立ち読み

2016年2月号


「黎明期の母」島田雅彦(新連載)

1 カタストロフ・マニア

 実際、頭痛を堪えながら、文明を滅ぼす以外に何もやることはなかった。シマダミロク(26)はここ二週間あまりのあいだに、十二の小国と三つの帝国を滅亡させ、四つの文明を消滅させた。植民地ではしょっちゅう反乱が起きるし、都市の人口が増えると、疫病が発生するし、天災に見舞われると、飢饉が起きる。財政問題が一番厄介だ。数字に弱いミロクはどんぶり勘定で軍隊を派遣し、福祉を充実させるのだが、どちらもすぐに追加予算を捻出しなければならなくなる。自分のカネではないので、気前よく使ってやるのだが、気弱そうな役人が帳簿片手に、「資金が底をつきました」と報告しにきたら、また最初からやり直しだ。
 ゲームの目標は国家や文明を繁栄させることなのだが、各方面にバランスよく、繊細な配慮を施してやらなければならないし、退屈な作業を忍耐強く続けなければならない。賭博的な戦争やハッタリの外交、大盤振る舞いの経済政策はことごとく裏目に出る。綻びを放置すれば、傷口はたちまち広がる。そのうち、ミロクは繁栄につながる煩雑な改革よりも滅亡を加速させる愚策の方に楽しみを覚えるようになった。しょせん他人が築き上げた国家や文明だ。破壊は創造の神だというし、そもそもゲームのタイトルが「カタストロフ・マニア」というくらいだから、プレイヤーに破滅をそそのかしているとしか思えない。

 三週間前、ミロクは他人以上友達未満の二階堂に「健康になれる仕事があるけど、やらないか」と誘われた。
――三食付きで、何もしなくていい。漫画ライブラリーも充実しているし、ゲームもやり放題で、希望すれば、個室もあてがってもらえる。要するに、暇を売って稼ぐ仕事だから、お前がやらなくて、誰がやる。たった一週間で十五万もくれるところなんて絶対ほかにないぜ。
 うまい話には裏があるに決まっている。どうせ誰かの身代わりに刑務所に入れとかいう話だろうと疑うと、「刑務所じゃなく、病院だ」といった。やけに熱心に薦めるくせに、二階堂自身はそのバイトをやったことがない。簡単な健康診断と問診があるらしいのだが、二階堂はそれではねられてしまったらしい。
――とりあえず、ネットで仮登録をして、説明会に参加してみてくれ。怪しいと思ったら、断ってもいいから。
 ミロクには二階堂からカネを借りている弱みがあった。二階堂は、一週間で十五万稼げる仕事にミロクをぶち込めば、貸した金は確実に戻ってくると計算したのだ。
 それは治験モニターと呼ばれる、新薬の効果や安全性などを最終確認するために自分の体を提供する仕事だった。正式には有償ボランティアで、もらうのは賃金ではなく、謝礼。だから、税金も取られない。決められた日数、入院し、規則正しい日課を送りながら、投薬と採血を繰り返すのだが、すでに海外で治験済みの薬を試すので、安全性に問題はないということだった。ミロクに投与されるのは免疫力を著しく高める薬で、製薬業界では夢の新薬と期待されているという説明も受けた。二十一日間の拘束で五十万円もらえるという最も条件のいいコースに申し込むと、すぐに心電図を取られ、血液検査、尿検査の後、医師の問診を受けた。二日後に電話で合格通知が来て、緑豊かな丘陵地帯の病院に出向いた。二十名の合格者と十名の補欠要員が集められ、治験中の諸注意の説明があった。ミロクは補欠要員だったのだが、合格者の一人が身内に不幸があり、辞退したため、治験に正式参加することになった。

 治験者は眠りヶ丘病院の別棟にある今は使用されていない小児科病棟に集められ、四人ずつ五つの病室に分けられ、カーテンで仕切られたベッドを与えられた。その日から全員が番号で呼ばれることになり、ミロクには「36」の番号が割り振られた。これは最初の説明会の時に渡された受付番号と同じだった。
 リュックに入れて持ってきた私物をベッドサイドのロッカーにしまうと、持参したスリッパを滑らせながら、ロビーに集合。検査に従事する医師や看護師、スーツ姿の製薬会社社員らに面通しされ、さっそく、第一回目の投薬が行われた。鼻にチューブを差し込まれ、ゲル状の液剤を注入される。それを鼻水をすする要領で吸い込み、粘膜から成分を摂取するのだ。勢い余って、液剤が口の中に入ってきたら、痰のように呑み込む。冷蔵庫に保管されているため、ひんやりとした刺激が鼻を突き抜け、思わず、くしゃみをする治験者もいる。慣れれば、案外、気持ちがいい。その後、二十分おきの採血が計六回あり、以降は二時間に一回のペースになる。十人ずつ二列に並ばされ、秒読みの声とともに定量の血液を抜き取られる光景はカルト教団の儀式めいている。眉間に皺を寄せる奴、チックが出る奴、覚醒剤を打たれたみたいに目尻を下げ、鼻の下を伸ばす奴、抜かれる側の微妙な表情は抜く側の無表情といいコントラストをなす。これを一日十二回、繰り返す。そして、三時間後と就寝前に尿検査。以上が一日のノルマで、残りの時間は思い思いの暇つぶしに充てられる。とはいえ、治験者のコンディションを均一に保つために、入院中の生活は規律に合わせるよう指導される。
 タバコや酒、カフェインは基本、控えなければならないが、あらかじめ申告しておけば、夕食時のビール一缶、コーヒー一杯は許された。食事は三食とも定時に食堂に集められ、全員同じメニューを、決められた分量だけ食べる。お代わりもお残しもなしで、調味料を足すことも許されない。しかも、持ち込み禁止、間食禁止。一人、摂食障害の男がいて、病室で夜中にこっそりスニッカーズ五本とポテトチップス三袋を暴食していたのがばれ、帰宅させられた。給食は肉、魚、野菜のバランスがよく、カレーやハンバーグ、カツ丼、麺類など日頃から食べ馴れているものも多く、偏食気味のミロクでも苦にならなかった。あまり体を動かすことが好きではない面々が集っているせいもあり、食間に空腹を感じることもなく、むしろ、腹回りがだぶついてくる自覚があった。
 ここには看護師以外の女性はいない。服装は自前だが、自分の見栄えを気にする人などおらず、皆、パジャマやジャージ姿のままだった。自宅にいるときの癖で、つい股間に手が伸びそうになるが、そちらの営みは排便時か、シャワータイム限定ということになっていた。
「尿検査の際、タンパク質が混じっていますと、再検査になってしまいますので、ご配慮をお願いします」と看護師の癒し系の声でアナウンスされた時には、廊下に乾いた笑いが響いた。だが、それ以外はほとんど治験者同士、談笑するようなことはなく、自分に割り振られた番号のように抽象的な存在でいようとし、自己主張を放棄していた。このボランティアには引き寄せの法則が働いていて、仮想世界の住人ばかりが集まってきたのだろう。話が合わなくもないはずなのだが、モルモット同士仲良くしようと思う者は一人もおらず、隣のベッドにいる人に自己紹介もせず、持ち込んだ端末を通じて、もっぱら別世界とつながり、「心ここに在らず」だった。互いにどれくらい無関心でいられるかを競っていて、先に話しかけた方の負けという暗黙の了解すらできていた。

