだ当時、文三は文部省の役人だった。終戦と共にやって来たGHQの公職追放令によって文部省を追われた文三が、追放の解除によって文部省へ復職した、その二年後に妻のくが子は癌と診断された。生活苦の自分を支えるために働いていたそのことが、妻を死の病へ追いやったのだと、文三は考えざるをえなかった。

 
続きは本誌にてお楽しみ下さい。

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