立ち読み:新潮 2016年8月号

「野良ビトたちの燃え上がる肖像」木村友祐

 柳さんが暮らすその家は、東京都と神奈川県の都県境を流れる弧間(こま)川の河川敷にあった。「河川敷」だから、つまり、川が増水すると川底になる場所である。もしも不動産会社がその物件を宣伝するなら、「自然満喫のちょっぴりワイルドなウォーターフロント、家賃タダ」という感じになるかもしれない。
 弧間川の河川敷といっても、源流となる山梨県から発して東京湾に注ぐまでの流路は約百四十キロもあるのだから、その範囲も広い。柳さんのいる河川敷は川の下流域のはじまり付近で、そこは東南方向にまっすぐ流れてきた川が、急にグイと北東方向につまんで引っ張られたように弧を描いた場所に位置していた。東京側に食い込んだぶんだけ、河川敷のエリアも広がる。河川敷も場所によっては手つかず状態で草木が生い繁るところもあるが、そこは川べりをのぞくほとんどが、近隣住民がくつろいだり運動を楽しむための手入れされたグラウンドになっていた。柳さんが住んでいるのは、当然そのグラウンドのいちばん端、川べりに繁茂した草むらの一画である。
 最寄り駅は、東京側からの私鉄の電車が神奈川県に入って最初に停まる新鳴子(しんなるこ)駅。そこから柳さんの家までは、徒歩で行くなら約二十五分ほどかかった。河川敷の土手まで約十分、土手の階段を下りて芝生の生えた河川敷を川のほうに向かって横断し、川べりの草むらに沿ってつづく未舗装の小道を上流側に歩いて約十五分。「家賃タダ」であることを考えて許容範囲とするかどうかは意見が分かれるところだが、ともかくそんなわけだから(川底になる場所だから)、柳さんの家は番外地である。郵便物は届かず、各種届け出に必要な「住所」として提示することもできない。
 家は、拾ったベニヤ板や波トタンなどの廃材を使って自作したものだった。小道に面したちいさな庭もついている。小道を越えたところは左右を草の繁みに挟まれた空き地になっていて、柳さんはそのスペースを庭の延長のように使っていた。晴れた日には大抵そこに、拾ってきたベビーカーが出される。赤ん坊に日向ぼっこさせるわけではない。ベビーカーに載せたソーラーパネルで、地面に置いたカーバッテリーに蓄電するためだった。
 その空き地から先は、直線距離で約二百五十メートルほど離れた土手のほうまで渡るのに二つの野球場を越えなければならないほどの、だだっ広い芝生のグラウンドである。柳さんとしては、小道をふくめた陸側(グラウンド側)が鴨崎市の管轄、小道よりもこちらの川側に入ったほうが国交省の管轄だと理解していた。鴨崎市側にはみでると見回りに来る市の職員に注意されたという経験から、境界は越えないようにしている。そうしているのは柳さんだけではなかった。彼と同じように川のそばで暮らす者たちの家は、みな鴨崎市側にはみでないように建てられていた。
 河川敷に面した家の左には大きな胡桃の木が生え、家を守る天然の屋根のように枝葉を広げている。家の出入り口のある右脇から裏手の川へ下りていけるようになっており、丈高く繁った草むらの間の細道を下っていくと、ほどなく川岸にでた。家から川までは十五メートルも離れていないかもしれない。
 ふだんは流れというものをほとんど感じさせないのどかな川の対岸はいきなりコンクリートの堤防になっていて、そこから先は東京都恩田区の高級住宅地となっていた。大正時代に「庭園都市」をコンセプトに開発された町らしいが、はずれのほうだからか、案外「高級」という感じのしない古ぼけた家も多い。堤防沿いに走る道路の向こうには古墳群が眠るという木々に覆われた丘が横たわっていて、その背後にある閑静な住宅地はここからは見えなかった。いわば柳さんは、前面を鴨崎市と国交省の境界、背面を東京都と神奈川県の都県境という、ふたつの境界に挟まれた場所で暮らしていた。
 住所としては存在しないその家から、起きだした柳さんが煙草に火をつけながらでてきた。少しばかり右脚を引きずっている。六十三歳となる彼のホームレス歴は、すでに二十年を越えていた。
