立ち読み

2016年5月号

「キース・リチャーズはすごい」保坂和志

 キースのことを書きたい、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズだ、人生にはしかるべきタイミングでしかるべきものと出会うということが本当にあるものでそれがキースだった。十月に文藝賞の授賞式のパーティーの会場の隅で、これは言葉の綾でなく本当に隅で私は一緒に『音楽談義』をその一年前に出した湯浅学がいた、湯浅学はさかんに、
「キース、いいよ。」という言葉を私に言った、私はその前にも湯浅さん本人からだったかその本を編集した松村が湯浅さんがキースのソロがいいって言ってましたと言ったかそれは聞いていたがまだ気乗りしなかった、ロックというのは私には、そこはそうは言ってもここのところもう四年も五年もボブ・ディランをずうっと聴く、ルー・リードも私は二〇〇〇年代になってから聴くようになった、あの頃私は高校の頃はレコードを買う金に限りは当然あった、とくに早熟でもなかった高校生だった私はラジオでひんぱんにかかるような有名なところしか聴かなかった、金の問題よりこの情報源がかぎられていたことの方が大きい、だから私はヴェルヴェット・アンダーグラウンドもルー・リードもロキシー・ミュージックも私はと言っていいほど知らなかった、いまさらながら知るのだがロックはロックでジャズやクラシックやワールドミュージックのような広大な広がりがあった、その広がりに目を向けずにこれでじゅうぶん、自分はよく知っていると思うことが知らないということだ、しかしローリング・ストーンズのことはよく知っている、いやそういう話をしたいのではない。
 湯浅学があそこでさかんに言うから、
「ホントにいいから、聴いてみてよ。」と言う言い方が本当にそうだったから私はキースがソロで出したアルバムを買った、これが本当にいい。買ってからもう三ヵ月になるところだが私は毎日Crosseyed Heartというキース・リチャーズのこのソロ・アルバムばかりかけている、私は話はこれからそこにさかのぼるはずだが朝聞いた曲のメロディが一日アタマの片隅に残ってそのメロディが鳴るのが不快に感じるようにいつからかなった、たぶん二〇〇〇年にはそうなっていた、ルー・リードをよく聴くようになったのはその頃だった、ルー・リードは私はメロディを憶えない、朝聴いたルー・リードが一日アタマの片隅で鳴るということはない、ボブ・ディランも私はそれにちかい、私の聴くのは九〇年代半ば以降のボブ・ディランだ、最初はしばらくTime Out Of Mindにのめり込んでそれからそのあとのアルバムばかりを聴くようになってからもう三年か四年になる、Time Out Of Mindはその前三、四年のめり込んだ。ところがキースだと一日アタマの片隅にメロディが鳴る、それが不快じゃない、鳴ると私はキースの顔を思い浮かぶ、そしてキースのことを考える。
 キースは誰が見ても格好いい、最初の東京公演のときステージの上の大きなスクリーンにキースの顔がアップで映ったとき私はキースと同じ空間に自分が本当にいることが奇跡のようだった、ミック・ジャガーが大きく映ったときには思わず手を合わせて拝みそうになった、大写しになったミック・ジャガーの顔は人間離れしていた。それはそうなのだが私の中でキースはどんどん存在感が薄れていった、頭にいつも変なハチマキを巻いて酔っ払いの爺さんがおどけて見せてるようなギターの弾き方しかしない、ステージでもストーンズのアルバムでもアルバムでは一曲、ステージでは三曲ぐらいさえないテンションが低い歌を歌いたがる、ステージではキースが歌い出すと私はドッとしらけた、なんかキースはそういう、ヒップホップのバンドにはよくいるろくに歌いもしないがイコンのようにステージの目立つところに立ってたり椅子にすわってたりするアレステッド・ディベロップメントというグループの爺さんのようなものになっていた。