 ライブラリーには漫画や小説、ベストセラー本、新聞、雑誌が揃っているし、ゲームソフトやDVDの貸し出しも行っている。病棟内は自由に歩き回ることができるが、外来患者や入院患者のいる本病棟にはなるべく行かないようにいわれていた。外出はできないが、希望者を集めて、近隣の里山の散歩、ショッピング・モール・ツアーや屋上でのバドミントンなどの気晴らしイベントも催された。参加者は毎回、十人くらいで、残り十人は自分のベッドから離れなかった。針を刺した腕のアザが思いのほか痛むし、薬の副作用なのか、度重なる採血のせいか、偏頭痛や吐き気に悩まされる治験者も少なくなく、なかなかリクリエーション気分にはなれなかった。ミロクもその一人だ。
 二十二時になると、小児病棟は消灯となる。ロビーとライブラリーには読書灯があるので、起きていたい人はそこで読書やゲームを続けることができる。タンパク質を放出したい人はシャワー室やトイレに籠もるか、真っ暗な自分のベッドでファントムと添い寝する。
 一週間が経過すると、二十人いた治験者は半分になった。一日百二十㏄ほど血を抜かれているから、一週間の累積では八百四十㏄抜かれたことになる。吸血鬼の幻覚を見た人もいるだろう。離脱者が出るのは当然だ。最初から一週間の契約だった人が六人、間食を見咎められ、帰された人が一人、頭痛と吐き気に堪え兼ねた脱落者が三人、補充された人が三人いたが、別の三人が「針を刺す場所がない」、「性欲の捌け口がない」、「みんなぼくを嫌っている」といった理由で、離脱した。彼らは一週間分の謝礼を現金で受け取っていたから、この製薬会社は良心的といえる。
 ミロクは日中の自由時間のほとんどを「カタストロフ・マニア」をプレイして過ごした。無意識に独り言を呟く癖が同室の人の迷惑になるといけないので、閲覧室の仕切り付きの机やロビーのソファー、屋上庭園のベンチにいることが多かった。時々、採血の副作用で頭の中で落石が起きたような頭痛に襲われたが、深呼吸をすると、楽になることを発見した。
 正直、墓の下のように波乱のないこの日常にさらに二週間耐える自信はなかった。離脱する連中を一人、二人と無言で見送るたびに、「逃げ遅れた」とか「取り残された」という思いを抱いた。製薬会社も最初から歩留まりを計算して、多めに採用しているから、離脱者を引き止めないのだろう。
 もう一回、文明を滅亡させたら、オレもここを出て行こう。
 十日目にミロクはシャワーを浴びながら、離脱のタイミングを決めた。

 十二日目の深夜、ミロクは大英帝国を滅亡させることができたので、翌朝の投薬の時、看護師に「相談したいことがあるんですが」と切り出した。眼鏡をかけ、表情にも乏しく地味なのだが、肉厚の唇やくびれた腰に色気がある。タンパク質のアナウンスをしたその声にもすでに隠れファンがついているだろう。医師には国枝さんと呼ばれていることをミロクは知っている。  採血が一段落ついたら、ナースセンターに来るようにいわれたが、その日の投薬前にまた二人が私物をまとめて、去ってゆく背中を見て、「またしても先を越された」と思った。
――さすがに血を抜かれ過ぎて、貧血気味で、これ以上は無理そうなんですが。
 離脱の理由としてはごくありふれていたが、実際、ここ二日はめまいや立ちくらみがあった。
 ナースセンターには製薬会社の社員もいて、コーヒーを飲みながら、ミロクの相談事を脇で聞いていた。
――さっき、出て行った41番さんは「自殺の誘惑に駆られる」といってました。それくらいインパクトのある理由じゃないと、離脱は認められませんよ。36番さん、あなたは二十一日コースでの申し込みですから、残りは今日を入れて九日間です。もう少しの辛抱です。
――いや、この顔色見てくださいよ。蝋燭みたいになってますよ。立っているのもやっとなんです。
 ミロクは社員にそう訴えながら、壁に手をかけ、息を荒げてみせると、看護師は「ではベッドで安静にしていてください」と愛想笑いを添えていった。
――ほかの人の離脱は認めてるのに、なぜぼくのは認めてくれないんですか?
 製薬会社社員はミロクをナースセンター奥の応接室に入るよう促し、国枝看護師にも同室を求めると、改まった口調でこういった。
――ではこうしましょう。血液検査は予定を切り上げて、今日限りでやめにします。充分、データは取れましたから。血を抜かなければ、二、三日で体調は戻るでしょう。いや、あなたの場合はほかの治験者より健康になっているはずです。これは免疫力を高める薬の治験ですから。
――ほかの人にも同じ薬を飲ませているんだから、条件は同じでしょ。
――いや、実は三分の一の治験者にはプラシーボ効果を見るためにビタミン剤を投与しているんです。治験はすでに第二の段階に入っていますが、予想以上に多くの入れ替わりがあったので、あなたには残ってもらいたいんです。残った七人の治験者のうち、新薬投与組はあなたを含め四人しかいない。ほか三人はプラシーボ組で、彼らは二週間コースなので、明日ここを去ります。
――ぼくが抜けても、まだ三人いるじゃないですか。
――最低でも四人には残ってもらわないと、この薬の安全性や効果を証明するデータが取れないんですよ。だから、お願いします。人が減ってきたので、個室を用意しますし、飲み過ぎないと約束してくれれば、お酒も飲んでいいですから。
 ミロクはもう一つ条件を追加した。遠くへは行かないし、決められた時間に戻ってくるので、自由に外出させて欲しい、と。謝礼をもらわずに逃亡するほどバカではないし、飲んだくれたくても、近くに酒屋はない。ただこの監禁されている気分からひととき解放されたいだけだ、と説明すると、「信用しましょう」といってくれた。

