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「もしもし。内山さん? 渡辺やけど、今週は何がいります?」
 問屋の渡辺から、注文を訊ねる電話がかかってくるのは、夜の九時と決まっていた。
 電話に出て、帳面を開き、細かい文字で書かれた商品と売り上げの金額を指でなぞりながら、間違えのないように注文する品の名前を、幾度も高い声を出して繰り返し、また相手にも復唱させて伝えた内山敬子は、傍近く置かれた時計を手にとり、皺だらけの目を細めて時間を見た。
 いったい、いつ頃から渡辺が九時ちょうどに注文を訊いてくるようになったのか、敬子には思いだそうとしても思いだせなかったが、どうやら問屋の持つ販路の中でも、敬子の暮らす島が最も遠いことから、注文を訊ねる順番も遅い時間となるようだった。この習慣となった注文訊きは、毎週の水曜日、遅い夕食を終えた頃に、居間の畳に置いた電話の前まで、ここ数年来辛い仕事となっている歩行を彼女に強いるのだった。
 時計の針はそれぞれ九時と五分を指している。夏ならばこれから風呂に入るのだが、まだ五月に入ったばかりで、夜ともなると少し寒い。そのため風呂に入らず寝ることにした敬子は、居間から、商品棚や冷蔵庫の置かれた店の方にサンダルを履いて下りていった。曲げるたびに関節が痛み、足首のくびれが見当たらないほどむくんでいるため、すばやく踏みだすことのできない足を苦労して動かしながら、彼女は店の壁際に向けてあるいていく。そして電気のスイッチに手をやって灯りを消し、すぐ横に立て掛けている棒を手にして、飲み物や野菜が陳列してある冷蔵のケースに向かった。ケースの上部には、冷気を逃さないための被いのビニールが、ちょうど巻物のように収められていたが、背の低い敬子にはそこまで手が届かなかった。それで彼女は鳶口(とびぐち)を伸ばし、先端についた鉤で、被いの取手を引っかけようとするが、暗いためと、手の震えのために、なかなか鉤は取手に引っかからずにいた。
「いっちょん(少しも)届かんで、どうも歯がゆかね」
 手を伸ばしながら敬子はつぶやいた。
 しばらくのあいだ彼女は暗闇の中で鳶口を上や下に動かし、ようやく被いを下ろす。この取手を捕まえるための煩わしい作業を、敬子は四十年以上のあいだ繰り返していた。
 表の引戸と裏口に、それぞれ鍵をかけると、敬子は居間の畳に手をついて、足の関節をいたわりながら慎重に上がる。そうして、ガラス障子で上がり口も閉め切ってしまうと、テレビの後ろにある壁のかけ時計を見た。だが彼女の皺に覆われた目は時計の上にながく留まってはおらず、すぐに押入れの方に向けられた。蒲団を出し、その上で眠る以外、もう敬子にはすることがなかった。
「枕の、どけあったとやろか?」
 低い、自分だけに聞こえる声で敬子は言った。鼻からずり落ちそうになっている眼鏡の奥で、いまにもつぶってしまいそうな目をしょぼしょぼとさせながら、片方の手に毛布を持ったまま、しばらく彼女は押入れの中を探していた。そうして、頭を上げて部屋を見まわした彼女は、机の向こうの安楽椅子の上に放りだされているのを見つけた。
 蒲団を敷いて寝間着に着替えた彼女は、なお寝るための細々とした準備を、緩慢な動作でつづけた。どうせ、夜中に目をさますのは分かっているが、用を足しに便所に行き、化粧も落とし、枕もとには、灯りを点けずに済むための懐中電灯を置いておく。眼鏡を机に置くと、手でその上を探って洗浄剤の入ったコップを取り、入れ歯を外して中に浸した。それでやっと準備を終えた彼女は、蒲団の中に足を入れると、電灯の紐を引いて灯りを消した。いよいよ寝るまえに、彼女は机の上から取って懐中電灯の横に置いておいた時計に、もう一度目をやった。そして蛍光塗料の緑色に光る針で時間を確かめると、髪の毛の薄くなった頭を枕に落とした。
