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2010年4月号


「批評と殺生――北大路魯山人」大澤信亮

    一

 生きることは食べることであり、食べることが殺すことであるならば、私たちにどんな希いが許されているだろうか。何も許されていない。この結論は絶対に思えた。そこから目を逸らしたすべての試みが空疎に思えた。今も思っている。
 殺してよい者といけない者の線引きは言うまでもなく、殺される者への感謝も、殺す者としての反省も、居直りも、たった一つの命を奪う者の覚悟として、生ぬるい。菜食主義者の誇らしげな主張も、食事という暴力を忘れている。迫られているのは、その種の自己正当化の拒絶を最低条件とする、終わりなき自己への問いなのだった。
 たとえば、「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義の創始者ジェレミー・ベンサムは、二百年前にこう言った。

 いつの日か理解されるときが来るかもしれない。足の数、皮膚の絨毛、あるいは仙骨の末端のかたちによって、ある感覚をもった生き物を、同じ運命(ヨーロッパの白人が黒人種を思うがままに扱ってきたこと――大澤)へと追いやることは、同じく不十分な理由であるということが。では他に何によって越えられない一線を引くべきだろうか? 思考する能力だろうか、それとも、ことによると、談話する能力だろうか?(中略)問題は、思考することができるか? とか、会話することができるか? ではなくて、苦しむことができるかということである。(『道徳および立法の諸原理序説』大澤信亮訳)