 十三日目、採血を免除されたミロクは早速、外出の自由を行使した。雲一つなく晴れ渡った午前、丘陵地帯の遊歩道を自らの歩みを確かめるように歩いた。貧血のせいで、浮遊しているようではあったが、枝葉のあいだを吹き抜けて、かすかに森の香りをまとった冷涼な風に頬を撫でられながら、ミロクは謝礼の五十万円の使い道に思いを巡らせていた。
 二階堂に借りた十万と消費者金融から借りた十万を金利込みで返しても、二十七万は手元に残る。実家に生活費を入れ、母に何かプレゼントして、自分にも借金完済の褒美を買い、まだ財布に金のあるうちにまともな仕事を探したい。
 そんな殊勝な誓いなら、毎月のように立ててきたものの、自分は常に搾取される側に置かれている。今回も、ふと気づけば、血を搾取されるモルモットに甘んじている。これもひとえに自分が不器用で、受け身に回ってばかりいるからだ、とわかっている。だが、昨日はほんの少しだが、待遇の改善を勝ち取ることができ、嬉しかった。里山を歩けば、自ずと邪気を吐き出し、代わりにフィトンチッドを吸い込むことになり、気分も上向く。ミロクは丘陵地帯の一番高いところに上り、下界を見下ろした。近くには蛇行する川、その背後には無数の電子基板を敷き詰めたような都心の光景が広がっていた。ここに来るのは初めてのはずだが、幼い頃に父と一緒に同じ風景を見た記憶がある。確か、ここに来る途中、地下水が湧き出ている場所があり、そこで喉の渇きを癒した。あるいは何処か別の場所と勘違いしているのか、しばらく周辺を歩き回ってみたが、湧き水は見つからなかった。
 小一時間の散歩から戻る途中、自動販売機でドクターペッパーを買い、飲みながら、病院に戻ってきた。バスを待つ列に並んでいる女性がミロクに会釈したので、二度見すると私服に着替えた眼鏡の国枝看護師だった。「おでかけですか?」と声をかけると、治験者は四人だけになり、人手がいらなくなったので帰宅するということだった。毎日、顔を合わせながら、ほとんど話す機会もないまま、すれ違ってゆく。それがここでの流儀なのだろうが、あの癒し声が聞けなくなるのは名残り惜しい。たぶん、これっきり会うこともないだろうが、「お住まいはどちらですか?」と訊ねてみると、「KB寺です」という。意外にもミロクが生まれ育ったKG町の隣駅だった。再会の確率が幾分か高まったような気がして、思わず爽やかな笑顔を浮かべてしまった。「お元気で。国枝さん」と会釈を返し、小児病棟に戻ろうとすると、「あの」と呼び止められ、「最後の一人になっても、頑張ってくださいね」と予想外の励ましのコトバをかけられた。「ありがとうございます」とスマイルを返したものの、サバイバルゲームじゃあるまいし、「最後の一人になっても」というコトバは微妙にズレていると思った。彼女はミロクが「カタストロフ・マニア」のゲーマーであることを知っていたのだろうか?

 軽い運動の後のランチは三割増のおいしさだった。いなり寿司と天ぷらうどんの組み合わせもミロク好みだった。食後、残った四人の治験者が応接室に集められ、今後の治験の進め方について、医師からブリーフィングを受けた。
――今まではもっぱら薬剤の経鼻投与と採血を行ってきましたが、今後は睡眠状態での薬効を調べるため、就寝後に検査を行います。日中は自由時間にしますので、思い思いにお過ごし下さい。門限を守り、暴飲暴食を慎んでいただければ、外出も認めます。二十二時になったら、個室のベッドに就いていただき、睡眠中に脳波や心電図を取らせてもらいます。
――眠れない時はどうするんですか?
――睡眠薬は試験中の薬と併用できませんので、みなさんに安眠いただくために睡眠導入マシーンを用意してあります。これはいつもみなさんにしてもらっているように、鼻にチューブを差し込み、冷気を送るというシンプルなものですが、深く眠ることができます。皆さんにぜひお試しいただきたいと思います。
 もう採血されずに済むことの安堵のせいか、四人とも疑問や好奇心を抱くこともなく、医師の説明を聞き流していた。実際、そのマシーンを見せてもらったが、アタッシュケース程度の大きさで、いくつかボタンとダイヤルが付いているだけ。見た目のチャチさに先ずは安心した。本体からは長いチューブが出ていて、二叉に別れた先端には小さな穴が四つずつ開いていて、そこから冷気が出るのだという。なぜ冷気を鼻に送ると、眠くなるのか、ミロクが質問すると、医師はこう説明した。
――人は体温が上がると、活動的になり、逆に下がると、眠くなります。冷たい空気を吸い込むと、脳が冷え、活動が低下し、冬眠状態になるわけです。しかし、心配はご無用。チューブを外し、マシーンのスイッチを切れば、自然に冷気が抜け、目覚めます。常時、係の者が皆さんの脳波や心電図をチェックしていますから、大丈夫ですよ。
――それは何のための実験でしょうか?
――皆さんにご協力いただいているのは免疫力を高める薬の治験ですが、新陳代謝が落ちている状態では作用に違いが出るか、そのデータを取らせていただきたいのです。
――なぜこの四人が選ばれたんですか?
――本当は八人にお願いしたかったんですが、今回は離脱が多くて。でも血液型の異なる四人が残ってくれたのは、よかったです。
――睡眠時間はどれくらいですか?
――いい質問です。普段より長く眠っていただきます。最初の睡眠治験では、十二時間眠っていただきます。二回目は中一日置いて、二十四時間、眠っていただきます。この二十四時間睡眠を三回行えば、三週間のプログラムは終了ですので、今日からの一週間はとても短く感じられるでしょう。
 十二時間眠ったことはあっても、二十四時間、眠り続けた経験は誰にもない。四人とも、その点にひるんだものの、退屈極まるこのボランティアを頭痛なしで早く切り上げ、娑婆に戻り、もらった現金で酒を飲んだり、女を抱いたりしたい。その思いを全員が共有していたため、医師の説明も好意的に受け止めていたのだが、最後の殺し文句に四人とも目を輝かせた。
――実はこの冬眠マシーン、NASAの火星有人飛行用に開発されたんですよ。代謝を落とせば、食料や水も大幅に節約できますからね。
 宇宙飛行士気分を味わえる……これはモルモットたちの自尊心を大いにくすぐった。
 ミロクはほかの三人ともまだ一言も交わしたことがなかった。同室の人が一人いて、会釈くらいは交わしたが、ほかの二人の印象はほとんどない。あまりにも他人に無関心な彼らを見かねてか、医師が「自己紹介でもしますか」と促すので、番号の若い順から、明かしてもいい個人情報を口にした。――11番、アカシタツヤです。大学三年生です。
――29番、スギモトシンイチです。居酒屋で働いてました。
――36番、シマダミロクです。ゲーマーです。
――44番、タカナシアユムです。大学院生です。
 自己紹介をすると、にわかにモルモットは人間らしくなったが、今夜から個室で冬眠を試みるので、これを機会に親しくなることもなかった。