 彼女の肉体のうえに老いがあらわれてきだしたのは、七十をすぎた頃からだった。その頃には、まだ彼女は全身を覆う倦怠や膝の痛みといった老いの特徴に気を配り、しだいに不便なものとなっていく身体に、どうにか馴染もうと努めていた。それはちょうど、馴れた服を捨てて、代わりに自分にはまるで合わない丈と幅の服へと着替えるようなものだった。そして新しい服が窮屈であるか、あるいは大きすぎるものであるかにかかわらず、じき合わないなりに自分の持ち物だという意識でそれを受け入れることができるのとはちがい、もう八十四にもなるというのに、敬子は自らの身体の衰えに対して、日々おなじ程度の、決して軽減されることのない不具合と違和を感じていた。
 そのため、彼女にとって睡眠は大事なものだった。なぜならば、眠っている短い時間だけ(朝は早かった。五時前には起きだして身支度をし、朝の食材を買いにやってくる客を待っていなければならなかった)、彼女は自分の重たい足も、容易に上がらない腕も、薄くなった髪の毛も意識しないでよかったからであり、また昼に訪れる睡魔から逃れるためにも、この夜のあいだは眠っていなければならなかった。彼女は一度、レジスターの前の椅子に腰掛けたままいつしか眠りこけ、そのまま前に倒れ込んでしまったことがあった。そのときに打った額には痣ができ、何カ月も消えなかった。身体が前に倒れかけたとき、目をさましながらも支えきれなかったというこの経験は、敬子に自らの衰えを強く意識させたのだった。
 だが、昼のたびに襲ってくる抗えない眠気は、どうしたことか夜にはなかなかやって来ず、朝方まで寝られないこともたびたびのことだった。いまも彼女は、寝る際の癖である片腕を額に乗せた格好で、じっと目を閉じていたが、やはり眠ることができずにいる。
《誰かに、言わんばならんことのあった気のするばってん、それは、いったいなんやろうか? 誰?……ああ、そう、そうたい、美穂に言うとやった。なんやったろか、吉川ん家のこつば、言うはずやったとばってん……ああ、そう、家の屋根んことじゃった。ばってん、美穂は起きとるとやろうか? 電話ばかけてみようか……》と、目をつぶり、身を蒲団に横たえた敬子は考えていた。
 寝つけない夜には、彼女はよくこうして考えごとや、むかしあったことなどを思いだした。するとしだいに、意識は明瞭な輪郭を保ったままで、自身気づかぬうち夢の中に滑りこんでいく。そして、その夢の中で彼女は、自分の身体を厭わしいとも思わず店に立ち、とうの昔に居なくなった家族とことばを交わすのだった。歳をとってから敬子はよく夢を見た。そしてその夢というのも、ほとんど脈絡のない、断片的な景色や会話が順序も持たずに現れては消えるようなものだった。若い頃に、疲れ果てて眠った夜などにはよく、切れぎれの、緊張を欠いたゆるやかに連なる短い夢を見たものだったが、それがいまの敬子にはほとんど毎夜のことなのであった――なぜなら、彼女はいつも疲れていたから。
 このときも彼女は、最近にあった出来事を思いだし、それを、産んだ娘のひとりに電話で伝えようと考えていたのを、思いだした。《吉川ん家の、屋根の抜けっしもうとるって、ケン兄の言うとって、それば伝えんといかんじゃった……どうやろうか? これから、電話ばしてみようか?》
 彼女は枕から頭を上げて、電話機の方にかおを向けた。
 だが、《うんにゃ。もう遅かけん、また今度でよかろや》と胸の内でつぶやいて、また目を閉じた。
 最近にあった出来事というのは、敬子の生まれ育った家――内山家の三男であった宏のもとに嫁ぐまで暮らし、その後は兄である智郎が家長として、妻の佐恵子と住んでいた吉川家の古い家が、昨年の台風で屋根を破られてしまい、いまでは二階から下の土間まで、すっかり見通せるほどの穴が開いている、と、家の傍を通りがかった親戚が教えてくれたのであった。