 七月下旬の午前一時半。そんな夜更けの、夜には黒々とした影になる草木に覆われた川べりでも、空に雲があるため暗闇の濃度はだいぶ薄まっていた。ふたつの都市が夜通し発する光を雲がスクリーンのように反射するためで、家の周囲のモノや小道の輪郭を把握できるほどには明るかった。これが、夜空に雲がなく月もでていない場合には、足元がおぼつかないほど暗くなる。
 柳さんは、庭にとめていた自転車をいったんバックで道まで出し、向きを変えて乗り込もうとした。すると、家のほうから音もなく現れて近づいてくる白いものがあった。それは足元まで近寄ってから、前足を投げだしてぐうっと伸びをする。ふだんの三倍もあるような長さになる。十歳になるオス猫のムスビだった。ほぼ白地だが、耳と額にかけて生えた黒い毛が、おにぎりの海苔のように見える。しかし「おにぎり」とか「にぎり」だと呼びづらいしカッコ悪いから、「おむすび」の「お」を省いて「ムスビ」と呼ぶことにした。元の飼い主だった柄本さんは、まだ子猫だったムスビのことを「ネコ」としか呼ばなかったから、柳さんが名づけ直したのである。
 柄本さんがムスビを預けていったのは、足のむくみがひどいからと野宿者支援団体の者に入院を勧められたからだった。しかし、入院して一週間もしないうちに、柄本さんは他界してしまった。
 体が元の長さにもどり、見上げるムスビの額を、柳さんは肉厚のふしくれだった手でなでた。手のひらにちょうどよくおさまる頭の大きさ。毛皮の下の頭骨の感触もよくわかる。首もとは頼もしいくらいに太くて、もっと若いときには犬とだって喧嘩した。歳のせいか、近頃はだいぶ気性が丸くなったように思う。
「じゃあ、行ってくっぞ。留守してろ」
 そう声をかけて自転車にまたがり、ゆっくり漕ぎだした。拾った焦茶色の帽子に袖まくりした白いシャツ、サイズが二回りも大きいぶかぶかの茶色のズボンに、黒い革靴といういでたち。どれもだいぶ汚れて擦りきれてはいるが、柳さんとしてはそれが正装のつもりだった。ネクタイまではしないが、冬にはセーターの上にジャケットも着る。空き缶拾いだからこそ、わざわざそうするのである。
 ひと月ほど前に雑誌記事の取材だといっていきなりやって来た、まだ二十代後半に見える木下という男は、柳さんを「ロマの男みたいですね」と言った。「ロマ」とは「ジプシー」のことらしいが、木下が昔観たジプシー映画のなかに、同じような格好をした楽器を弾くおじいさんがでていたという。ジプシーと聞いてもピンと来ない柳さんには、だからなんだとしか思えなかった。
 自転車を走らせながらその木下のことを思いだすと、また不愉快な気持ちになった。木下は柳さんの話を聞いたあと、「う~ん」と顔をしかめて言ったのだった。
「せっかくたくさん話を聞かせてもらってなんですけど、ちょっとこれは、記事にならないですねぇ……」
 木下によれば、たとえアパートを与えられたとしても入りたくないと言う柳さんは、自ら好んで今の生活をしているように思える。つまり、柳さんの話を書いても、やむなくこういう暮らしに追い込まれた野宿者の気持ちを代弁するような記事にはならない、ということだった。聞きたいのは、現代社会の不条理を痛みとともに読者に突きつける、そんな深刻な話だという。
「だって、そうじゃないですか? 好きに暮らして、それでいよいよ病気になったら、施設に入るか入院すんですよね? 生活保護を受ければ、医療費はタダだから。今まで税金をおさめてこなかったのに、結局は行政の世話になるってことですよね?」
 困ったような表情でこちらをうかがう木下の言いたいことはわかっていた。「虫がよすぎる」と思っているのだ。
 話を聞かせろと勝手にやって来て、それで一方的に聞きたい話とはちがうと言う。楽をして生きているように言うけれど全然そんなことはないし、税金だって、大企業を助けるためというわけのわからない「助け合い消費税」は当然払わされている。煙草税に関しては人一倍払ってる。それに、野宿の人間が入院するときというのは、柄本さんのように大概もう助からないところまで病状が悪化したときだ。さすがに腹が立って、柳さんはこう言って追い返したのだった。 「おれは、あんたの記事のために生きちゃいねぇんだよ。帰れ。もう二度と来んじゃねぇ」

(続きは本誌でお楽しみください。)