 チューブを差し込まれること、冷たい鼻水をすすることには慣れていたが、鼻腔から送られた冷気が頭の芯を冷やしてゆく感じは心地いいとはいえなかった。のぼせた時に冷たいタオルで頭を冷やすのと違って、中から頭を冷やされると、頭痛が鋭角的になり、「ズキズキ」が「キーン」になる。かき氷を食べた後の感覚に近い。三年前、冬の旭川に行った時、気温がマイナス25度まで下がり、帽子なしで外を歩いていた時にも同じ痛みを感じた。しかし、冷たいのは頭だけで、体の方は寒いとは感じない。医師の説明によれば、四時間くらいかけて体温を34度から33度くらいまで下げるのだが、その間に夢見心地になるという。
――雪山で遭難した人が睡魔に襲われるのに似ていますが、ここは雪山ではないので、どうぞ安心して、睡魔と仲良くしてください。起床の二時間前には冷却剤の循環を止めるので、徐々に平熱に戻り、普段と同じように目覚めます。それではいい夢を。

 確かに普段と同じように目覚めた。壁の時計を見ると、正午を十分過ぎていた。鼻のチューブと頭の冷えに馴染めず、悶々としていた二時間を差し引いて、きっかり十二時間眠っていた計算になる。この間にほとんど寝返りを打たなかったせいか、背中全体が凝っていた。首や腕を回し、上体を反らすと、バキバキと音が鳴った。やや遅れて、隣の病室でも同じような音がした。
 ロビーに出ると、看護師が「気分はどうですか?」と声をかけてきたので、「雪山から生還した気分です」と答えた。
――食事ですが、四食分の食券を配りますので、メイン病棟の食堂で好きなものを召し上がってください。明日の夕食時まではオフですので、自由にお過ごし下さい。
 そうはいわれたものの、外出の気力も湧かず、ゲームをする気にもなれず、むろんベッドに横になるのもごめん被りたかった。国枝さんがいてくれたら、もっと話がしたかったし、あわよくば、散歩に誘い出すこともできたのに、と思ったが、仮に彼女がいたとしても、チラ見するだけに終わっていただろう。
 ミロクは食堂でカレーを食べると、一度も脚を運んでいなかったフィットネス・ジムを覗いてみた。四度目の冬眠から目覚めたら、過酷な現実に復帰しなければならない。ミロクが向かう先は何処でもアウェイである。すっかり鈍った体のリハビリが必要だと、今さらながら思い立ち、上腕二頭筋や胸筋、腹筋に活を入れようとマシンのグリップを握ったものの、首の筋を違えてしまい、十五分で退出した。新しい仕事を探すには歩き回らなければならない。そのために鍛えるべきは脚だ。ミロクは方針を変え、ここから徒歩二十分のショッピング・モールまで歩き出した。どんよりとした雨雲が垂れ下がる空を見上げると、不意に忘れていたはずの想念が脳裏をよぎった。
 自分は何をやっても人に遅れをとる。
 電車やバスに乗り遅れるのは毎度のこと、流行にうまく乗れた例しもない。持久走では周回遅れになり、スイミングスクールの進級もいつも最後だった。一度だけ、徒競走で一位になったことがあるが、トップランナーがこけ、続く三人が巻き込まれて転んだからだった。それ以来、誰かに先を譲られた経験はない。
 小学生の頃に取った遅れなど、簡単に挽回できる、と三月生まれの人はいうが、ミロクは七月生まれで、彼らに追い越されたのだった。地道に努力すれば、やがて自分も生存競争慣れして、資本主義の荒波を渡って行けたのかもしれないが、大学受験の失敗、単位の計算間違いによる留年、肺炎の長患いによる就職の断念が重なり、さらに三年の遅れを取ると、自分にできるのは「落ち穂拾い」だけだと思うようになった。
 大学三年の時、ミロクは生物学の授業で「適者生存」という概念を習ったが、自然界というのは全く情け容赦がないものだと思い知った。何しろ、地球上に出現した生物の九十九パーセントはすでに絶滅し、今日まで生き延びているのはわずか一パーセントに過ぎないのだから。まさに「生物は淘汰されんがために生まれけり」なのだ。どうやら自分は適者ではなさそうなので、淘汰されても文句はいえない、とにわかに悟ってしまい、それが怠惰を正当化する理由にもなった。どうせ、滅びるんだから、あくせくしてもしょうがない……この無力感は爽快でもあった。人類に平等なカタストロフなら大歓迎である。そんな思いを満たしてくれるゲーム「カタストロフ・マニア」との出会いはまさに僥倖だった。ミロクほどこのゲームのことを知り尽くしたプレイヤーはいない。このニッチにおいて、彼はネットで第一人者と認められるまでに至った。
 最後の一人になっても、頑張ってくださいね……
 ふと、昨日、国枝さんが呟いたコトバを思い出したが、一日経ってから、このコトバは生存競争から離脱しようとしているミロクへの皮肉と受け止めるべきだったと気づいた。
 そんなことを考えながら、ミロクは郊外の住民たちが集う午後のショッピング・モールの家電売り場を通りがかると、大画面のテレビでは深刻な表情のアナウンサーが「各地でテロ活動激化」のニュースを伝えていた。爆破されたスタジアム、脱線した電車、倒壊した高層ビル、負傷して路上に横たわる人々の映像が次々と映し出される。パリ、ロンドン、ニューヨークで連続テロが起き、いよいよ東京にもその波が押し寄せ、タクシーのトランクに積まれた爆弾が渋谷のスクランブル交差点で爆発し、死傷者が二十名に及んだらしい。
 ジリ貧に追い込まれた人々が捨て身の行動に打って出る。これも生存競争の一種なのか? 大抵のニュースは自分には無関係だし、関係がありそうなら、自分を不愉快にさせるだけなので、ミロクはいつものようにテレビの前を素通りし、コーヒーを飲みに行った。