「横に坂のあるやろうが? そこば、ずぅっと下っていきよったらさぃ、吉川の家の屋根の崩れて、窪みのでけとるとの見えるとよ。よおっと見たら、瓦ん屋根のところに穴のほげよって、白か砂やらごみやらの、そこから家ん中に雨と一緒にどんどん落ちよっとじゃなかろか?」
 吉川の本家の男であるケン兄は、久しぶりに敬子のもとを訪ねてきたときに、そう話した。また、彼はこうも言っていた。
「だぁれも、もう住まんけん、家の崩れっしまいよる……どうな? 佐恵子姉さんな、元気しよる?」
《さあ、元気しよるやら、どうやら……美穂のこないだ来たときには病院ば変わって、そこにずっと入って寝とるって、そがんに聞いたばってん……》と、敬子はいつしか寝入りながら、ケン兄に向かって話していた。だが、すぐケン兄の姿はどこにも見えなくなり、彼女自身も、それまで話していた店の中ではなく、どこか広々とした人通りの少ない道に立っていた。
 彼女の後ろには広い駐車場があり、その横に大きな扉が開いたままになっている建物があった。彼女は、自分がだれかの通夜にやってきたことを思いだし、中に入っていった。最初に入った部屋は薄暗く、だれか、彼女の知らない若い女たちが忙しく立ち働いており、奥の、おそらく棺が置かれているだろう部屋の扉は閉まっていて、そちらの方では、聞き馴染みのある親戚たちの笑い声や話し声が聞こえていた。
 中でもひときわ、しきりにだれかを呼んでいる大きな声が耳に入ってくるのだったが、それは疑いもなく兄であったため、敬子は驚き、また嬉しい気持ちが込みあげてくるのを感じた。《会えるとの、もう十何年ぶりになるやろか? こがん嬉しかことのなかよ、久しぶりに話のできるなんて!》と考えながら、兄に会うべく彼女は閉まっている扉の方へ急ぎ足で(両方の足は軽快に動いた)歩いていき、中に入ろうと思ったが、立ち働いている見知らぬ女のひとりが背後で呼び止め、「何かのご用ですか」と言った。敬子の方も、どういう理由によってかは分からないが、なるべく詳しく話さなければならないという気持ちになりながら、娘の美穂を知らないか、と言った。「たぶん、通夜に来とると思うとばってん、どこに居るやら分からんからですね、呼んでもらえんでしょうか? あの、吉川の古か家のあるとばってん、あれがこないだの台風で、屋根の崩れっしもうてですね……」
 そして見知らぬ女に向かって、美穂の年齢から背格好、さらに自分の産んだ子であったが、まだ赤子のうちに兄夫婦のもとへと養子に出したことなどを、どうしてこんなにくわしく話しているか自身でも分からないまま説明しながら、敬子は扉の向こうの話す声に耳を傾ける。しかし、聞き馴染みのある親戚たちの声の中に兄のものを聞くことはできず、やがて「腰の痛か、痛かよ」という、それらの景色とはまるで無関係なことばが、夢と現実とをはっきりと分かちながら、そしてまた彼女の目を開かせながら、口から漏れ出てきた。
 敬子は大きく息を吐くと、蒲団から出されていた腕で腰をさすり、もう一方の腕で自分の下敷きになっていた蒲団を身体の上に掛けなおすと、枕もとの時計を手にとり時間を見た。まだ蒲団に入ってから、幾らも経っていなかった。
「ああ、寒か」
 喉に痰を絡ませながら彼女はそう言って、足の辺りを包むようにしていた毛布を胸まで引き上げた。そして、痰をきろうとして、喉の奥から響くような唸り声を上げた。敬子は自分が、さっきまでどんな夢を見ていたのか思いだそうとした。だが、それはすでに曖昧な像としてしか頭に思い描くことができなくなっており、漠然と何かが取りこぼされていったという意識だけがあった。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→受賞者インタビュー 記憶を縫う/古川真人]