 倫理学者のピーター・シンガーは、このベンサムの認識が、女性差別や人種差別を撤廃する根拠と通底することを明らかにし、そこから「動物の解放」を訴えた。
 彼は、差別を告発する者が陥る能力主義の罠を糾弾し、平等の根拠を個体の苦しみに求めた。女性だから、有色人種だからという理由で差別してはいけない――そう得意気に口にする者たちが暗黙の前提にする、「私と同じ能力を持つならば」という自己中心性を撃ったのだ。
 シンガーの論理はこうだ。能力主義に支えられた平等は、逆に言えば、能力が無ければ差別して良いという結論に至る。ところが、そのような能力を巡る判断自体が前提にしている、メタレベルの「能力」がある。
 それが「苦しみ」である。「苦しんだり楽しんだりする能力は、いやしくも利害をもつための前提なのであり、われわれがその利害を語ることが意味をなすために満たされなければならない条件なのである」(『動物の解放』)。そして、苦しみが平等の根拠であるならば、それは人間に限定されない。むしろ、この世に存在するありとあらゆる苦しみを除去することだけが、真の平等の条件になる。
 誰もが彼を笑うだろう。「極端だ」「生真面目すぎる」「人間と動物を一緒にするな」「人間はそんなに完全ではない」「どうせ死ぬのだから楽しく生きればいいじゃないか」。しかし、打ち砕かれていくのは、そんな日常から来る「常識」の方なのだ。なぜなら、シンガーは、その常識の条件を「他者」と共有しようとしているだけなのだから。
 ある認識を他者と共有しようとすることは破壊的なのだ。
 彼は「人間に適用されている道徳基準を他の動物にも広げようという気持」(同前)のない者に激怒する。この「人間」に、たとえば「白人男性」を、この「他の動物」に、たとえば「奴隷」「有色人種」「女」「子供」その他を代入してみるがいい。わかるだろう。私たちがシンガーの主張を簡単に否定できないのは、それが、私たちの平等な生存の条件それ自体を否定することになるからだ。
 すでに私たちが当然のものと思い込んでいる「人権」の光源にも、その時点での常識を破壊し、他者との関係のなかで互いを変えていく血みどろの格闘があった。そして、議論が理性的・論理的に進められるかぎり、私たちの常識は彼の徹底性の前に無残に破れていく。
 しかし、シンガーにも依然、不徹底なものがある。
 そこには「苦しむことができる」という能力主義が残っている。この暗黙の前提は、彼の「植物人間」への冷淡さや、菜食主義の礼賛に直結する。苦しむことができない存在なら、殺すのに何の躊躇いも感じることはない、というわけだ。
 だが何をもって他者が「苦しむことができる」と判断し得るのか。暴力を振るったときに叫び声を上げるからか。神経系統に人間に近しいものがあるからか――そのように進んでいくとき、私たちは、究極的に、誰が苦しみ、誰が苦しまないのか、決定できない。植物も、石ころも、空気も、水も、苦しんでいるのかもしれない。私たちがその固有の表現をまだ発見できないだけで。ならば、シンガーの誇らしげな菜食主義は、結局、女性や有色人種を差別してきた者たちの論理を反復するだけではないのか。
 とはいえ、必要なのは、植物や鉱物の痛覚を実証することでもない。
 平等の根拠を「苦しみ」に置く発想自体の転回である。
 苦しまなければ、殺していいのか。苦しんでいれば、殺していいのか。世界にはなぜ、苦しみが存在するのか。私たちはなぜ、それを消し去りたいと望むのか。
 いや、こんな観念論ではなく、実感から問おう。
 どうして、命を殺すことが、こんなにも恐いのか。
 心理学者にして軍人であるデーヴ・グロスマンは、戦場という、生きるか死ぬかの極限状況においてさえ、そのための訓練を受けている兵士でさえ、実際に人間に向けて発砲できる者はわずかであると証言した。「兵士には人が殺せない」(『戦争における「人殺し」の心理学』)。
 たとえば、第二次大戦では、兵士の発砲率は一五から二〇パーセントだったという。
 しかし、ベトナム戦争では、この数値は九五パーセントまで急上昇する。それを可能にさせたのは「現代式訓練プログラム」だった。第一に、敵を「殺しの対象としてよい別種の動物」として認識させる「脱感作」、第二に、人形のボードを標的訓練に用いることで考える前に発砲させる「条件づけ」、第三に、その二つを反復することで、現実に人を殺しても「自分は誰も殺していない」と錯覚させる「否認防衛機制」。この三つを組み合わせることで人は人を殺せるようになる。そうグロスマンは言う。
 この兵士の姿が私たちの日常に重なって見える。
 現実には人間を殺しているにも拘わらず、自分は誰も殺していないと合理化する兵士の姿は、加工された肉を貪りながら、殺生と無関係な気でいられる、私たちの姿そのものではないか。戦争や食肉を糾弾しているのではない。目の前の現実を、別のものへとすり替え、それを思考停止的に習慣化することで、自分を否認しなければ生きていけない、人間という生き物の悲しさを考えている。
 なぜ悲しいのか。そのように生きるかぎり、私たちは、自分自身を愛することができないからだ。私たちの究極的な使命は、自分を心から愛せるかどうかにしかない。それは、殺す者として自分を愛せるかということだ。しかし、私たちの根源にある、命を殺すことの苦しみが、その優しい心こそが、自分自身を愛することを否認させる。この否認が暴力を第三者に委託するシステムを生み出す。それは自らの暴力を忘れさせるだろう。だが、一見、どんなに快適に思えても、そのとき自分を真に愛する可能性も失われたのだ。
 ならば人や動物を平然と殺せるようになればいいのか。違う。それは恐怖を克服したかに見えて、逆に、この「プログラム」に回収されることでしかない。大切なのは命を殺すことの恐怖それ自体にどこまでも寄り添うことだ。
 それは論理的に考えるなら、この「プログラム」の逆を行くこと、すなわち、殺している自分を認識し、習慣化した思考形式を現実へと開き直し、殺してよい者といけない者の選別が始まる瞬間まで自らを遡行させることを意味する。私たちは既成の考え方それ自体を疑わねばならない。
 そのために、この文章は、独白、文献、伝記、理論、その先の記述へと進んでいく。そのとき私たちは殺生という行為の何を恐れているのかを知る。それを知ることは人を冒頭の認識の前に立ち尽くさせるだろう。だが先があるはずだ。かつての行き止まりを今度こそ踏み越えたい。差し当たり「私は誰も苦しめていない」では済まない。苦しめる者、食べる者、殺す者として自己を見出すことから、すべてが始まる。

 
続きは本誌にてお楽しみ下さい。

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