 体温が下がり、深い眠りに落ちれば、代謝が落ち、カロリーの消費を抑えることができる。だから、冬眠中の熊は絶食をしていても、死なない。往復で半年以上かかる火星への有人飛行では、母船に積み込む水と食料が膨大な量になるが、冬眠すれば、その量は三分の一で済む。ヒトも熊に倣って、交代で冬眠すれば、かなりの食料とエネルギーを節約できる。そのうち、差別主義者がいい出すに違いない。今後は生活保護を受けている市民を優先的に冬眠させるサービスを行政は提供すべきだ、とか。
 今回に限り、ミロクは近未来を先取りしていることになるだろう。
 十四日目の昼から十五日目の夕食前までのオフを漫然と過ごし、多少の疲労とカロリーを蓄積させ、ミロクは小児病棟に戻ってきた。四人の中から離脱者は出なかった。ここまで我慢してきたのだから、最後まで付き合ってやろうじゃないかという意気だけは共通していたのだろう。
 鼻に長いノズルを差し込まれる時の異物感が不快だが、胃カメラを呑み込むよりはずっと楽だ。夕食時にビールを一本飲んだせいもあり、最初の時よりはリラックスできた。国枝さんの眼鏡付きの笑顔を思い浮かべたら、こめかみにくすぐったさがこみ上げてきた。

 ミロクは冷たい沼の底で泥に埋もれていた。胴体も手脚も固められ、全く身動きが取れなかったが、目と鼻先、左手の人差し指と中指だけが泥の表面に出ていて、淀んだ水に幾筋かの光が差し込んでいるのが見えた。何かヌルっとした生き物がミロクの鼻の穴に潜り込んでくるので、鼻を鳴らして追い出そうとするが、なかなか出て行かない。鼻から出た気泡が膨張しながら、水面に上ってゆく。ミロクはこのままあと一万年ほど眠り、化石になるつもりだったが、泥鰌に眠りを妨げられ、目覚めてしまった。なおも眠りに押しとどめようとする泥に逆らって、左腕を上げることに成功すると、泥鰌を追い払い、顔や胴体の回りの泥を払い落とそうとした。
 今はエチオピアと呼ばれる高原地帯で、身長一一〇センチ、体重二九キロの少女が沼に落ち、泥に埋もれて死んだのは、確か三二〇万年ほど前のことだった。直立歩行を始め、長い距離を移動できるようになったアウストラロピテクス・アファレンシスの少女は何か食べるものを探して、沼地周辺を歩き回っている時、うっかり足を滑らせたのだろう。彼女の遺体は泥の中で永久保存され、化石になり、二〇世紀の半ば過ぎになって発掘されると、ルーシーという名前で呼ばれるようになり、一躍人類のアイドルになった。ところで、ミロクは自分がなぜ沼の底にいるのかは思い出せなかったが、この眠りから覚めたら、自分も彼女と同じように未来の世界に凱旋できるに違いない、と思った。
 ミロクが重い瞼をこじ開けると、いつの間にか沼の底から引き揚げられ、病院のベッドに仰向けに横たえられていた。まだ、体が泥に埋まっているみたいで、起き上がることも、寝返りを打つこともできなかった。ただ、手足の指先は動いたので、キーボードを叩くように、自分の太腿の上で踊らせてみた。息を深く吸い込むと、背中と尻に通電されたような痛みが走った。
 金縛り状態がその後、二十分くらい続いたが、血流が戻ってくると、肉の強ばりが徐々に解けてきて、何とか体を横向きにすることができた。その直後、猛烈なくすぐったさが襲ってきた。それに五分ほど耐えると、静かに上体を起こし、立ち上がろうと試みたが、立ちくらみがし、床にへたり込んでしまった。「すいません」と人を呼ぼうとするが、口腔が乾き切っていて、声にならない。
 生まれたての子馬のように重力と格闘し、もう一度、立ち上がると、ウォーターサーバーに歩み寄り、喉を鳴らし、水をがぶ飲みした。干物のように乾いていた体が潤ってゆくのがわかった。ただ眠っていただけなのに、なぜこんなに疲れるのか? しかも、背中と尻がヒリつく。
 廊下に出たが、明かりが消えていて、人の気配もない。すでに消灯になっているということか? だが、窓からは外の光が差し込んでいる。ロビーの時計を見ると、二時半を差していた。二十四時間の予定で、擬似的な冬眠に就いたはずだが、その前に目覚めてしまったようだった。
 ナースセンターにも、オフィスにも誰もおらず、電気は全て消えていて、非常灯の緑色の光が寒々と灯っているだけだ。「誰かいませんか?」と叫んでみるが、自分の声が廊下に響くだけ。ミロクは渡り廊下を通り、メインの病棟に行ってみたが、自動ドアが作動しない。わずかな隙間に指を差し込み、手動でこじ開け、中に踏み込んで、愕然とした。電気が完全に落ち、あらゆるものが停止している。動いているものを探そうと視線を蠅のように飛ばしても、患者や看護師の影すらなく、文字通りの抜け殻になっている。唯一、動いているのは時計だけだった。病院が不意に廃墟に変わるなんてことがあり得るのか? きっとまだ夢の続きを見ているのだ。さもなければ、ミロクは巧妙な詐欺の被害者になったということなのか? それにしては、仕掛けが大掛かりすぎやしないか?
 ミロクはにわかに尿意を催し、薄暗いトイレに駆け込む。小窓から差し込んでくる明かりを頼りに用を足す。老廃物がたっぷり溶け込んだ濃い煎茶色の小便が出た。まぶたに残る眠気を完全に振り払うために顔を洗った。鏡にはやけにやつれた自分の顔が映っていた。ミロクは背中の痛みが気になって、Tシャツの裾をまくり上げ、鏡に映る背中を見てみたが、床擦れと思しき赤い斑点が出ていた。
 受付横の大きな振り子時計の文字盤に日付表示があるのに気づいた。十月二十七日と出ているので、時計まで自分を欺こうとしていると思った。ミロクが眠りについたのは十月十二日の夜である。
 再び、小児病棟に戻ったミロクはほか三人の治験者の病室を覗いてみたが、全員消えていた。誰かに連絡しようと電話を手に取ったが、バッテリーが切れていた。充電のためにコンセントを差し込んだが、反応がなかった。病院には非常用電源が備えられているから、停電しても電気の供給は途絶えないはずだ。あるいは非常用電源はすでに作動していて、ミロクが目覚める二時間前まで鼻から冷気を送る機械を動かしていたのかもしれない。いずれにせよ、病院が抜け殻になるような危急の事態が生じたことは確かだが、なぜミロクだけが置き去りにされなければならなかったのか? 遺体だってもっと手厚く扱われるはずだ。怒りが沸々とこみ上げてきたが、それをぶつける相手はおらず、かすれ声で「バカヤロー」と呟くしかなかった。
 ミロクはもう一度、病棟内をくまなく見て回ったが、この理不尽な事態を説明してくれる手掛かりは得られなかった。せめて、食べ物くらいは残してくれたのではないかと期待し、厨房の冷蔵庫を覗いてみたが、略奪後のようにからっぽだった。食堂のテーブルにへたり込み、放心していると、壁掛け時計の秒針が進む音が聞こえた。唯一、親愛の情を示してくれる時計にすがるように歩み寄ると、その日付表示を確かめた。やはり二十七日を示していた。天地創造が二回もできてしまうほど、ミロクは長く眠らされていたという事実を受け容れざるを得なくなった。
 自分の部屋に戻り、物入れの中を調べてみると、私物の着替えに紛れて、分厚い封筒が出てきた。中にはミロクがもらえることになっていた謝礼の五十万円と、ヴォイスレコーダーが入っていた。声の主はミロクにブリーフィングを行った医師だった。この理不尽な放置プレイに対して、どんないいわけを繰り出してくるか?