 それにだいいち二度目の来日のとき私はなんだか全体にノレなかった、ずっと立ってた翌日の腰の痛みばかり憶えている、一度目が一九九〇年で二度目が九三年、いや九五年? もう一回来たか? 私がノレなかったのは三度目があったとしたらその三度目だった、やっぱり七〇年代とは言わないが八〇年頃に行きたかった、
「ミック・ジャガーがもう三十だってよ。」
「ステージの袖に酸素ボンベがあって、一曲終わるとそれ吸ってんだってよ。」
 なんて、ロックが四十になっても五十になってもやれるものだなんて考えもしなかった頃に行きたかった、それでというと話が省略されすぎるが私はフリージャズからもっと音楽に聞こえないデレク・ベイリーのインプロヴィゼーションの方に傾いていった、湯浅学との『音楽談義』は直接にはデレク・ベイリーの話はあまり出ないが私も湯浅学もどんどんデレク・ベイリーに傾いた、デレク・ベイリーはもうとっくに死んでいる、二〇〇〇年頃に死んだ、私は九〇年代のベイリーも聴くし七〇年頃のベイリーも聴く、ベイリーはメロディとほど遠い即興で、即興という言葉からベイリーを聴いたことがない人がベイリーの音をその人なりに想像したとしてもそれはまったく想像できてない、はじめて聴く人はみんな「これ?………」と、言葉が見つからない、なんでこんなものがいいのか、こんなもののどこがいいのかみんなわからない、だいたいこの人ギター弾けるの? これ、弾けてるって言うの? と思っても不思議ではない。
 小説なんだからその音を描写しろと人は思うだろうか、しかし実際に音楽そのものを描写した小説があっただろうか、奏でられる音を鳥の鳴く声に喩えたり夜の月明かりの風景や遠い山に沈む夕陽に喩えたりしてきただけだろう、ベイリーの音はそういうイメージを喚び起こさない、せめて言うなら彼の左の五本の指が蜘蛛の脚のようにバラバラに弦を動き回る、しかしそれもYOU TUBEの動画を見た印象だ、デレク・ベイリーはそういう即興を三十年以上やりつづけて老人になって死んだ、
「ギターケースの中にベケットの本を入れてるくらいデレクは変わり者だった。」というような知り合いの証言を読んだとき私はイギリスでもベケットを読む人は変わり者と言われるのかと思った、ベケットもデレク・ベイリーもそれを読む(聴く)ことよりそれについて思いを馳せることの方が多い。
 デレク・ベイリーのことを私は「みすず」に書いたら、〈デレク・ベイリーを聴く会〉という二十人も集まるといっぱいになるカフェで月に一回やってる集まりがあり私はそのゲストに五月末の土曜日に呼ばれた、吉祥寺にあるSound Cafe dzumiという泉さんという人の店だ、器材とレコードがすごい! その人はかつてセゾンにいた、その前には草月ホールにいたそうだ、私は一月頃声がかかり、三月でも四月でもと言われたがうちの猫の体調は暖かい方が安定しているので五月にしてほしいと言った、私はその一年以上前から聴くのはボブ・ディランかデレク・ベイリー周辺の音楽だった、ゲストに呼ばれたこともありなおさら熱心に聴いた。
 私は最近トークが多いがデレク・ベイリーは特別なのである程度ちゃんと準備しなければと思ったのだ、熱心といっても私は一日せいぜい二時間しか聴かない、ベイリーのギターは高い弦を引っ掻くような音が多い、そうでなければピンッ、ピンッと強く弾く、それがかかると猫が嫌な顔をする、私もそれはあまり好きじゃない、私はベイリーはピアノとだったりドラムスとだったりサックスとだったり、二人でやるのがいい、それらは私はかなり気に入っている、猫がいなければ大きい音で何時間も聴きつづけるだろう、ピアノはセシル・テイラーとのデュオ、ドラムスはハン・ベニンクとのデュオ、サックスは今名前は出てこないが牛の絵がジャケットに描いてあるCDだ(これはベイリーのCDではなかったとあとで思い出した)。






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