 災厄は冬眠でやり過ごすのが一番です。どうするのが、あなたの生存に最も有利かを考えた結果です。どうかあなただけでも生き延びてください。以上。

 ほかにいうことはないのか? この素っ気ない説明で全てを察しろというのか? どんな災厄が起きたのか、ちゃんと説明しろ。
 ミロクは舌打ちをし、地団駄を踏み、仕上げにため息をつく。この先、どんな逆境が自分を待ち構えているのか、いかなる想像も働かなかったが、ミロクは謝礼の金一封を胸ポケットにしまうと、身支度を整え、誰もいなくなった病院を完全に空っぽにした。

 空っぽなのは病院だけではなかった。
 とりあえず、散歩で立ち寄ったショッピング・モールを目指して、歩き始めたのだが、誰一人すれ違う人はおらず、走る車も見なかった。道も空っぽ、町も空っぽ、ミロクの胃袋も空っぽだった。信号機も自動販売機も死んでいた。途中、「そば、うどん」ののぼり旗を見つけ、店を覗き込んだが、もぬけの殻、コンビニもショッピング・モールも冬眠中のように、明かりが落ち、自分とその影以外に人のかたちをしたものはいなかった。実はミロク一人を鬼にして、住民全員参加のかくれんぼでもしているのではないか? 住民たちは息を潜めて、家に籠り、双眼鏡でミロクの行動を監視しているのだと考えてもみた。だとしたら、一体、何のために? 明け方や昼下がりの郊外では、車や人通りが完全に途絶え、時間が停止してしまったかに見える瞬間がある。ミロクが見ているのもそんな偶然の光景だと思いたかったが、いっこうに時間が流れる気配がない。
 ミロクは最寄りの駅の様子も確かめたが、自動改札は閉じられ、券売機の電源も落ち、プラットホームに通じる階段は暗かった。むろん、線路を走る電車もなければ、駅員も不在。本来、動いているべきもの全てが麻痺していた。だが、風は町を吹き抜け、雲は形を変え、川は流れていた。
 この住み心地がよさそうな町を捨てて、人々が逃げ出すには相応の理由がなければならないが、表面上は破滅的な出来事が起きた痕跡が見当たらなかった。洪水や火災が起きたのなら、その爪痕が残っているはずだし、虐殺やテロが起きたのなら、血まみれの死体が転がっていてもよさそうなものだが、町は何事もなかったかのように平静を装っている。それとも、無色透明な惨劇はすでに起きていて、ミロクが見ているのは全てが終わった後の光景なのか? ミロクも呑気にこのゴーストタウンを散歩している場合ではなく、一刻も早くここを立ち去るべきなのかもしれない。移動の手段は今のところ、この二本の脚しかないが、冬眠で鈍った脚はこれ以上、歩くことを拒否していた。
 何か食べれば、歩く気力も湧いてくるだろうと、いつもの癖でコンビニに立ち寄ろうと考えた。駅のそばに店はあったが、入口も従業員出入口にも鍵がかかっていた。こちらは購買意欲満々なのだが、コンビニの方は冷淡にミロクを拒んでいた。入口のガラスに顔を寄せ、手で囲いを作り、中を覗いてみると、品薄にはなっているものの、棚にはまだ商品が残っていた。即座に三つの選択肢が頭に浮かんだ。このまま黙って通り過ぎるか、入口のガラスを割って、侵入し、略奪するか、ここを無人販売店と見做し、持ち出した分の代金を置いてくるか?
 逡巡しながら、駐車場をうろうろしていると、モップが壁に立てかけてあるのが目についた。ミロクはモップをバットのように握りしめ、三回ほど素振りをしてみる。これから人生初のコンビニ強盗を実行する気分はどんなものか、自分に問いかけてみた。もちろん、気は進まないが、どうせ誰もいないし、監視カメラも動いていない。ガラスを割ったとたん、誰かが咎めにやってくるかもしれないが、それはむしろ歓迎だ。モップの一振りがこの逆境からの突破口になるに違いない。
 そんな正当化をしたうえで、ミロクは金属部分をハンマーの打面になるようにモップを構え、ガラスに渾身の一撃を加えた。だが、ガラスは割れなかった。もっと重くて、固いものを探したが、手頃な石は見つからず、代わりにワインの空き瓶の首を手に取り、五メートルほど離れたところから投げつけた。乾いた破裂音が無人の町の静寂に亀裂を走らせた。その瞬間、ミロクの神経の糸はキュンと張りつめ、こめかみあたりにまとわりついていた冬眠の名残は完全に消え去った。
 雹のように粉々に砕けたガラスを踏み越えると、店の中はすえたニオイのする生温い空気に満たされていた。ミロクは買い物かごを手に取ると、棚の商品の物色を始めた。ペットボトルの水、お茶、チョコレート、どん兵衛きつねうどん、豚骨煮干しラーメン、レトルトカレー、切り餅、白桃の缶詰、ウエットティッシュ、携帯の充電器など、目についた物を次々とかごに入れたが、ふと思い直し、ひとまずここに腰を据えて、この先どうするか考えることにした。携帯に充電器をセットし、蘇生を図るかたわら、胃に優しくて、すぐに食べられるものを口にしておこうと、かっぱえびせんと魚肉ソーセージに手を伸ばした。おにぎりやサンドイッチ、パン、クリーム系のデザートも並んでいたが、冷蔵庫が停止し、二週間以上放置されていても、食品サンプルのように往年の姿をとどめているのが不気味だった。カップ麺に入れる湯が欲しかったが、電気の供給がないここでは諦めざるをえず、メインにビーフジャーキー、デザートに桃缶を胃袋に収めた。
 いつも店員がいるカウンターの中に入り、折り畳み椅子に腰かけると、何となく、このコンビニを買収したような気になれた。端末が再び起動し始めると、ここ二週間に何が起きたのか知るためにニュース・サイトに接続を試みたが、電波状態が悪いのか、通信会社の問題なのか、画面には「接続できません」の文字しか現れない。何処にアクセスしても、何度繰り返しても結果は同じだ。ミロクは先ずは両親の家、次いで数少ない友人たちに片っ端から電話をかけてみる。金を借りている二階堂、大学時代の同級生新町、三ヶ月間だけ恋人だった都、そして、小中学校が一緒だった幼馴染みの栗原……どの番号にかけてみても、呼び出し音すら鳴らない。たぶん、電話そのものが不通になっているのだ。これで何が起きたのか、誰かに聞く道も閉ざされた。
 ミロクは雑誌売り場に置いてある週刊誌を片っ端からめくってみる。住民が一斉避難する事態に至るまでに、何かしらの予兆が現れていたはずで、そのヒントの一つくらいは見つかると期待した。だが、「阪神地区でヤクザの抗争が激化」とか、「老人ホームで集団自殺」とか、「総理の誇大妄想と虚言癖はさらに進化している」とか、「全米各地の大都市で中国化が加速」とか、「ヨーロッパの各国のイスラム勢力が集結して、ムスリム・ヨーロッパ共同体を作ろうとしている」といった記事から何を読み取れば、ミロクが直面しているこの状況の説明になるだろうか? 唯一、「東京郊外のスラム化が進行している」という記事は、町から人が消えたことの伏線なのかと思って、精読してみたが、人口減と税法の改定によって、所有権を放棄される家が増えているという話で、直接は関係がなさそうだった。
 西日が差し込むコンビニで、ミロクは途方に暮れていた。その後も電話をかけ続け、またインターネットへのアクセスを試みたが、孤立感は深まるばかりだった。自分を励ますつもりで、携帯にダウンロードしてある音楽を再生し、生温いビールをあおりながら、エロ本からスカウトした裸の女たちを一人ずつカウンターに並べてみた。コンビニを占有し、したい放題をすることへの憧れは確かにあった。だが、いざ実現してみると、さほど楽しくもなかった。
 地球の人口はこのあいだ、九十億人を突破したはずだった。ミロクが生まれた頃は七十億くらいだったから、わずか二十五年で二十億も増えた計算になる。自分の周囲にはもっとたくさん人がいてしかるべきなのだが、この人口密度の低さは何だ。いつの間にか大淘汰は始まっていた、とか? しかし、ヒトは蒸気ではないのだから、蒸発するなんてことはありえない。大量死が生じたのなら、あちこちに死体の山が築かれ、町には腐臭が漂っているはずなのだが、鼻を利かせてみても、洗いざらしのシーツのニオイくらいしかしない。別の場所へ行けば、人々が楊枝みたいにぎっしり詰め込まれているのだろうか?
 日が暮れると、町は真っ暗になった。地球が太陽に背を向けると、これほど暗くなるものなのか、と改めて認識すると同時に、月の眩しさを知った。ミロクは懐中電灯を携え、夜の町の探索に出かけた。人がいる家からは蝋燭の明かりが漏れてくるだろう。一人か二人くらいは避難を拒んだ臍曲がりがいるはずだ。ミロクはマンションや一戸建ての窓を注視しながら、駅周辺、ショッピング・モール界隈を探索し、川沿いの道を辿り、病院に戻る坂道を上った。人工的な明かりがちらつく家を何軒か発見するたびに、「こんばんは」、「ごめんください」と声をかけたが、返答は一切なかった。それらの明かりは日中、日差しを浴びた分だけ夜の庭先を照らすソーラー電池内蔵のガーデンライトだった。防犯のためなのか、家主が派手好きなのか、庭木をクリスマスツリーのようにライトアップしている家もあった。中で仮装パーティでも行われていそうな雰囲気に誘われ、ミロクは玄関ドアをノックしてみる。返答はないので、ノブを回してみると、ドアが開いた。室内にもほんのりと明かりがついていて、奥の部屋で誰かが待ち構えている気配すら漂っていた。
 念のため「こんばんは」と挨拶をし、玄関で待っていたが、家主の出迎えはないようなので、靴を脱ぎ、礼儀正しく不法侵入を試みる。この家は屋根にソーラーパネルを設置しているらしく、夜になると、自動的に常夜灯が灯る仕組みになっているようだ。床のカーペットに加齢臭が染み付き、部屋はほのかにカビ臭かったが、部屋は片付いており、生活の痕跡が残されていた。ここには老夫婦と猫二匹が暮らしていたのだろう。餌用のトレイと猫用のトイレが二つずつ残されていた。作り付けの書架には哲学や科学技術関係の本がぎっしり収められ、至るところに度の強い老眼鏡が置いてあった。壁には誰の作品か知らないが、油彩の抽象画が懸かっていた。泥棒が放ってはおかない金目の物、高級腕時計や宝石、古伊万里焼の器、掛け軸などもそのまま残されていた。必要最小限の物を抱えて、逃げたものの、近いうちにまた戻ってくるつもりでもあったのだろう。本棚の前面にいくつかの写真立てがあり、そこには幼い子どもの写真が飾られていた。この家で育った娘に違いないが、ミロクよりはずっと年上であることは、写真の色褪せ具合でわかる。
 誰もいなくなったこの町で、ミロクはどの家で食事しようが、休息しようが、勝手気ままであるが、その役得もさしてありがたいとは思えなかった。なまじ、他人の家に上がり込んだりすると、薄い義理みたいなものが生じ、この家の人たちは今何処で何をしているのかの方が気になってしまう。無事に逃げられたとして、ほかに行くところはあったのか? それはミロクの今後の身の振り方にも関わる。自分は何処を目指すべきなのか? 自分のアパートは入院前に引き払ってしまったので、帰る場所は両親が暮らす家しかない。二人の安否を確かめにひとまず目黒の実家を目指そうと思うが、郊外の町がこのありさまなのだから、都心が平穏無事である保証はない。
 ミロクは丘陵を散歩した際、都心を一望できる場所があったことを思い出し、懐中電灯の明かりを頼りにそこに向かった。縦横に走る木の根に躓きながら、息を弾ませ、高台までやってくると、ミロクは頭を抱え、その場にうずくまった。真夜中も煌めいているはずの都心は闇に抱かれ、深い眠りの中にあった。

 それでも夜は明けた。ミロクは老夫婦の家に戻ると、ずっとラジオのチューニングダイヤルを回し続けていた。完全な停電状態で、ネットも電話も断絶している中、頼みの綱は電池で動くラジオだけだった。危急時にはラジオを通じた呼びかけがあるはずだ。首都が空襲によって壊滅状態の時だって、天皇陛下御自ら国民に向けて、終戦を告げたではないか。どんな声で、何を告げられてもいい、ともかく、誰かに語りかけてもらいたかった。だが、どの周波数に合わせても、ラジオは怠惰に鼾をかくばかりだった。
 もしかして、自分はすでに死んでいて、あの世に来ているのではないか?
 ミロクが知っているこの世はもっと騒々しく、面倒くさく、生々しい。だが、ミロクが今いるところは表面的にはこの世そっくりだが、いかなる活動も通信も停止している。かつて、本で読んだり、人から聞いたりした臨死体験とは様相がだいぶ違うようだが、この世だって人によって見え方は異なる。未だ夢を見ているという仮説はもう成り立たない。コンビニで物を食べたし、そのケミカルな後味もしっかり舌に残っている。だが、あの世にいるのなら、空腹も疲労も感じないし、重力からも解放されていてしかるべきなのだが、腹は鳴るし、自分の体の重さを持て余してもいる。むろん、ミロクは死んだ経験がないので、死者の気分など理解できるはずもなく、体が軽くなり、痛みからも解放され、腹も減らなくなると勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。そういえば、脚を切断した人は、ないはずの脚に痛みや痒みを感じるというが、ミロクの空腹感や疲労感もまたファントム・ペインと同じ類だとしたら、この体はまだ死んだことを認識していないだけということになる。
 このやけにリアルな肉の感触を信ずるなら、ミロクはまだこの世にいる。そして、この世はあの世も同然となり果てた。さもなければ、ミロクはすでにあの世に渡ってしまったのだが、まだ死んだわけではない!? アンケートの「どちらともいえない」みたいな状況にあっても、確かなことが一つある。自分が生きているのか、死んでいるのか、一人ぼっちでいる限り、確かめようがないということだ。「ここはあの世だよね」と語りかけ、「その通り」とか、「まさか」とか、「もう一回死ねば、戻れるぜ」などと返してくれる相手がいなければ、自分の主張は単なる思い込みに留まる。
 もう一度、冬眠をして、目覚めれば、全て元通りになっているのではないか、とあえて楽観してみるが、それも望み薄だ。ともあれ、首都がどうなっているのか、この目で確かめに行くために、ミロクはまた駅に向かうことにした。
 駐輪場で、状態のいい自転車を物色し、次々と解錠を試みる。番号ダイヤルを少しずらしただけで鍵が外れたものがあり、ミロクはそれにまたがり、無人の道路を試走してみた。タイヤの空気も充分、ブレーキの効きも問題なし。一度「襲撃」したコンビニに戻り、当座の食料や飲料、ライター、蝋燭、ラジオ、懐中電灯、予備の電池、替えの下着、靴下、ウエットティッシュなどをリュックに詰め込むと、何一つ進路を妨害するもののない道を都心目指して、走り出した。
(つづく)




島田雅彦 シマダ・マサヒコ

1961年3月13日東京都生まれ。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。小説家。法政大学国際文化学部教授。1983年、大学在学中に「優しいサヨクのための嬉遊曲」を発表し注目される。主な著書に『夢遊王国のための音楽』(野間文芸新人賞)、『彼岸先生』(泉鏡花文学賞)、『退廃姉妹』(伊藤整文学賞)、『カオスの娘 シャーマン探偵ナルコ』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『虚人の星』(毎日出版文化賞)、『君が異端だった頃』(読売文学賞)、『小説作法ABC』、近刊に『スノードロップ』『パンとサーカス』等。戯曲、オペラ台本、詩集、随筆、対談集など著書多数。

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